いつもと違う脳で書いています

昨日は珍しく、図書館に行って数冊の本を借りてきました。それを先ほどまでずっと読んでいたせいなのか、今何を書こうかと考えてもいつものように浮かんできません。

やはり普段読まないような本を読むと、脳の中がそれに引きずられてしまうのかもしれませんね。いつもと違う脳ミソの部分を使ったということなのでしょうか。

とても面白い本で、一言で表現すると痛快無比とでも言えばいいのか、小さいことで気分を害している自分を笑い飛ばせてしまえる感じになりました。

けれども、そうした本を読んでいても以前と違うのは、常に自分の思考を見ている別の思考の部分があるのを感じるのです。

その本の内容は、著者の実体験についていろいろと書いてあるのですが、それを読んでいても必ずどこかでそうしたことがただ起きただけなのだということを忘れずにいます。

著者はノーベル物理学賞を受賞した天才なのですが、これほどまでに魅力的な彼という人物がいたのだなと感嘆します。

しかし、その一方でそれこそが思考の産物であって、本当はそうした人物がいたわけではなくて、ただそうしたことが起きていたということだと。

この感覚は間違いなく、ここ数年強くなってきたものです。それが少しずつ定着してきているのだと分かります。

これは本当に気楽になれるのです。この現象界においては、確かに責任というものが発生するのですが、その根っこでは責任感こそ思考だと分かります。

それはとてもとても深い安堵を感じることができます。何も間違ったことはなく、何一ついいも悪いもなく、探求して出会えたものこそが本質の自己だったなんて、これ以上のハッピーエンドはないですね。

「私」が満たされることはない

まことに残念なことではあるのですが、個人としてのこの「私」が本当に満たされるということは不可能なことです。

傾向としては、「私」に構わなくなればなるほど、不満は減少するはずですが、「私」が抱えている不満をなんとかしようとすればするほど、不満は募ることになります。

何とも皮肉なことですね。この逆説的な事実とは、個人としての「私」に根本的に内在する自己矛盾と言ってもいいのです。

別の言い方をすれば、「私」に対する執着が強くなればなるほど、苦悩は大きくなってしまうということです。

個人としての「私」という概念ほど、真理から程遠いものはありません。真理とは全体性であるとも言えるからです。

それにもかかわらず、私たちがこの世界を知覚するとき、それを個々のものの寄せ集めからできているというように見てしまうのです。

その寄せ集められた卑小なものの一つとして、「私」が存在すると信じているのですから、それが満たされるはずはありません。

それなのに、私たちの努力のほとんどは、個としての「私」を少しでも満たそうとすることに費やされているのです。

その結果は惨憺たるものであって、だからこそそこに苦悩があるわけです。当然の帰結と言わざるを得ませんね。

そのことに気づいてはいるものの、どうにもやめられないのです。何かに夢中になっているまさにその瞬間、注意が自分から逸れているそのときには、清々しい開放感を味わえることを知っています。

