感傷的な気分

4月10日(日)は都知事の選挙の日でした。正直決して褒められないことですが、投票に行ったのはすごく久しぶりのような気がします。

投票所である、昔私の子供たちが通っていた近くの中学校の校庭には、満開の桜がすばらしい姿を見せてくれていました。

陽気も暖かくなったせいかもしれませんが、なんだか、3.11の地震発生以来初めてゆったりとした気持ちで外の景色を楽しむことができたように思います。

井の頭公園の桜も少し前に見に行ったのですが、そのときには花見のためにシートを敷いていた若者たちが、警備の人たちにやめるように注意されていたようです。

自粛というのは、自ら控えることを言うのだと思っていたら、他人から控えるように命令されてしまうということもあるのですね。

ちょっと見ていて可愛そうな気がしました。そんなこともあってか、ほぼ満開になっていた桜さえも思い切りよくその姿を披露することさえ自粛しているように感じました。

年に一回、桜を見ることができるのは今まで当たり前のことだと思って生きてきましたが、今はそうでもないかもしれないとどこかで感じています。

というより、穏やかな気持ちで美しい桜を見ることができるということも、当然ではないというような気持ちになったということかもしれません。

すぐに散ってしまう桜に、いつも名残惜しいなと思いながら、いいやまた来年になったら見ることができるんだからと思っていたのが、今は来年はどうだろうと思っています。

もう少し日本ていいところだと信じていたものが崩れていっているような、そんな気持ちがしているのかもしれません。

起きることがただ起きているだけだと分かってはいるものの、いつになく感傷的になっているのは何なのでしょうか?

個人的なこと以外で、こんなふうになったことは今までなかったので、少々不思議ですし心の中を興味を持って見ているところです。

人類史上に明確に残るような何かとても大きな出来事が起きてもいいように、日ごろから自分の心を見つめておくといいと思います。

原発について その3

私たちは、大切な日本のある場所を決して立ち入ることができない場所にしてしまいました。きっと、このことは私たちの孫の孫の孫の…、どの世代まで行っても、どこまでも続いていくことです。

このことが私にはとても悲しいことに思えて仕方ありません。ちょっと想像してみてください。この先、千年たっても二千年たっても、あの美しい三陸海岸付近のあるエリアだけが、厳重に管理された死のエリアであり続けるということを。

人類で分かち合ってきたこの愛すべき地球の一部分に対して、もう二度と元には戻らないと言っていいようなダメージを与えてしまったということです。

地球に対していくら謝っても謝りきれないことのように感じますし、日本人は世界の人々に対して深く陳謝せねばならないでしょうね。

卑屈になったり、罪悪感の餌食になる必要はありませんが、速やかに菅首相は全世界にそうしたメッセージを発信したほうがいいと思います。

私は10年余り前に癌を患ったことがありましたが、手術して回復してしばらく経った頃に、ふと自分のお腹にある傷口を見て、心の底から本当にごめんなさい!と自分に謝ったことがありました。

そのときから、急に何かが自分の中ではじけたのか、サラリーマンをやめて今のような仕事をするようになったといういきさつがあります。

私のお腹の傷口と、切って繋げられた内臓は元には戻りません。でも、そのことは本当に一度深く謝ることができれば、そのことを元にして人生をやり直すことも可能だったのです。

今回の原発事故も同じだと思います。私たちは後悔するのではなく、深く反省することができればいいのです。そうすれば、自分たちの行動や考え方を見直すすばらしい契機となるはずなのです。

間違いを正す

人間のやることに間違いはつきものです。間違ったことのない人間など決していないのですから。そのことに関連して、大切なことが二つほどあります。

一つ目は、間違いは間違いと認めてそれを正すということ。もう一つは、罪だと思っていることを一旦すべて間違いのレベルにもって行き、一つ目を実行するということ。

例えば、地震の多発国である日本において、もっとも危険であると分かっていて、地震で崩壊する原発を次から次へと作り続けることは明らかに間違いです。

その首謀者が誰かと考えてしまうと、そこに罪という文字が浮かんできてしまいます。そうではなくて、単なる間違いにもっていくことです。

どんなに大切な人がその犠牲になってしまったとしても、罪ではなく人につきものの間違いだと勇気をもってすることです。

その次にその間違いを間違いと認めて行動修正するということです。そのときに妨害する心がいろいろあるのですが、その一つが「ここまでやってきたのだから」という思いです。

