人は天使にはなれない

ずっと以前の辛島美登里の曲で、サイレント・イヴというのがありました。その歌の二番のデダシのところに、以下のような歌詞があるんです。

本当は誰もが やさしくなりたい

それでも 天使に人はなれないから…

そんなこと当たり前じゃないのと思っていたのですが、意外にもこれを地で生きている人って多いんだなと思うようになりました。

つまり、私から言わせると、あなたは本当に天使でありたいと思ってるんじゃないの?と突っ込みを入れたくなるわけです。

自分は、自分だけはそんな醜い考えや、人でなしな感情など、持っているはずがないと思いたい気持ちが満々なのでしょう。

人は、美しい心も醜い心も当然のごとく持っているはずなのに、どうしても自分のこととなるとそれを認めたくないという頑固さ。

いつも人にやさしい気持ちで向き合っていたいと思うのは勝手ですが、私に言わせればそれができるのなら、それは人間じゃなくて天使だと言いたいのです。

この世界はすべて相反するもの同士が一対となって、現象を実現しているのですから、美しさがあれば必ず醜さがあるのです。

下のない上とか、右のない左を神は創れなかったのです。醜さのない美しさを創れなくても当然だということにしっかりと気づかねばなりません。

美しいのも醜いのも、人としての自分の本性なのです。その一対はとても神にとっても重要なものなのです。美しさだけなら、この世界は消えてしまいます。

それを何とかしようとすればするほど、人は苦悩の中に絡めとられてしまうでしょうね。何ともしないということ、これ以外にはありません。

知覚における0.5秒の遅延

昨日のブログで、完全に自由に、何の制約も課せられない状態で、ある決意をしたときには、その決意の瞬間よりも0.5秒も早くに無意識のままに脳からの発動があるということをお話ししました。

つまり、自分が今このタイミングで決意したと感じる瞬間というのは、実に脳からの指令が出てから0.5秒も経過した後だったということです。

この事実については、驚かない人はいないはずです。一体全体、自分が決意したと感じることとは、何なのだろうと思わずにいられません。

そして、この0.5秒というあまりにも長い不可思議な遅延時間は、見る、聞く、触れるなどの知覚についても言えるのです。

自由意志による決意というのは、外的な要因を一切排除した、完全なる内面からのものであるということが言えますね。

ところが、外側からの刺激に対する気づきについても、それと全く同じようにして0.5秒の遅延をしているのです。

もっと分かりやすく言えば、どんな知覚でもいいので、例えば信号機が赤に変わったと気づくときには、実際の信号機が赤に変わってから0.5秒も経過しているということです。

そんなはずはないと思いますよね。でも、これは実験から導き出された正確な遅延時間なのです。ところが、不思議なことに私たちの気づきには、その遅延を補正する能力があるらしいのです。

つまり、タイミング的には間違いなく0.5秒遅延して気づきがやってきているはずなのに、その遅れを巻き戻して感じるようにしているということです。

この事実を知っても、私自身、にわかにああそうですかとスルーすることができませんでした。それでも、これは事実なのです。

気づいているという意味での意識というのは、本当に理性では類推することさえできないような謎に満ちているものなんですね。

そしてそれこそが、本当の私たちの姿なのでしょう。謎に満ちた自己を、現象を通して知ろうとすることが、この世界の唯一の目的なのかもしれませんね。

自由意志がないことの検証 その3

昨日も書きましたが、自由意志があるかないかということについて、真剣に自分なりに検証していくことがとても大切なことだと思います。

誰の言うことも信じてはなりません。こうした問題提起があったなら、そのことに無関心でいるよりも、真摯な態度で検証していけばいいのです。

そこで、今日は脳神経科学の分野では当たり前になっている、驚くべき実験結果についてお伝えしたいと思います。

科学者であっても、人間には自由意志が本当にあるのかどうか、ということに興味を持って向き合っている人たちが沢山いるんですね。

実は、そうしたことへの興味が最初にあったのかどうかは分からないのですが、度重なる実験によって、そうした疑問が浮上してきてしまったと言ったほうが正確かもしれません。

