自分との隙間を見出す

映画館で、スクリーン上に映された映像と、スクリーンそのものとは互いに距離はゼロでくっついているのですが、それでもスクリーンは映像の影響を受けることはまったくありません。

それは、あなたの本質と、あなたという人物およびその人生との間にも言えることなのです。ある人格を持ったあなたという人物が、あなたの人生の中にどっぷりと浸かりながらを生きているわけです。

けれども、そこには見ることも触れることもできないながら、スクリーンのようなバックグラウンドとしてのあなたの本質が介在しているのです。

それは近すぎて、あまりにも当たり前過ぎるために全く気づくこともできないのです。距離はゼロなのですが、接触すらしていません。

それは例えて言えば、水の中にあって濡れることのない蓮のようなものです。あなたが、これが自分だと信じて疑うことすらしない「私」、それは残念ながら思考の産物なのです。

生まれたときからの周りからの洗脳のシャワーを浴び続けた結果、これがどうも自分らしいと信じてしまったのです。それが、あなたの身体であり、少ししてあなたのマインドとなったのです。

あなたは自分の本質、本当の自分に気づく前に、徹底的に洗脳を受けて、あまりにもそれに順応してしまった結果、自分のことは分かっていると思い込むことになったのです。

強く思い込むと、それは本人にとっての真実となってしまうのです。一度そうなってしまったら、何かよほどの力が働かない限りは、そこに疑問を持つことすらしなくなってしまいます。

しかし、注意深く生きていると、あなたが何から何までただ信じているだけだということに気づくことができるのです。その中には、自分とはこういう人物だということも含まれます。

そうして、信じることを一旦脇に置いてみると、ものすごい不安がやってくるかもしれません。自分は今まで生きてきてこれだけのことは明確になっていると思い込んで来たからです。

自分は何も知らない、一番わかってないのは自分の正体だったと気づくとき、非常に幸運なチャンスがやってきたことになるのです。

自分の本質に気づく前に、是非試してみて欲しいことがあるのです。それは、自分という人物と少し距離を置いて、常に自分に注意の目を向けるようにするのです。

そのようにしてしばらく生活していると、徐々にですが人生にどっぷり浸かっていたそれまでの人生と、ニュアンスが変化してきます。

なぜなら、それまでの自分との隙間が見つかるからです。それは実に驚くべき変化を人生の中にもたらすことになるのです。

深刻さが少なくなり、人物としての自分を丸ごと受け止めることが当り前にできるようになってきます。これこそが真の癒しなのです。

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