道元の生い立ち

かつて日本に輸入されて、日本で独自の花を咲かせた「禅」というものがありますね。その禅僧として最も有名な一人が、道元です。

彼はずば抜けて聡明な子供だったらしいのですが、実は二歳の時に父親が亡くなり、七歳の時には母親が亡くなったのです。

そんな状況にも関わらず、彼は心の奥で「これは好機だ、もはや障害は何もない」と思ったのだとか。

「両親二人は私を愛し、私は彼らを愛した。それこそが危険だったのだ。二人ともちょうど良い時に死んだ。」

「二人は私を破壊することなく、ちょうど良い時に死んだことに、私はこの上なく感謝している」

たった七歳の子供がこんなことを理解できるなんて、とても不思議なことではあるのですが…。

けれども、誤解を恐れずに言えば、人間の最大の障害は父親であり、母親であるという事実を踏まえれば、彼は冷静な判断をしていたのです。

彼は親からやってくる期待を裏切る心配をする必要がなくなったことに安堵して、その後の人生を全く自由に生きることができたのですね。

それが彼を覚醒させたと言ってもいいのかもしれません。こうしたことを知ると、やはり癒しというのはこれまで培ってきたものを捨てていく作業だということがよく理解できますね。

4 Replies to “道元の生い立ち”

  1. 道元さんは物凄い気付きを幼いときに得て覚醒への道を歩んだのですね。大変心に響きました。私も今親として子供達に純粋な愛でないものを与えてしまい障害になっていると考えると、、、
    しかしそれを思う時間があるならひたすら癒しを進め続けることが一番ということですね。まるで涙を流しながら玉ねぎの皮を一枚づつ剥いていくような作業ですが、剥き続けていればいつかは捨て切れて、無くなり、その先には覚醒というものが待っている、、ということでしょうか。早くそこの辿り着きたいものです。

  2. 剥き続けていればいつかは捨て切れて無くなるという感覚は自我のものですね。そこはキリがないというのも事実です。そうした癒しの先に覚醒があるのではなく、覚醒はそうした努力全体を完全に見る側になれた時に起こるものだと思っています。

    1. なるほど!癒しの先にあるものではなく、その全てを含めて完全に見る側になるということ、、、教えていただけてよかったです。私はずっと勘違いしていました笑

  3. 私の著書の題名である、「癒しから覚醒へ」にはそういう意味が込められています。癒しというのは自我の癒しであり、その延長上に覚醒があるのではなく、癒しの作業と同時に覚醒へ向かうために見るということを実践していくということですね。

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