様々な科学者が、本当に様々な実験をしてきており、その結果、人は自由意志によって何かを行動しようとするときに、その決意の0.5秒前に脳からの指令が発せられているということが分かっています。

つまり、あなたが右手を上げようと決意し、その通りにほとんど瞬時に右手を上げることができますが、その0.5秒も前に無意識的に脳内で決意のスタートを切っているということです。

ということは、私たちは自分の完全な自由意志によって、右手を上げたと感じているのですが、実際には自分の意識できないところで、その決意の元となる脳内の信号が発動していたということです。

神経学的には、0.5秒というのは恐ろしく時間がかかっていると感じますし、私たちが今この瞬間に決意したと思い込んでいるのは、間違いだったと言うことが証明されているのです。

ただ、この事実がすぐに自由意志がないという結論に向かうことはできません。ただ、決意が起こるのに、自由意志があってもなくてもいいということは言えます。

しかし、もしもその行為を決意したすぐその後に、やっぱりその行為を止めようとする時に、自由意志を使うことができるという考え方もできます。

最終的には、止めるという決意に対しても、それに先がけて脳内での指令が発動されているのかどうかは、実験が複雑すぎることによりまだ実現していないというのが現状のようです。

みなさんが信じられるかどうかは別として、自分の決意というものが実は無自覚の中から、しかも0.5秒も前に発動していたということが明らかだと聞いて、どのように感じますか?

私の個人的な感覚では、それこそが大いなる意識からやってくる指令なのではないかと思うのです。

もしもそうだとしたら、私たちが持っている罪悪感には、全く何の意味もなかったということになりますね。そして、大切だと思われている向上心なども、色あせて見えてきます。

過去の失敗を後悔することも、未来に不安を持つことも、ほどほどにした方がいいのではないかと思いませんか?

自由意志がないことの検証 その2

少し前に、このブログで自由意志などないということを書きました。そのことについて、もう少し、補足というか明確になったことがあるので書いてみようと思います。

自由意志の存在を否定するために、逆に自由意志があるとして、我々はいつどんなことで自由意志を使っていると感じるのかを検証します。

それは勿論、何かを決意するときですね。ほんの些細なことであったとしても、たとえばトイレに行こうというようなことにしても、決意していると思っているはずです。

私たちが何かを決意するということを、少しばかり深く見てみると、二種類のケースがあると気づきます。

一つは、その決意をすることに至った理由なり、原因がある程度分かるような場合です。こういったいきさつがあって、これを決意することになったという場合です。

その理由が明確であろうと、曖昧であろうと、いずれにしても何らかの原因があって、決意するという結果があるということです。

けれども、この場合に自由意志が使われていると感じるのは、単なる主観ではないかと思うのです。なぜなら、理由となる原因は、前もって与えられていたものだからです。

それは、生まれ持ったDNAと、生育環境などから与えられた条件付けの組み合わせによって、私たちは個人個人で反応の仕方が決まってくるのです。

その反応を持ちつつ、現在の状況が与えられた結果として、自分は決意したというように考えることはできないでしょうか?

与えられている条件があまりに複雑であるために、それを一つひとつ解明することはできませんが、原理的には充分理解できることだと思います。

そしてもう一つの決意するケースですが、それはそれを決意した理由がまったく自覚できないという場合です。

例えば、右と左のどちらを選ぼうにも、自分の中に選ぶための理由付けをすることができないようなケースがありますね。

それでも、最終的にはどちらか一方を選択するという決意が起こるのですが、それこそ自由意志などとは呼べないようなものではないでしょうか?