けれども、それは短い時間だけ可能であって、いずれはまたこの「私」をどうにかしようとする想いに、乗っ取られてしまうのです。

人生はその繰り返しなのかもしれません。しかし、いつかは誰もがこの「私」という個人は思考の中での作りモノだと真に気づくことになるはずです。

すべての人が作りモノの自分から、本質の自己に目覚めることになったら、この世界の役目は終わりを迎えるのでしょうね。

思考は単に思考でしかない

自分は身体だということと同じくらい、自分は意識だということを理解している人はとても多いだろうと思います。

なぜなら、自分のことを自分だと自覚しているのは、目に見えるような肉体ではなくて、逆に物質ではない心だと分かっているからです。

けれども、自分を意識だと思っている場合であっても、本当にはそれは単に思考だということに気づいている人は、もしかしたら少ないのかもしれません。

「ここに私が居る」という自覚そのものは、意識というよりも思考の産物です。したがって、「自分は身体だ」という想いも、もちろん思考であるわけです。

その思考が基となって、その上にあらゆる思考が作られて、今の自分、一人の人物としての自分というものを形作っているとも言えます。

自分は意識だというのは間違ってはいませんが、それは思考が停止したり、消えてしまっても意識自体としての自己は残るということを示している場合だけです。

意識の上で、思考が踊り続けていて、その基盤になるものが「私が居る」、「私は身体だ」というものだということです。

「私は今カーテンを見ている」というのは、事実ではなくてただの思考です。カーテンを見ている私は確かに居る、その想いは100%思考であり、真実ではありません。

だとしたら、カーテンを見ているのは誰なのか?それは、カーテンを見ている何者もいないということです。

思考はただの思考に過ぎません。「私は今バッハを聞いている」というのも、思考です。そこには、バッハを聞く誰もいないのです。

でも思考の中に作り上げられた自分像を自分だと固く信じてしまったがために、それが単なる思考に過ぎないとは思えないということになってしまったのです。

誰もカーテンを見ていないし、誰もバッハを聞いてもいない。見るという行為、聞くという行為がこの身体を通して起きているという表現が一番適切かもしれません。

思考の外に出たとき、そこにはいつもの私はいないということです。つまり、思考の外に出ていく誰も元々いないのです。

純粋な意識が、思考を見る代わりに、意識そのものに注意を向けるときに初めて、そこには今までの私はいないということに気づくのでしょう。

だから覚醒してこの自分が消滅しても大丈夫。そこには本質の自己が、目覚めたままの自己が在るだけです。肉体の消滅を伴う死の場合にも、同じことが言えるはずです。

そう理解できれば、死を殊更恐れるということは馬鹿げたことだと言えるし、この生をできるだけ満喫しようという気持ちにもなりますね。

言葉で表現するって虚しい

意識が全体性に向いているとき、この空間というものがいつもとは違った感覚で感じられるのです。それは、何もないというよりも、何かで満ちているという感じ。

子供の頃から、何もない空間とは一体なんなのだろうという疑問があったのですが、それに対する思考レベルの答えが見つかったような気がします。

思考レベルなので勿論真実ではないのですが、それは言ってみればこの宇宙の本質は空(くう)であり、またそれは空ではないということ。

空は一体何で満たされているのかというと、存在そのものによって満たされているということができます。

あるいは、存在だけが存在することができる唯一であるため、空間も含めてあらゆる一切合財が存在そのものだということになります。

そしてその存在こそが、私たちの本質であるわけで、それは空であり、空であるということは全体であるということです。

空という、何も無いものをイメージすることはできないのですが、それでもそれこそが私たちの本質であり、それ自身だということはどこかで分かります。

初めのうちは、その空虚さを感じて恐ろしく思えるわけです。真っ暗で何の対象物もないのですから、それはとても恐怖を感じてしまいます。知覚の消滅を意味します。

けれども、空という対象物ではなくて、それ自体が自分の本質であると分かるようになると、もうそこには恐怖は存在することができなくなります。

恐怖や悲しみもなければ、喜びもない。位置や大きさもなければ時間もない。ただ存在が在るだけ。それは何とも深い静寂であり、底なしの落ち着きでもあるのです。

言葉をどれほど駆使しても、決して表現できない「それ」について、今日は敢えて書いてみたくなりました。書きながら、あ~あって思っているって、ワイルドだろ!

言葉の有用性と限界

本当は黙して語らずという状態が、最もウソ偽りが少ないわけで、たとえ一言でも口から出してしまえば、それだけ真実から遠ざかってしまうのです。

自己探求に関する本を何冊か読んでみて、そのことがイヤと言うほど分かった気がしています。まったく、伝えるということは常に新たな不満を生み出すことになりますね。

なぜなら、伝えている正にその瞬間瞬間ごとに、ああ真実とは違うことを一生懸命表現しているよ、と感じてしまうからです。

個人セッションのときに、お伝えしているそばから、ずっとノートにその言葉を書き留めてしまう方がごくたまにいらっしゃいました。

過去形で言ったのは、今現在はそんなに極端な方はいらしていないからです。そういった、何から何まで言葉を丸ごと書き留めることをやめられない人というのは、残念ながら一生懸命な分だけ、意味を心に浸透させることができないのです。

それは当然のことで、ある種速記のようなことをやっているわけですから、そのことに意識が集中してしまっているために、内容は少しも理解できなくなってしまうのです。

「この表現は面白いので、忘れないようにメモっておこう」というのならいいのですが、書き留め魔さんの目的は違うところにあるのです。

それは実は、心に浸透させないようにするための作戦であるのです。本人としては、懸命に聞き漏らさないようにと、ノートを取るのですが、深い部分では聞かないようにする戦略なのです。

極端な例をあげましたが、ごく普通にノートをとる場合でも、聞いた言葉をそのまま受け入れようとすると、伝わることはかなり歪められてしまう可能性が高くなります。

たとえば、「物事には善いも悪いもない」ということをお伝えしたとして、その言葉そのものを自分のものにして、その教えに沿った生き方を実践しようとしても、いずれは無理が来ます。

なぜなら、善いも悪いもない、という言葉そのものを理解し、それを受け取るのは思考なのです。けれども、善いも悪いもないということの本質とは、思考が停止したらということが言外に込められているのです。

