信頼と罪悪感は反比例する

信頼とは、何かを信じたり信じなかったりすることとは、まったく異なる次元にあるものです。

「信頼する」というと動詞になりますが、信頼が在る状態のことをいうのではないかと思います。信じることは、何か特定のターゲットがあるのですが、信頼にはそうしたものはありません。

あるいは都合のいいことが起きたり、都合の悪いことが起きたりする、そのすべてをひっくるめたもの、<存在>そのものが信頼のターゲットなのかもしれません。

信頼が深くなってくると、物事の善悪や正不正に関心を持たなくなっていくのです。そのために、自分の言動を悔やんだりして罪悪感を持つことが減ってくるのです。

逆に言えば、罪悪感まみれのマインドというのは、存在に対する信頼が小さい状態であると言えるのです。

だからもしも100%の信頼があるのなら、罪悪感は消滅してしまうのです。どこかの宗教が、原罪などと言って、人は生まれながらに罪深いというなら、まったくもって信頼のない状態だと言わざるを得ません。

自分の内側をじっくり見てみると、信頼がどっしりとあるのか、その逆に罪悪感がずっしり横たわってるのか、気づくことができるはずです。

いずれにしても罪悪感を恐れる代わりに、信頼の方に意識を向け続けることをお勧めします。信頼が増えれば自然と罪悪感は小さくなっていくからです。

“信頼と罪悪感は反比例する” への2件の返信

  1. 極端なことは重々承知の上ですが、礼儀、マナー、常識etcと対人関係での暗黙の社会的な取り決めを一切蹴飛ばして相手のことを考えずに言いたい事を言う、馬の合わない人と表面的に話を合わせたりしない、怒るときは怒るとふてぶてしく生意気にやってますけど、以前よりも段違いに元気ですね。

    相手の立場になると罪悪感が湧いてくるんでしょうけど、罪悪感を感じないように相手の顔色を伺いとんでもなく本音に蓋をしてたんですねぇ。
    もちろん距離置かれたりしますけど、それは愚痴が多くて面倒事を持ち込むタイプの人がどんどん自分の人生から退場してるという感触です。
    本音に蓋をしないでいる結果はお任せするスタンスだと、期待も打算もないので
    あっさりとそう受け止められます。
    代わりに新しい関係が芽生えたりで上手いこと巡るものだな、と。
    極端な態度を取らずにいられる関係しか残らないんですね。

    自分の中で作り上げた善悪や正不正の無価値さに気づけて、バカバカしい生き方はさっさとやめて本音全開となれたのはラッキーですね。
    やっぱりそこは存在への信頼なんでしょうかね?
    何がどうなろうともどこかで人智を超えた存在が面倒みてくれるくらいにこの世は優しいと感じますよ

    長文失礼しました

    1. 存在への信頼が大きく深くなってくれば、この世の優しさに触れることができるのでしょうね。天国は何処かにあるのではなく、それこそが天国だと思います。

      ますます無防備になってきましたね!

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