その結果は、どこかからやってきたとしか、いいようのないものです。何の理由も見当たらない決意ほど、自由意志と結びつかないものはありません。

というわけで、どちらの場合であろうと決意するという事象が起きたときには、自由意志があろうがなかろうが、それはただ起きたのです。

それは結果として、自由意志などないということになるのではないかと思うのです。これは、私の勝手な解釈ですので、鵜呑みには決してしないようにして下さい。

それどころか、充分に疑いを持って、自ら検証してみることをお勧めします。なぜなら、自由意志があるかないかという問題は、人生が根幹から変わることになる可能性があるからです。

悟りは何も与えてはくれない

ガンガジの本に次のような記述があります。

+——–

もう一つの自己探求の手段として、自分にこう尋ねてごらんなさい。

悟りは私に何を与えてくれるだろうか?

あなたがどれだけ正直になる気があるかによって、

こうした自己問答から得られる答えには無限の可能性があります。

正しい答えなどありません。正直になる、それがすべてです。

ちょっとの間、真剣に考えてみてください。

もしも悟りがあなたに何ひとつ、与えてくれなかったとしたら?

物理的にも、理性的にも、感情的にも、

そして状況的にも何ひとつ得られるものがなかったら?

実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。

その真実を受け入れる意思があなたにはありますか?

それがあるならば、あなたは自由です。

その意思があなたになければ、あなたの心は、

願わくばあなたに自由を与えてくれる何ものか、に縛られたままでしょう。

+——–

昨年、自分とは誰でもない全体性だと感じてから、本当の自分の姿を可能な限り信頼できるようにと、自分なりの練習をしてきました。

そして、この文章に出会ったときに、足元をすくわれたような感じがしました。「確かに、実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。」

ああ、そうだよなあと。一体自分は何を期待していたのだろうか。その期待している自己がいる限りは、本当の気づきはやってこないと分かっていたのに。

一周して、以前よりも淡々とした気持ちで、自己を観照する練習を続けていけそうな気がします。

過去に書いたコラムと今書いているブログの矛盾について

この仕事をするようになって、日々のクライアントさんとのセッションを通して得ることができた様々な気づきについて、沢山コラムとして書き留めておいたものです。

あの頃は、本当にまじめにコツコツとコラムを書いたものでした。その中で、今でもはっきりと覚えているのは、「人生は自作自演」という題名のものです。

会社員の頃にはそれほど、はっきりと意識していたわけではなかったのですが、気がついたら、自分の身に起こることは自分が起こしていると思えるようになったのです。

つまり、自分がどんなに傷つけられたと思っても、そこには加害者としての他人も被害者としての自分もいないということ。

すべては、自分自身の台本通りに人生が動いているだけなのだということ。この理解を得られることで、人は相当に心が穏やかになっていくのです。

それを投影という言葉で表現していたかどうかは忘れましたが、この世界のすべては自分のマインドが投影しているもので成り立っているということです。

けれども、このことは実は「私」という個人が現実として存在する、ということが前提でのお話しであって、そのレベルを超えてしまえば、意味のないこととなるのです。

なぜなら、このブログでも再三お伝えしているように、この宇宙のあらゆる出来事は自動的に起きるということ、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。

このお釈迦様の残したとされる言葉の真意が分かれば、マインドの投影というもの自体が真の源泉の上で起こされていたことだと理解できるからです。

何かを人に言葉で伝えるときには、一体どこのレベルについてのことなのかということを、いつもしっかり把握しておかなければ、矛盾したことを伝えることになってしまいます。

以前コラムに書き溜めた文章のほとんどが、そのようにして「私」という存在の確かさというものが前提だったということです。そのレベルでは確かに役に立つ内容でした。

しかし、それが崩れてしまった今となっては、あのコラムととてつもなく矛盾したことばかりを、最近の自分は書いているという自覚があります。

これはもう仕方のないことだと思っています。いまだに、あのコラムを読んでセッションに来てくださる方々がいるのは本当にありがたいことです。

その方々が、このブログの内容を読まれたとしたら、もしかしたら混乱されてしまうんじゃないかと思ってしまいますが、それも自動的に起きていることだとも言えるわけですね。

