同じを喜び、違いを越える

よく街で見かける女子高生たちが、こんなことを言い合っている風景に出会います。「○○というお店の△△というケーキ知ってる~?あれ超おいしいよ~。」

「ああ、知ってる知ってる~、私もあれ大好きなんだ~」こうやって、二人は嬉しい気持ちになって話しが盛り上がるのです。

それは、互いが同等の立場で無理なく気持ちを認め合うことができたため、分かち合いによる安心を得ることができるからです。

「私たち感性が一緒だねえ」と思えることで、相手から攻撃される心配が少し減るわけですね。同じということはそうした安全さを内在しているのです。

もしも、「なにそれ?知らな~い、そんなおいしいケーキがあるの~?」と言われたら、一度是非食べてみて欲しいと言うはずです。

そうして、確かにおいしかったと言ってもらうことで、自分の感性は正しかったということを証明することになって、それがまた安心を得ることになるのです。

しかしその一方で、何から何まで好みや考え方が同じだとなると、今度はちょっと居心地が悪くなったりするのです。

それは自分という存在の個別性が怪しくなってきてしまうからです。自分は人とは違うということが自分の大切な存在価値とつながっているからです。

「○○ちゃんはピンクが似合うよね~」「そう、ありがとう~、△△ちゃんは赤が似合うね~」という感じで、互いの違いを尊重しあうことでそれを楽しむことができるのです。

ところが、この違いというのは尊重しあっているうちはいいのですが、ちょっとしたことで攻撃しあうことになる可能性を多分に秘めています。

実はここに私たち人間のジレンマがあるのです。違うということが自分としてのアイデンティティを作っているにもかかわらず、それは攻撃されて傷つけられる危険を常にはらんでいるからです。

傷つけられる可能性は必ず人を不安や恐怖に陥れ、心の平安を得ることはできなくなってしまいます。それが自分を幸せから遠ざけてしまうのですね。

大切だと思っている人との違い、実はそれこそが苦悩の根源だということを深く理解する必要があると思います。

違うということが分離をささえている

もしも誰かが利益を度外視してホンモノとの違いを識別できないくらい精巧な偽札を作ったとしたらどうなるでしょうか?

どんな熟練した人の目も、最もすぐれた偽札発見器を使っても、どうにもホンモノとの違いを判別できなければ、それはもう偽札ではなくなってしまいます。

原理的には、同じ番号のお札が二つ以上あったら、そのうちの一つ以上は必ず偽札だと言えるわけですが、でもどれが偽札かは分からないのですから、ホンモノとしか言いようが無くなってしまいますね。

つまりこの世界における、ホンモノ、ニセモノとはその程度のものでしかないということです。個々の違いを知覚することができるということが大前提だからですね。

ではホンモノとはどういうことなのでしょうか?違いという概念がなければ、ホンモノとかニセモノといった概念もありえないということです。

違いがあると認めることができるのは、知覚を使っているからです。私たちは知覚によって、あらゆるものに違いがあると思い込んでいるのです。

もしも知覚を使わなかったとしたら、どれがホンモノでどれがニセモノなのか、全く分からなくなるし、違いがないということはすべてが同じだということになるのです。

すべてが同じということは、すべては一つということです。自分の思いと人の思いに違いがなくなると、それは一つになってしまいます。

それこそが実在の世界です。私たちは自分と人とは違う存在だと思い込んでいますが、知覚を使わなければ互いの違いというものは消えうせてしまうのです。

それが本当は自分しかいないということです。しかしその場合の自分とはこの私ではなくて、みんなだということです。

みんなが自分であるということです。それこそが究極の一体感であり、愛そのものなのです。

所有するということ

息子がまだ小学生のころ、彼は普通の男の子と同じようにテレビゲームに熱中していました。しかし、そうしたゲームというのは大人が買ってもそれほど安くないような価格でしたので、本人が買ってもらえる数には当然限りがありました。

そうなると、どうしてもやりたいゲームがあると友達とシェアし合うわけです。子供なりの知恵というか、互いに貸し借りをして自分が持っていないゲームもそうすることで楽しむことができたのです。

ところが、その貸し借りが親の目からするととてもルーズで困ったものだと感じたのです。特に母親としては、息子が所有しているはずのゲームがいつまでたっても戻ってこないし、また買ってあげてないゲームを息子がいつまでもやっていたりするからです。

貸し借りが多重化してくると、もうどれが誰のゲームなのかも互いに把握することが難しくなって、いつの頃からか母親の支持によってみんなが自分の所有するゲームに名前を書くようになったのです。