誰でも、何かを計画して実行するまでの間に、それぞれの工程を経て結果を出すことになるのですが、それが初期の段階であればあるほど、間違いを訂正しやすいのです。

その逆に、あらゆる労力や時間やお金をつぎ込んでしまった後で、間違いに気づいてそれを訂正しようとしても、「ここまでやってきたのだから」が邪魔をします。

これは、生き方そのものについても同じようなことが言えます。例えば、何十年も我慢をしてきて、心身ともに疲れてしまったクライアントさんがいたとします。

それなら、もう我慢や無理をして自己犠牲を払うことをやめましょうと伝えると、今までの我慢が全部無駄になるのはつらいので簡単にはやめられないと訴えられます。

そのときにこそ、本当は潔く今までの生き方は間違いでしたと認めて、すぐに行動修正することができたら必ず人生を変えることができるのです。

自分の心に、「ここまでやってきたのだから」があると感じるのでしたら、このことをよくよく考えてみることには、大きな意味があるはずです。

立ち位置を変えてみる

地球の歴史から見ると、人類が今のように我が物顔で活躍し出したのはつい最近のことですが、そういったスケールで見てみると、地球が太陽の周りを回っていると分かったのはほんの昨日のことだと言えます。

それまでは、ずっと太陽が地球の周りを毎日一周していると考えられてきました。いわゆる天動説と言われていますが、これは言ってみれば見えているままを表しているに過ぎません。

地球上から太陽を見るだけだと、どうしてもそれが自然だったということですね。それを見事にひっくり返して地動説を唱えたのはコペルニクスです。

彼は、どうやってそのような常識を覆すことができたのかというと、地上から太陽をただ見るというのではなくて、宇宙空間から見るということをやったのだと思います。

勿論、そのころはロケットも何もないですからイマジネーションの世界でしかないのですが、自分の立ち位置を地上から宇宙へと変えることによって、真実を暴き出すことができたのです。

こうした視点を変えて物事を見る姿勢というのは実はとても大切なことです。そしてどんなことにも応用することができると思います。

人は誰かに騙されたり、うそをつかれたりすることを好みません。真実を知りたいという願望をいつも持っているものです。

そのようになるためには、自分の立ち位置というものを必ず考慮しておくことです。それができないと、無意識的に自分にとって有利に思われることを真実としてしまいがちになるのです。

一番いい例が、こんな儲け話があるけれど、乗りませんか?などという誘いがあったとして、くだらないと思っていても、話しを聞いていくうちに騙されてその気にさせられてしまったりするということがあります。

それは、自分の立ち位置、この場合だと自分の利益という視点からだけ見ようとすることで、真実のように思えるようになってしまうのです。

もしも、冷静になって、相手の立ち位置になってその話しを聞こうとすれば、そんなおいしい話しを誰かに言うはずがないと分かります。

同様にして、誰かが自分にとても理不尽な態度をとるというときにも、立ち位置を変えて見ることでその理不尽さを受け取る自分の反応を変えることができるかもしれません。

原発について その2

世の中には、人体に対して大変有害な物質や取り扱いが危険な物質というものが多数あるのは誰もが知っていることですね。たとえば、クルマの燃料であるガソリンは勿論体内には入れられませんし、引火すると爆発するわけです。

それでも、丁寧に使うことで非常に便利なエネルギー源として重宝しているのです。それの元は石油です。石油はそれ以外にも私たちに必要な電力としても用いられています。それが火力発電です。

だから、資源として有限であるとわかっている石油の代わりとして原子力を開発して利用するようになったのは、もっともなことだと言えるのです。

ただし、人体に対する危険度が半端ではないということは、ガソリンその他のものとは比べ物にならないのです。

万が一にも安全に対して万全を期すとしても、万が一でも受け入れられないこともあります。つまり、決して事故が起こってはならないということですね。

それが、この地震大国である日本において、震度6程度では崩壊するという原子力発電所ばかりが作られているのですから、たまったものではありません。

それともうひとつ、便利さを追求して自分の命を犠牲にするとしても、自分たちのことなら目をつぶってもいいのですが、それが未来へと受け継がれていくとなるとまったく話は違ってきます。

原発で使われるウランという放射性物質は核融合反応によって、さまざまな物質を生み出してしまうのですが、その中にプルトニウムというものも含まれます。

このプルトニウムというのは、ウラン同様に核融合する放射性物質として、再利用も検討されているのですが、これの半減期は2万4千年です。

つまり、放射線を出して崩壊していき、その量が半分に減るまでに2万4千年かかるということです。そんな未来永劫ともいえるくらい長きに渡って、誰かが危険きわまりない物質を管理していかなければならないということです。

こうしたことは、人類史上初めてです。今私たちの地球上で人類がやり始めてしまったことは、今後の子孫たちへの悪魔のようなプレゼントとも言えるのですね。

自分たちが死ぬだけならいいのですが、何万年もの間地球と私たちの子孫がそのことで苦しむようなことになってしまうというのは、本当に本当に悲しいことだと思います。

暗闇に光を当てる

今年に入ってから多くの人たちの心の変化が本格的になってきているように思います。それはシンプルに表現すれば、闇に葬っていた心の部分が暴露されつつあるといえます。

人の心はいくつにも分割されていて、その断片同士の関係もあまりよくないのが普通です。どれかがどれかを否定したりして、互いに相手の言い分を聞こうとはしないようになっています。