目を閉じれば、距離はない

先日また新たに始まったヒーリングの講座で、少しびっくりする体験をしました。気づかぬうちに、自分の感覚が変化していたのです。

と言っても、そう大した話しでは元々ないのですが、ヒーリングの練習をする前に、グラウンディングの簡単な方法をみなさんにお伝えするのです。

ただ目を閉じて心を静かにするだけの、簡単な瞑想をしながら、第一チャクラから地球の中心へ向かって、グラウンディング・コードを下ろしていくというものです。

下ろすといっても、自分の力でやっていくのではなくて、すべてを「あちらの力」に委ねて、やってもらうということなのです。

今までは、地球の中心まで到達したグラウンディング・コードをそこでしっかり固定してもらい、下からぐぃっと引っ張ってもらうというイメージをしていました。

今回もそのように言葉で伝えていたところ、どういうわけか今までと違って、地球の中心と自分との距離がゼロになってしまうことに気づいたのです。

つまり、目を閉じたときの自分の中でのイメージが、まるっきり以前と変化してしまったということです。自分を小さな個体だと思えなくなっていたということです。

少なくとも5ヶ月前に行った前回の講座では、そのようなことはなかったと記憶していますので、この数ヶ月の間での変化と言えそうです。

思い返してみれば、瞑想といえるかどうかは別として、とにかく一日のうちで目をつぶっている時間がとても多かったのです。

そんなことをしている間に、自分の全体性という感覚が根付いていたのかもしれません。人間、練習すれば少しはなるようになるものですね。

目を閉じると、どんなものとの距離も一瞬にして喪失してしまうようになったのだと思います。本当は、距離というものはないのですから。

結局、以前のようなグラウンディングをする必要が、もうなくなったなあと感じています。だからどうということは、何もないのですが…。

自由意志がないことの検証

昨日のブログに引き続き、自由意志を持っているということが間違いであるということを、どう暴いていけるのかということについて、書いてみようと思います。

私たちは単純に、右手を上げようと思えば、すぐに右手を上げることができます。そして、右手を上げようと思わなければ、右手が上がることはまずありませんね。

だから、当然のごとく、右手を上げることに関しては、自分の自由意志が作用しているとしか、考えられないわけです。

このことは、右手を上げるという単純な動作ばかりではなくて、あらゆる行為に対しても同様であるに違いないと思っているのです。

つまり、ある行為を行っているそのときに、つまりリアルタイムでは、自分の自由意志に基づいてその行為を行っていると断固として思えるのです。

これをいきなり崩していくことは、なかなか難しいと思うので、過去においてすでに自分がした行為について、それが本当に自分の自由意志に基づくものであったのかを、検証してみればいいのです。

たとえば、私のところにセッションの目的でいらっしゃる架空のクライアントさんの例で考えてみたいと思います。

彼は、ある日、ふと個人セッションのことを思い出します。

                ↓

それに関連して、いくつかのことが思考として発生します。

                ↓

しばらく思考した後、予約の電話をしようと決意します。

                ↓

電話で私と日にちと時間について会話をします。

                ↓

予約の当日になるまで、時々予約のことについて思い出します。

                ↓

予約当日には、約束の時間に間に合うように、家を出ます。

と、こんな感じでセッションにいらっしゃると想定できますね。ここで、最初のふと思い出すという部分に、自由意志が入らないことは明白です。

また、セッションのことを思い出したことに付随して、いくつかの思考が起きることも、自動的に行われるのです。

結局、自由意志を使ったと思える部分は、電話をしようと決意したことだと分かります。しかし、よく考えてみると、その決意は勝手にやってきた思考によって為されるのです。

思考とは、過去のデータの蓄積と現在の様々な条件などによって、結果を作り出すものです。それは例えて言えば、コンピュータに何かが入力されて、コンピュータがプログラム通りに作動して所定の出力をするようなものです。

こうして見てみると、自由意志が介在しているように思い込んでいただけで、実はただの流れが起きていたということが分かります。

では、一番初めの、ふとセッションのことを思い出すというのは、一体どこからそのことを起こす指令が来ているのでしょうか?

