気づきのチャンスは常にある

人生においては、喜ばしいことばかり起きるというわけではありませんね。悲しいこと、困ったこと、起きて欲しくないことも起きるのです。

けれども、そんなときが最大のチャンス到来なのです。一体何のチャンスかというと、大切なことへの気づきを得るチャンスなのです。

私たちは、嬉しいことや都合のいいことの中では、気づきを得ることがとても難しいのです。なぜなら、そのような場合には無意識的になる傾向があるからです。

一方で、追い詰められたらそこに意識を集中することができるのです。そして、事態から逃げずに、そして心理的な対処をせずにいるようにするだけで、必ず気づきがやってきます。

ところが自我というのは、問題が起きればすぐにそれを何とかして解決しようとするか、そこから逃亡しようとしてしまうのです。

そうして大切な気づきのチャンスを台無しにしてしまうわけです。もしも取り立てて困った事態が起きなくても、自我の根本的な問題に気づいているなら、いつどんなときでも気づきのチャンスがあるはずです。

自我は、常に不安と孤独を持っています。それなしには自我は成立しないのです。そのことに気づいていられるなら、何があってもなくても、追い詰められた状態にいることができます。

それこそが本当に自我から解放される大きな気づきを得る道なのです。辛いことが起きたら気づくチャンス、嬉しいことがあったら大いに喜べばいいのですから、どちらにしても人生は得ですね。

5 Replies to “気づきのチャンスは常にある”

  1. 最近、夏風邪の菌が耳に入り酷い中耳炎と蓄膿症になりました。(まだ治療中ですが)
    耳がほとんど聞こえない三日間を過ごしましたが、まさしく今日のブログの内容にドンピシャでした。
    余計なものが聞こえない静寂の状態で過ごした三日間はそれはそれで有意義でした。
    耳の痛みとふらつきと高熱が伴いましたがその症状を見つめ、聴力がほとんどない状態でもぐるぐる回る思考も見つめているうちにそれらと同化しないでいられるようになったというか。
    強制的にもたらされた静寂が大いに役立ちました。きっともともと静寂の側に立ってたんでしょうね、ずっと。
    常日頃から本当は静寂の側に立っている気づいていられるように嬉しいことも困ったことも意識的に見つめようと思います。

  2. 最近、夏風邪の菌が耳に入り酷い中耳炎と蓄膿症になりました。
    耳がほとんど聞こえない三日間があったのですが、それはそれで得るものが大きかったです。
    余計なものが聞こえず静寂の中で過ごしたんですね。
    耳の痛みと高熱とふらつきが伴いましたが、それらの症状を見つめ、ぐるぐると回る思考も見つめているうちに同化が外れてきたように思います。
    強制的にもたらされた静寂のお陰で、本当はきっとずっとこの静寂の側に立っていたんだと気づきました。
    以来、何をしていても、色んなことを考えていても、それを見つめている感覚があります。
    常日頃から見つめ続けて気づいていられるように在りたいと思います。

    1. それは、なかなか大変な症状になったものですね。首から上の不具合というのは、特別いやな感じがするものです。

      それでもその静寂を受容することで、日頃気づけなかったことに気づくことができるのですね。

      ピンチの後にチャンスありというけれど、ピンチのときにチャンスありですね!

      1. ありゃ!コメントが反映されてなかったと思って連投してしまいました。

        先程、病気とは別に困ったことが起きてついその状況と同化してしまいましたが、ブログの内容を思い返して事態から逃げることも心理的な対処をすることも放棄して、ものの一分ほどですぐに静かになれました。
        自分の体調のこともあるので現実的な対応はせざるを得なかったのですが、すぐに事態は収まりました。
        事態に飲み込まれていた一分間の間にこしらえていた問題意識はやっぱりこしらえていたものに過ぎなかったですね。

        今は外からの音は普通に聞こえますが、自分の声が反響するように響いて、世界で一番大きい音は自分の声という状態です。きっと健康な時も無意識でいて同じような状態だったんでしょうね。
        自分の思考の声があまりに大きいけど、その不自然すぎる声の大きさに気づくことなく同化しまくりでしたね。
        そんなことを思ったところです。

  3. 極端に聞こえるかもしれませんが、世の中で自分の声(思考)ほど邪魔なものもないということですね 笑。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です