それはまるで、勝手気ままな人たちの集まりのようであり、統制のとれていないまとまりのないグループのようなものです。

より力のあるものが否定しようとするものを抑圧してしまい、それを亡き者にしてしまうのですが、本当になくなってしまうわけではないために、いずれは仕返しされることになります。

今年に入ってからの変化というのは、そうやって影に隠されてきてしまったたくさんの心の断片たちが、こぞって表面に出てきていることによるものです。

そうなると、場合によっては今までこれが自分だと信じてきた自分に都合のいい自己像というものの全体像が変わってしまうのです。

どれが本当の自分なのか、一体本当は自分とはどんなやつだったのかとびっくりしてしまうかもしれませんし、信じてきた信念や信条なども見直しを余儀なくさせられてしまう可能性もあります。

そして、勿論都合が悪いので隠してきたものが見えて来てしまうのですから、何らかの苦悩として感じるかもしれません。ある人は罪悪感だったり、ある人は身体の不調であったりするのです。

ですが、それは一種の毒出しだと思えばかえって喜ばしいことだとわかるはずです。すべてを光にさらけ出して、それを全面的に受け止めてしまえば、もう怖いものもありません。

それは人間としてできる最高レベルの癒しがやってくることになるのですから。この癒しの波に素直な気持ちで乗ることにしましょう。

なるべく抵抗しないことです。そうすれば、いずれは痛めた傷口もふさがり、きっと穏やかな心の状態がやってきてくれるはずです。

原発について

今、福島の原発が本当に大変なことになっているのは周知の事実です。数十キロ圏内の人たちは避難生活を余儀なくさせられているのは勿論のこと、放射能が本格的に漏れ出してしまったら、日本列島の多くの地域が危険な場所になってしまいます。

旧ソ連の時代に有名なチェルノブイリ原発の爆発によって、今でも数百キロ圏内は立ち入り禁止区域になったままです。

それどころか、今でも非常に危険な状態にあるという話を聞いたことがあります。石棺というもので覆って放射能漏れを防いでいるのですが、それが古くなってこのままでは再度漏れ出す可能性が高いのだそうです。

チェルノブイリで爆発が起きたあとに、日本でも放射能の濃度が上がったことはあまり知られてないかもしれませんが、ある意味地球の裏側にまで風に乗ってやってきていたのですから、対岸の火事では済まないのです。

静岡県には、有名な浜岡原発がありますが、そこは驚くべきことに東海大地震が想定される区域のど真ん中に建てられています。

もしも、歴史上起きたレベルの大地震がまたやってくると、浜岡原発の安全性は果てしなくゼロに近くなってしまうはずです。

私の義理の母親は今でもそこから直線距離にして12kmくらいのところに住んでいますので、とても心配ですし、本当に大地震に見舞われてしまったらそれも関係ないくらいに東京も壊滅するかもしれません。

チェルノブイリの大事故の原因が実は地震だったということも、旧ソ連の当局がひた隠しにしていたことが最近暴露されたようですね。

原発というのは、もともと炉を大量の水によって冷やし続けなければならないために、海や川のそばに建設されるのですが、そうした土地というのは断層の境目であることが多く、地震が起こる可能性が高く、非常に危険なのです。

原発の事故は天災が起こしたように見えて、実は人災としての要素が多分にあると言えると思えます。悪者探しをしても仕方ないですから、ここは冷静になって一人ひとりが原発の是非をしっかりと判断する必要があると思います。

珍しく現実的な内容になってしまいましたが、私たち人類の存続にとって、この原発の問題は非常に大きな瀬戸際に立たされているような感じがどうしてもしてしまいます。

こうしたことは、一人ひとりの心の中にある誰かを助けたいという思いを発動させることで、方向を転換させていけるはずだと信じたいですね。

思い入れの罠

確か中学生の頃だったと思うのですが、レコードを買って音楽を楽しむ習慣ができつつあるころでした。今でいうCDですね。

LPレコードというのは、CDの何倍も大きくて、表と裏があって面にホコリや傷がつきやすいために、とても扱うのに神経を使っていました。

やや潔癖が入っていたのかもしれないと思うくらいに、丁寧に扱って、指紋をつけるなどもってのほかくらいに思っていたのを覚えています。

一つお気に入りのレコードがあって、いつも聞いていたのですが、あるとき4歳上の姉がそれを貸して欲しいと言って来たので、快く貸してあげました。

しばらくして、返してもらったときに、レコードの面が傷だらけになっているのを発見して、怒りと涙まじりに訴えたのですが、元に戻るわけでもなく、そのレコードをそれ以来聴かなくなってしまったのです。