それこそが、この宇宙のシナリオなのだと言えるのではないかと思います。

自由意志を持っているというウソ

私たちは、自分の意に反してあらゆる出来事が起こってしまうことを、いやというほど経験して知っていますね。

どう頑張っても避けられないことは、自分や大切な人の死だったり、災害などで人々が不幸な体験をせざるを得ないことです。

けれども、学校の成績だとか人からどんな評価をもらえるかといったことは、自分の心がけとそれに伴う行動によって結果が変わることを知っています。

だからこそ、何とか努力をしてできる限り、自分が望むように物事が推移する(起きる)ようにと頑張るわけです。

もしも、何かの楽器を上手に弾けるようになりたいと思ったら、ただその楽器を眺めたりさすったりしているだけでは、駄目なことは当たり前です。

毎日コツコツと練習する人の方が、滅多に練習しない人よりもより上手に弾けるようになるのは自明のことです。

だから、私たちは自分の意思で自分の人生を切り開いていけると信じています。それに反して、人生なんてどうあがいたところで、なるようにしかならないんだからとうそぶいている人もいます。

努力次第で結果が変わるということは概ね確かなことですね。しかし、その努力をするかどうかということについてはどうでしょうか?

また、正確に言えば努力をした方がしないときよりも、より望ましい結果が出るということも必ずしも言えないということも分かっています。

実は、努力をした方がいいのか、そうでもないのかという議論には意味がないということを言いたいのです。

なぜなら、努力をするということも、しないということも、同じようにただそういうことが起きたというだけのことだからです。

私たちが信じこんでいることの中で、最も大きなウソの一つとは、自分には自由意志があるということです。

もしも、このウソを暴くことができたら、罪悪感や余計な不安感、あるいは憎しみ、物事への執着といったものが軒並み消えうせることになるはずです。

自由意志がないなんて、何と不自由なことだろうと思うかもしれませんが、いやいや罪悪感、不安感、憎しみ、執着などから自由になることの方がはるかに清々しいはずです。

一度立ち止まって、じっくりと自分の人生を舵取りしてきたのは、本当にこの自分だったのかどうか、検討してみることは意味のあることだと思います。

「存在」の二つの意味

この世界が存在するという意味での「存在」とは、知覚のことを指します。つまり、目の前に机が「存在」するというのは、主体である自分が対象としての机を知覚しているということです。

その知覚が直接肉眼で見るという場合であろうと、何か別の方法で間接的に知るということであろうと、いずれにしても知覚には違いありません。

これは現代科学の根本とも言えるものです。科学では、観察者が対象を観察することがすべての前提だからです。

観察者が不在では、対象の状態を特定することができないというのが科学なのですが、このことはあまり知られていないかもしれませんね。

つまり、自分が知覚するということと切り離して、何かが客観的に存在するということは意味のないことだということになります。

この意味での「存在」というのは、間違いなく一過性のものであるということになります。なぜなら、知覚そのものが一過性のものであるからです。

けれども、「存在」にはもう一つの別の意味があります。それは、知覚と同値である存在とは全く異なるものとしてです。

それは、「気づいている」ということなのです。そこには、主体も対象もありません。ただ在るということに気づいているという意味での「存在」です。

そして、この意味での「存在」とは、時間や空間を越えたものであり、それこそが私たちの本質の姿であるとも言えるのです。

それは生まれることも死ぬこともできません。生死は時間の中でのみ起き得ることだからです。こうしたことを、理性で理解することは不可能です。

なぜなら、理解とは思考であり、思考も時間の中で起きて、そして消えていくものだからです。気づきのことを別の表現で言えば、純粋な意識であるとも言えます。

その純粋な意識だけになる瞬間というものは、もしかしたら誰でも経験しているのかもしれないですが、それは思考が停止した瞬間なので自覚できないのだと思います。

それにしても、なぜまた思考はどこからともなくやってくるのでしょうか?それはあたかも、自分が純粋な気づきとしての「存在」であることを、決して見破られないようにしているかのようですね。