従って、善いも悪いもない、という意味を思考で理解し、正しいことを教わったと思考してしまうと、もうそこには矛盾が生じてしまうのです。

言葉を発する側も、その言葉を聞く側も、言葉の有用性と共にある言葉の限界をいつも意識しておく必要があるということですね。

幻想を幻想と見抜く

アインシュタインの残した言葉に、次のようなものがあります。「現実は幻想に過ぎない。非常にしつこいものではあるが…。」

しつこいという意味は、とても幻想とは思えないし、どうやって幻想であるということを証明すればいいのか難しいということかもしれません。

幻想を幻想だと見抜く方法は、たった一つしかありません。それは、じっくりとそして正直に、誠実にそれを徹底的に見ることです。

残念ながら、しつこいモノにしているのは他でもない私たち自身であるということです。なぜなら、幻想は幻想そのものによって作られるものではないからです。

幻想とは、単に幻想ではないと信じ込むことであると言えますね。ただ、しつこいのはその信じ込む心がしつこいところから来るのです。

一度信じてしまったモノを、私たちはそれほど面と向かって見ようとはしません。なぜなら、それが真実かどうかを見極める理由がもうなくなってしまうからです。

というよりも、真実でなくなってしまったら、信じた自分を否定することになってしまうため、それはとても都合の悪いことでもあるわけです。

だからしつこいモノとなってしまうのです。現実を幻想だと見抜くことができたとしても、本当は何も都合が悪くなるようなことはありません。

その幻想の中で、肉体が消滅するまで喜んだり悲しんだりして、生を満喫すればいいだけだからです。ただそれだけのことです。

焦らずとも、いずれはこの現実は終わりを迎えます。なぜなら、幻想とは間違いなく一過性のものだからです。

そして幻想を信じてしまった自分も、幻想を幻想と見抜いた自分も、どちらにしてもその自分の本質は一過性のものではありません。だから、どちらでもいいのですね。

滑稽な自分をただ観る

私たちは、誰もが一つの人格を持っています。持っているというよりも、その人物のことを自分だと信じ込んでいるわけです。

でもちょっと待って下さい。そこをもう少しじっくり見てみると、その人物が自分なのか、その人物を自分だと信じているのが自分なのか、どっちでしょうか?

私は断言できますが、その人物そのものは私自身ではありません。それを自分だと信じている方が本当の自分なのです。

長いこと生きてきて、それぞれの年齢のときの人物としての自分というものが、確かにいました。彼は何とかこの人生を生き抜いてきました。

けれども、どの年齢の人物であろうと、それをずっと自分だと信じ込んで、それを観続けていた自分も確かにいました。

そして、人物としての自分を観ている側の自分は、人生のあらゆる時期においても、何も変化をしていないのです。

人物としての自分は、幼くて無邪気な頃から始まって、成長するに連れて徐々に大人へと変遷していったのを知っています。

そしてその変化を知っているまさにその自分は、いつもいつも意識があると自覚したころから何も変化していないということが分かります。

もしも、自分を一人の人物だと信じている自分が、その信じ込みを一旦脇へ置いて、あるがままの自分、対象としての自分ではなくて、ただこうして気づいている自分だけを観るなら、それこそが本当の自分なのだろうと思うのです。

この自分とは、「今」を見ている自分であり、「今」に耳を澄ましている自分、そして人物としての自分のことを見続けてきた、その自分なのです。

それは、怒ったり泣いたり、笑ったり感動したり、絶望したり不安にさいなまれたりして、人生に翻弄され続けてきた人物としての自分のことを、ただただ淡々と観続けている自己なのです。

誰であろうと、この自分に気づいているはずです。この自分は何ものなのかを決して説明することなどできないし、謎だらけなのですが、それでもそれはそれ自身を信頼しているようです。

信頼などできない、間抜けな自分を自分だと信じると、滑稽なことになってしまいます。けれども、それはいくら滑稽でも大丈夫、だってそれを観ているのが本来の自分そのものなのですから。

問題を排除しようとするのをやめる

私たちは、誰でも問題を見つけてしまったら、それを何とかして取り除こうとします。例えば、こうして文章を書いていても、書き間違いや表現の不備などを発見したら、それを修正しますね。

それは勿論、何も悪いことはないですし、必要なことです。逆に、その間違いを見て見ぬフリをしてしまったら、間違いを訂正せずにいることになってしまいます。

けれども、単に訂正するのではなくて、間違いを排除しよう、根絶しようとしてしまうと、どんなことになってしまうでしょうか?

