自分の名前とは?

私たちは、誰もが自分に固有の名前が付けられていることを知っていますね。私の場合には、気づいたら、「おおさわふじお」がそれでした。

そのことに殊更疑問を持つでもなく、何となく自分の名前ということでそのまま大人になってしまったわけですが、この自分の名前とは、一体自分の何に対して付けられているのでしょうか。

私は自分の肉体に名前が付いていないことを知っています。私の頭や目、首や手足などには名前など付いていません。

加えて、私の思考や感情に対しても、そして私が最も私自身ではないかと感じているこの私の意識に対しても、名前などないことを知っています。

では本当に自分の名前とは、自分の何に対する名前なのでしょうか。それは、自分が何となくこれが自分だと思っている自己イメージ、あるいは自己の全体像、人物像に対するものなのです。

それは、自分が作り上げたイメージでもあり、またそれは他人が作った人物像をベースとして作ったものだとも言えます。もしも、それに名前が付いてなければ、面倒な説明を延々としなければならなくなります。

例えば、日本のこの地域で男性として生まれて、こうした両親にこのようにして育てられて、こういった教育を受け、このような信条を持って人生を生きてきた、この人物というように。

その総称として、名前が付いているということです。しかし、私は自分がその自己イメージそのものではないと分かっています。

私というものに一番近いのは、私という意識だと知っています。その私の意識には勿論名前など決してつけられてはいません。

それならば、本当の私は決して名前などついてはいないと分かります。結局「私」と表現したときに、名前のついている人物としての私と、名前などない意識としての私の二つがあるということに気づきます。

あなたは、「私」と表現するときに、どちらの私のことを想定して、私という言葉を使うでしょうか。もしも、私には名前などないと分かるなら、あなたは本当の自己に気づいていることになります。

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