懲罰的な考え方

 罪と罰という言葉がありますが、罰とは何でしょう?辞書によると、罰(ばつ)と罰(ばち)の二つの意味があります。

 罰(ばつ):社会的規範を犯した者や倫理的・宗教的規範に背いた者に対して与えられる制裁。こらしめ。しおき。

 罰(ばち):神仏が下す、悪事をこらしめるための報い。たたり。

 とあります。罰を与えるのが人や社会なのか、あるいは神仏なのかの違いはあるにせよ、どちらも罪を犯した者に対する報い、あるいは制裁という意味があるようです。しかしなぜ犯した罪に対して罰というものが必要なのでしょうか?悔い改めてもらうために必要だという考え方があります。あるいは罰を怖れることで罪を犯さないようにさせるということもあるかもしれません。

 悪いことをした人は死んで地獄に落ちるという教えがあります。言うことを聞かない子どもに対して親のこのような言葉は、子どもを震え上がらせて、親の言うことを聞くようにさせる効果があるかもしれません。

 では自分で自分に罰を与えようとする場合はどうでしょうか?そんなことは誰もしないのでは?と思われるかもしれませんが、実は多くの人がこれをやっているのです。どのようにやるのかは後で説明するとして、では自分に罰を与えるその目的は一体何なのでしょうか?

 罰を怖れて罪を犯さないようにするためには、自分の意思とは関係なく、強制的にその罰が与えられる必要があります。だからこそ効き目があるのですから、自分に罰を与える場合にはこれは理由にはなりません。では、悔い改めるために人は自分に罰を与えるのでしょうか?元々罰を与えられたからといって、そのために悔い改められるというのもおかしな話です。

 自分に罰を与える本当の目的は、実は自分が犯した罪を償うためなのです。罰を与えてその罪深さを帳消しにしたいという心の働きがあるということです。人は罪深い自分のままでは辛くて生きていけないのです。だからこそその罪に見合った罰を自ら与えることで、心のバランスをとろうとするのです。バランスがとれれば、それはある意味安心して生きていけるのです。

 具体的にはどのようにして自分に罰を与えるのでしょうか?意識的、明示的に与える場合もあるかもしれませんが、しかしほとんどの場合は無意識的に与えられるのです。では人が無意識的に罰を与える場合、一体どんな罰を与えるのでしょうか?簡単に言ってしまえば幸せにはならないようにするということです。不幸という罰を与えるように生きていってしまうということです。自分の罪が重いと思っていればいるほど、人生がひどい方向に向かいます。それはより大きい罰を与えなければバランスがとれないからです。

 例えば、この人と結婚したら幸せになれるかもしれないと感じると、その人との恋愛を壊すような行動を起こしたりします。あるいは能力があるにもかかわらず、わざと受験や面接に失敗したり、好きで始めたことでも、ある程度の段階までは行くものの、人に認められるくらいの段階になる直前でやめてしまったりします。これらはすべて幸せになってはいけないという歯止めが無意識的にかけられた結果である場合が多いのです。

 敏感体質で聡明な子どもの場合には、かなり幼いころからこの懲罰的な考え方を利用することがあります。毎日が苦しいことや辛いことの連続でどうしようもないような場合、子どもは自分では解決できないその苦痛を何かのせいにしようと考えます。つまり、置かれている境遇がひどいのには、それなりの理由があるとすることで心のバランスをとろうとするのです。自分が何かひどいことをしたという自覚がない幼い子は、記憶のない生まれる前の人生で自分は悪行を重ねたと考えるのです。その罪の償いのために今生ではこんなに苦しい毎日なのだとして、今の苦しみを正当化しようとするのです。勿論これは意識的に行われます。

 一度この懲罰的な考えにとりつかれると、大人になってもこれを変えることがむずかしくなり、結果として自分の人生が幸せになってはいけないという無意識の制限を課して生きていくことになってしまいます。人によっては、意識的に自分は幸せになるべきではないとする場合もあるようですが、とても残念なことです。

 今までの人生の中で自分のしてきた言動をよく思い出してみて下さい。何となくそう言えば自らチャンスを逃していたり、幸せになると思える方向と反対方向に向かって行ったような、そういった漠然とした記憶があるようでしたら、知らぬ間に自分に罰を与えていた結果であるかもしれません。そこから抜け出すことを真剣に考えてみる必要があるのです。

 自分に罰を与えないためにはどうしたらいいのでしょうか?一番いいのは、この懲罰的な考え方をできるだけやめることです。しかし人間は太古の昔からこの考え方を採用して生きてきたのかも知れません。誰でも知っている宗教にも原罪という考え方があるくらいですから。だとするとそう簡単にはこの考え方を改めることは難しいかもしれません。ただよく考えてみると、罰というのは罪がなければ存在しないということです。自分が罪深いと感じなければ、いくら懲罰的な考え方が強くても、罰を与える必要がなくなります。

 やはり、コラムの『幸せになる三つの方法A』に書いたように、なるべく自分を責めないようにすることが大切なのです。自分を責めることと、自分を罪深いと感じることはほとんど同じことを意味します。従ってあるがままの自分を認めて許してあげること、そうやって自分を責めないようにすれば、罰を与えることがなくなり、人生の方向を幸せに向かわせることができるようになります。



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