そこまでしないと借りっぱなしと貸しっぱなしが横行して収集がつかなくなっていたのです。それでも息子たちはあまりそうしたことに頓着がないようでした。

つまり、これは僕のゲームだから終わったらすぐに返してねという強い思いがないのです。きっと、ある程度やり遂げたゲームを返してもらう必要など感じてないということだったのかもしれません。

そこが親が持っている感覚とかなりずれているようでした。自分のものは自分のもの、人のものは人のものというこの当たり前の感覚が子供たちにはあまりなかったのです。

こうした状況を見ていたときに、所有するということがそれほど大事なことだろうかと考えさせられたのです。

どうも所有するということにかなりの執着というのか、思い入れがあるようです。多くの戦争の目的は、領地の争奪戦だったというのも頷けます。

そのためにたくさんの人の命が犠牲になったということは歴史がはっきり物語っています。私たちは、かなり高額なクルマを買ったりしてマイカーなどと呼ぶ習慣がありますが、月に一回くらいしか乗らないのであれば、所有しなくてもクルマを使う手段はいろいろあるはずですね。

音楽CDやDVDなどはもうすでにレンタルしたり、ネットからダウンロードして利用するということがかなり一般的になってきています。

きっとこれからの社会では、人々の心が進化することで、所有することにあまり強い価値を見出さなくなってくるのではないかと思っています。

みんなでシェアするという発想はとても合理的ですし、それだけ争いごとが減るのではないかと期待しています。みなさんはどう思われますか?

主従関係を明確にしよう その2

昨日のつづきです。

身体が心を作り出しているという考え方を手放して、そのまったく逆である心が身体を使っているという主従関係を認める必要があるというお話しをしました。

身体というのは何もしませんし、何もできないのです。何の能力もありません。実は見ることも聞くことも触ることも本当はできはしないのです。

お腹がすいたと感じさせているのは身体ではなく、自分の心の思いなのです。自覚がないので分からないのですが、まず空腹という思いをつくりそれを身体に伝えます。

身体はそれをそのまま身体としての表現に変換して伝えてきた主人に返すだけなのです。そこから自分で自覚できるお腹が減ったという状態が発生するわけです。

梅雨の時期に湿気が多くて何だかうっとうしいというのも、身体がそう感じているわけではありません。うっとうしいという思いがまず心の中にあるのです。

それを身体に伝えることで身体はうっとうしいという感覚を返してくるだけです。だから、身体から来ると思える感覚、苦痛、快感などは全部自分の思いを返してきているに過ぎません。

目の前にすばらしい大自然の景色が広がっていて、なんてきれいなんだろうと見るのは、そうした自分の思いを外部に投影しておいて、それを肉体の目に見させるのです。

肉体の目はただそれが見えているという信号を送り返してくるだけです。だから、どんな知覚も身体がやっていることではありません。

自分の内側にある心の中の思いを身体を通して外側から取得していると錯覚しているのです。これが真実なのです。

結局、自分の思いだけがこの世界を形作っているし、身体だと思える自分についても同じことが言えるのです。元々あるのは思いだけです。それ以外のものはことごとくあると錯覚しているに過ぎません。

もしも本当に美しいものを見たいのなら、身体に美しいものだけを見させるように決意すればいいだけです。きれいな音楽、すばらしい景色、愛に溢れた人たち、そうしたものに囲まれて生活したいなら、そう心から思うだけでそれは実現するということです。

主従関係を明確にしよう

主従関係といっても、人と人との間の話しではなくて、心と身体の関係のことです。私たちは誰でも心という概念を知っています。

見ることも触ることもできないのに、それはどこかにあると思っています。科学的には、脳の働きによって心というものが発生すると考えられているかもしれません。

ということは、脳というのは身体の一部ですから、身体が心を作り出しているということになりますね。身体あっての自分の心という発想になります。

つまり、身体が主で心が従ということです。そのことを証明するかのように、私たちは身体から来る要求に突き動かされて生活しています。

お腹が空いたという身体からの信号がくれば、何かを食べようとするし、眠いと訴えられたら寝ようと思うわけです。

今日は暖かいと身体が感じれば薄着にするだろうし、寒いと言われれば一枚上着を羽織るかもしれません。

身体が疲労したと感じれば、それ以上労働するのをやめようとするでしょうし、身体が喜ぶようなことはお金をかけてもやろうとします。

女性なら誰でも一度はダイエットに興味を持つのかもしれませんし、エステに通ってきれいな身体を保とうとします。

こうしてみてみると、自分とは毎日とにかく身体という主人に仕える家来みたいなものだと思いませんか?身体が快適と感じることをいつも選ぼうとしています。

しかし、本当は違います。脳の働きによって心があるのではなく、まず心があってそれが身体というものを従えているのです。

このことを明確にしなければなりません。自分(心)が身体を使って生きているのです。今までの主従関係を逆転させなければ本来の自分を見出すことができないのです。

つづく

「無」について

中学生になってすぐの頃に、教室の黒板の上の壁の部分に「無」という字が額に入って飾ってあるのを発見しました。

授業のたびにぼやっと見ていることがあったと思うのですが、ある日担任の先生がそれを書いたということを知ったのです。

きっと達筆なんでしょうね。字というよりも、どちらかというと絵のようなタッチだったと記憶していますが、そのときにこの「無」というものについて自分なりに考えていたことがありました。