それは、元々不可能なことなのに、それに挑めば挑むほど心が強迫的になってしまうはずです。私たちは、気づかぬうちにこうした文字通り間違いを繰り返しているのです。

自分という一人の人物の問題を見つけては、それを見て見ぬフリをするか、あるいは排除しようと頑張ってしまうということです。

例えば、怒りや憎しみを抱く心を問題視することから始まって、それを見て見ぬフリをして抑圧してしまうかもしれませんし、あるいは排除しようとして怒りを我慢したりするのです。

場合によっては、厳しい修行の道を選ぶ人もいるかもしれません。もうすでに、それを問題だと認識するところからして、間違っていると言わざるをえませんね。

心の癒しを始める多くの人たちが、間違ってイメージしてしまうのもこのことです。つまり、感情を開放しようとする根っこに、不要なものを排除してクリーンな心になろうとする間違った思い込みを持ってしまうのです。

いわゆるネガティブな感情それ自体には、何の問題もありません。唯一の問題とは、それを問題視して、何とかして見ないようにするか、排除しようとすることなのです。

どんなものであれ、それ自体には何の問題もないのだということに、しっかりと気づくことです。その上で、問題とはそれを見ないようにしてしまったという一点だったと理解することです。

このことに気づくとき、あらゆるからくりが見えてきます。問題とは、自分の生き方、それは自分が作り出した正しさというルールによって、作り出されていたものだったということです。

腹で何かを感じてる

そろそろ終盤に差し掛かって来たのかなと、何となく感じるときがあります。何がかって言うと、それは勿論人生です。

端的に言えば、死ぬということであるかもしれませんし、他の言い方もできるのかもしれませんが、理由は分からないのですが、何だかそんな気がします。

いくつか思い当たることがあるのですが、それは最近、昔好きだった音楽を思い出して聞いてみたり、瞑想中に子供の頃住んでいた家を外側から見てるイメージが浮かんできたりするのです。

あるいは、どことなく薄っすらと感じるのですが、「胸がいっぱい」という感覚が常時あるような気がしています。

日本人の平均年齢からすれば、あと20年くらいは生きていてもいいのですが、それは全く当てにはならないという感じがします。

この、「胸がいっぱい」というのは、表現を変えて言えば、何かを思い出しそうな感じと言えなくもありません。

あるいは、突然巨大な感謝に圧倒されてしまうかもしれないという、微かな予感のような感じとも言えるかもしれません。

数年前に少しだけ、そんな経験をしたこともあるので、単にそれをまた期待してしまっているだけなのかもしれないのですが…。

沢山の人たちの人生と、この自分の人生を比べても、誇れる部分は何もないのですが、そんなことはもうどうでもいいのかなとも思うのです。

私の場合、本当は「胸がいっぱい」というよりも、お腹で何かを感じているらしいのですが、それを言葉で表現することができません。

今日のブログは一体何を書きたかったのか、自分でもよく分からないのですが、とにかく今って貴重だなというところでしょうか。

欲望との葛藤

セッションルームから歩いて数分のところに、井の頭公園と動物園があるのですが、最近その動物園から何かの動物の鳴き声が聞こえるようになりました。

と言っても、朝と夜にたまに聞こえる程度なのですが、それがちょっと普段その辺では聞くことのできないような、鳴き声なので気になるのです。

最初は、象のはな子の鳴き声かなとも思ったのですが、今は少し大き目の鳥の声かもしれないと感じていますが、いずれにしてもあまり幸せそうな声ではありません。

動物はしゃべれないので、何かを訴えているように聞こえると、こちらが悲しい気持ちになりますね。思い違いならいいのですが…。

そのことからちょっと飛躍し過ぎるかもしれませんが、最近なぜか狼男とか、ヴァンパイアの映画を観たのですが、彼らも悲しい運命なのですね。

彼らに共通しているのは、怒りを覚えたり、性的興奮を感じたりすると、普段は人間の格好でいられるのに、それから変身してしまいそうになるのです。

狼男はケモノのように、人を襲って食ってしまいたい欲望が出てくるし、ヴァンパイアは人の血を吸いたくなってしまうということです。

それをなるべく理性で食い止めているところは、どうも人間とあまり変わらないのかもしれないと思うのです。

私たち普通の人間も、怒りや性的興奮をそのまま他人にぶつけることはいけないことだとして、理性をもって抑制するのが当たり前なわけですから。

もしかすると、人間のそうした「悪」とされている欲望との葛藤を描いたものが、狼男やヴァンパイアといった物語になったのかもしれません。

欲望そのものが悪いということはありませんが、それが自分の主人になってしまうと苦悩することになってしまうということです。

欲望は、大抵過去の体験を忘れずにいて、その中の都合のいいものをもう一度手に入れたいと思うことからやってきます。

いつもできるだけ、今に耳を傾け続けるようにしていれば、過去が追いかけてきてもそれに巻き込まれずに済むようになるはずです。

そうなったら、きっと欲望と自分の関係が逆転して、自分が欲望の主人の座でいられるようになるのでしょうね。