多分、音楽を聴くという本来の目的からしたら、レコードとしての機能を果たしていたかもしれないのですが、もう見るのも辛くなってしまったので、聴くことができなくなってしまったのだと思います。

一般的に、自分がとても神経を使って扱っているもの、丁寧にやさしく取り扱おうと心がけているものを、誰かに手荒く使われると本当に酷い気持ちになるものです。

もっと小さい時にも似たようなことはたくさんあったように思います。たとえば、傷がつかないようにやさしく使っているおもちゃなどを友達に貸したら、乱暴に扱っているように見て悲しくなったりしたことがありました。

こうしたことは、大人になった今でもあるかもしれません。この気持ちの根っこには、繊細さの欠ける他人の振る舞いに対する憎悪なんでしょうね。

これも誰かを悪者にしようと企む意識の一つの表現なのだと最近では判るようになりました。それでも、いやなものはいやですね。

自分の「思い入れ」が招く罠なのだろうと頭では分かっているのですが、いまだに克服できていないようです。

でも最近では、そんなに自分は変われないということも分かってきているので、相手のことも自分のことも責めないようにとは思うようにしています。

笑う門には福きたる

ここのところ、誰もがあまり明るく元気な気持ちで生活しているとは言い難いかもしれません。いいニュースが一つも入ってこないばかりか、連日震災や原発のニュースに気持ちが滅入っている感じがします。

しかし、こういうときだからこそ、一人ひとりの心の中をできるだけ明るく保つことがとても大切だと思います。

人は嬉しいことがあったら笑うし、楽しいことや愉快なことがあればみんな笑うのですが、その原因と結果を逆にしても、その関係が成立する場合があるのです。

それが、「笑う門には福きたる」ですね。とにかく、何だろうと明るく笑い飛ばして生活している人のほうが、暗い鬱々とした気持ちでいる人よりも結果として幸せになるということです。

本来は、幸せだから笑顔になるのですが、笑顔でいれば幸せがやってくるということですから、原因と結果はひっくり返しても成立するということですね。

これは実は人生をいい方向に持っていくための非常に強力な方法なのです。単純なことですが、明日どうなるのだろうと不安な気持ちに焦点を当てていれば、気持ちは沈んでいきますね。

そんな決して分からない未来のことよりも、今現在のことに意識を向けて、その中でできるだけ心が明るくなるように工夫するのです。

そうすると、人の心というのは案外素直なもので、そうしたことにひっぱられて明るく振舞っているだけでなく、本当に明るい気持ちになっていくのです。

表現は悪いですが、最初のうちはふりをするということでも構わないのです。それでも、心は自然とそうした「ふり」のとおりになっていくようにできています。

これは私自身はっきりとした経験を持っていますので、ぜひ試してみてください。必ず成功するはずです。

自分には分からない

今の私たちは、誰かを信じたり何かを信頼していれば大丈夫という状態ではまったくなくなってしまったと言えると思います。

政府を信じて、税金を払い、少しずつだけど世の中が住みやすくなるはずと思っていたのも怪しい感じがしてしまいます。

自分だけは真面目に仕事をして、一生懸命働いてきたから酷いことにはならないと思っていたとしても、天災はそんなことをあざ笑うかのように問答無用にやってきます。

そんな時に私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか?誰だっていいことをしてきた人は必ず報われるし、そうじゃない人はその仕打ちがやってくると思いたいのです。

それがいわゆる因果応報というものですね。それによって、この世界のバランスというものがかろうして取られると思いたいわけです。

正直者が馬鹿を見るとか、真面目な人よりもずる賢い人のほうが得をするというようなことは、決してあってはならないと思いたいのです。

しかし、現実はどうでしょうか?今回の大震災で大変なことになってしまった人たちが日ごろ悪いことをしてきたわけでは決してないと誰もがわかっています。

それなのに、酷い目に遭ってしまうというのは神様はなんと無慈悲なことをなさるんだろうと思って当然だと思います。

神は本当に無慈悲なのでしょうか?それは私には分かりません。ただひとついえることは、われわれ人間のレベルで感じることは一つの領域でしかないということです。

われわれが持っている正しさや理屈というものは、それが宇宙の大法則ではないのかもしれません。

本当に望むことと必要なこととは違う可能性もあるということです。所詮、私たち人間ごときにはそうしたことは分からないということです。

そのことに気づいていることがとても大切なことのように思うのです。私たちは、本当にこの世界で何が起こるのか、それが正しいことなのか、本当に必要なこととは何なのか、何も分からないのです。

起きたことをただそのままに受け止める度量を持つようになることこそ、本当に必要なことなのではないかと感じるのです。