それは、「無」は最強なんじゃないかということです。私たちは日ごろ何かを考えるとき、ああでもない、こうでもないという議論をします。

誰の言い分が一番優れているかとか、どの言葉がもっとも説得力があるのかなどと評価するわけですが、何も言わないし考えないということには所詮敵わないのではないかと感じるのです。

つまり、人が思考によって何かを説明したり解決するということをしようとするのですが、もしも何も思考しないということができるならこれが無敵だということです。

この感覚は誰に教えられたわけでもないのに、中学生の自分の心にそれがあったのです。何にしても争わず、戦わず、解決しようとしない、そうした心こそが無敵なのだという感覚です。

残念ながらそうした思いを持ってはいたのですが、日々の生活でそれを生かすことはできませんでした。そして大人になった今でも何かをいつも考えてしまいますね。

本当は考えることをやめて、すべてを手放してあるがままに受け止めることができれば、それが最強の心の状態だと分かっているのですが、実践は難しいのです。

この「無」とは結局、無我ということです。これは自我が無いということを意味するのです。確かにそれは愛の心であるため、敵は無いということになるのです。

「無」とは何もないのではなく、愛だけが「在る」ということです。そして愛以外はすべてが「無」だと言っているのです。

幼い頃の自分に言ってあげたいこと

先日自分の生まれ育った場所に行ってみて、子供のころに歩いた道や景色などを懐かしく思い出しました。実は今暮らしているところから意外に近いのですが、滅多に戻ることもなかったのです。

昔のことを思い出しながら、タイムスリップしてあの頃の幼い自分に道で会ったら現在の自分は彼に何と話しかけたりするのだろうと想像してみました。

一番伝えたいことは、君の人生は悪くないよということ。小学生のころ、目標は隠居することだと思っていた自分にそう教えてあげたいのです。

君の希望は40代半ばにして叶ってしまったよと。形は予想しているものとはかなり違いがあるかもしれませんが、心の中は会社員を辞めたときから隠居状態なのです。

働かなくても生きていけるくらいお金持ちなわけでもないのですが、毎日生きていくために労働しなければならないという思いからは、もう開放されたからです。

彼と話したらきっと楽しいだろうなと妄想は続きます。君は自分の未来を心配する必要はないよと言って安心させてあげたいのです。

だから未来のために今の時間を犠牲にする必要はないし、毎日やりたいことを思い切りやって楽しめばいいんだよと教えてあげたいです。

テストで悪い点を取ったとしても、友達と仲たがいしたとしても、そんなことは取るに足らないことだし、自分の今を大切にすることだよと言ってあげたいのです。

55年間生きてきて本当に分かるのは、自分は守られているという事実ばかりです。それを、是非とも分かってもらいたいと強く思うのです。

自分を守ろうとする必要などまったくないし、守りたければそれでもいいし、何一つ駄目なことはないということを分かって欲しいのです。

そして、そういうことを考えていたらきっと未来の自分も今の自分と出会うことがあったら、言ってあげたいことがたくさんあるのだろうなと思うのです。

でも過去も未来もない、あるのはただ今だけ。そのことだけは変わらずにいるのだろうなと思います。

自分中心は孤独

人との関わりの中で、何となく人の意見や気持ち、相手の都合を優先してしまうという自覚を持っている人は多いものです。

特にセッションにいらっしゃるクライアントさんにはそういう人が多いかもしれません。そうやって、自分を優先することにブレーキをかけて生活している人が結構いるのです。

自分よりも人を優先するというと聞こえはいいのですが、実はそれも自己中心的な考え方からくると気づいている人は少ないかもしれません。

人を優先させるのではなく、自分の考えを優先させてみてくださいと伝えても、なかなかできないものです。そこには、人を優先させるという自分の考え方を優先しているという事実があるからです。

私たちは形に捉われてしまう傾向が強いために、そうした事実に気づけなくなってしまっていることが意外に多いのです。

ここにあるホワイトボード全体がこの世界だとすると、自分はこの中でどこにどのくらいの大きさで居ると感じるのか、描いてみて下さいとお願いすることがあります。

そうすると、その人なりの自覚でボードの端の方に小さな○を描く人もいるし、ボードの中心付近に大きな○を描く人もいます。

たとえ隅の方に小さな○を描いたとしても、実は自分を中心にして世界を見ていることには違いないということに気づく必要があります。

実はボードのどの部分に自分を描こうが、本質的には自分が中心であることには変わりないのです。なぜなら、自分から周りを見て、自分がセンターにいるのか端にいるのかを判断しているだけだからです。

その見方そのものが自分中心であると言うことなのです。 自分をいつも中心に見ていると、周りと分離しているということを意味しているのでその心は常に孤独です。

私たちの誰もがこの孤独感を持っていますが、自覚がどれだけできるかという点では人によって異なるのです。

私たちが本当に孤独から開放されるためには、ボードの中の自分をボード全体とみなすか、ボードの中に個の自分はいないと気づく必要があるのです。

そうした知覚の仕方ができるようになって、初めて孤独感つまり恐怖から開放されて本当の心の平安を手にすることができるようになるのです。

未来のために生きない

私たちは「今楽しむことができたらそれでいいじゃない。」と誰かに言われたら、アリとキリギリスのキリギリスのようにはなりたくないからと反論したくなるものです。

暑い夏の間にせっせと働いて、食べ物がなくなってしまう冬に向けて、食料を蓄えることが大切だということですね。

つまり、夏休みにめいっぱい遊んで二度と戻ってこないその年齢の夏休みを満喫したとして、二学期から始まる勉強で遅れをとってしまったら困ると、そう親は考えているのです。

だから子供の将来のために勉強しなさいと言うわけです。子供が勉強することをもちろん否定する必要はありませんが、その勉強は未来のためではなく今を充実するためであって欲しいのです。

今この瞬間に子供が興味を向けているものがあるのなら、できるだけそのことに時間を使わしてあげて欲しいのです。

大切な今という時間を犠牲的な思いをさせることに使って欲しくないということです。今を犠牲にする人は今の続きである未来の今もきっと犠牲の中にいることになってしまいます。

過去も未来も大切ではありません。昨日までの自分の人生のことをきれいさっぱり忘れてしまいましょう。自分は今朝生まれたと思うことです。

そして、明日以降の未来というものがあるという思いも幻想だと理解することです。つまり、今朝生まれた自分が今日だけを生きているとするのです。

未来のために生きないということは、過去のために生きないというのとまったく同じことです。なぜなら、私たちは過去の満たされない思いを解決するために未来に期待するからです。

過去と未来がつながってしまっているということです。その間にある一番大切な今という時間のことを忘れてしまっているのです。

今日のためだけに生きるということを毎日実践しましょう。明日のための準備も今そのことに集中することで、今日のために生きることになるのですから。

大宮八幡宮

昨日吉祥寺のオフィスからクルマで20分くらいのところにある大宮八幡宮という神社に参拝に行ってきました。少し前に、あるテレビ番組で東京のへそと言われている神社があると知って調べていたものです。

神社などという場所には今までまったくといっていいくらいに縁がないと思っていたのですが、阿部敏郎さんの「かんながら」という本を読んで少し興味が出てきたからかもしれません。

その神社のすぐ隣が幼稚園になっていたのですが、それで今日突然思い出したことがあったのですが、私がかつて通っていた氷川幼稚園というのも氷川神社の境内にあったのです。

今になって思うと、園長先生が神主さんのような姿をしているのを見たことがあるような感じもしてきました。

どうしてだが本当の理由は定かではありませんが、神社と幼稚園は同じ敷地内にあったりすることが多いかもしれませんね。

お賽銭を投げ入れて、いざ参拝するときに目の前に唱えるべき言葉が流暢な筆文字で書いてあるのですが、全部意味は分からないものの「神(かむ)ながら」という部分を見つけてびっくりしました。

何と阿部さんの本の題名と同じ言葉がそこに記されていたのです。本当は全部の意味が分かったらよかったのですが…。きっと何か大切なことが書いてあるのでしょうね。

そして帰る途中にもう一つの神社のことを思い出しました。帰り道の道沿いにある高校に自分がかつて通っていたころ、学校から程近いところにある春日神社という神社で丸太を借りたことがあるということでした。

文化祭のときに喧嘩神輿という出し物をみんなで作るために、その神社で木材を調達したのでした。そのままの状態で返してくださいねと宮司さんに言われたのに、のこぎりで切ってしまって。

あの時は若気の至りで、本当に無責任なことをしたもんだと思います。後で担任の先生が自腹を切ったらしいですが。明日にでも、お礼参りに行ってこようかなと思っています。