無邪気さの欠如について

 赤ちゃんや幼い子供のあどけない仕草や表情を表現する言葉として無邪気さというのがありますね。無邪気というのを文字通りとらえると、邪気のない状態ということになります。邪気とは、辛く苦しい心、つまり怒りや悲しみなどの感情を溜め込んだ心のことです。確かに赤ちゃんや幼児期の子供がそんなに苦痛を溜め込んでいるとは一般的に思えませんので、無邪気という状態でいられるのでしょう。

 無邪気の一般的な言葉の意味を辞書で調べてみると、
  ・あどけなくて、すなおなこと
  ・悪気やねじけた気持ちのないこと

などとあります。このようにして、幼い子供の形容詞として使われる無邪気さも、年齢とともに少しずつ消えていってしまうとしたら、それはやはり毎日の生活の中で自然とマイナスの感情を溜めていってしまうからなのでしょうか。しかし程度の差はあるにしても、大人になっても無邪気な笑顔で笑える人、無邪気にはしゃいだり、すごく素直な態度をとれる人というのがいるのも事実です。

 大人は無邪気であってはいけないなどということはないはずです。それどころか、無邪気で屈託のない自然な人の方が大抵好かれるものですね。あんなふうに自然に振舞えたら楽だろうなとか、あの人のように喜怒哀楽を素直に表現できたらいいのになどと思ったことは誰にでもあるはずです。この無邪気さを取り戻すにはどうしたらいいかを考えてみたいと思います。

 初めに、自分は一体どれだけ無邪気さをなくした状態で生活しているかという目安として、以下の項目がどのくらい当てはまるか考えてみて下さい。

−人の輪の中に入りづらい
−ノリが悪いと思う
−いまいち、はじけられない
−カラオケが苦手
−褒められても素直に喜べない
−喜怒哀楽の表現が苦手
−何をやってもあまり面白みを感じない
−いつも自分を監視している自分がいる
−人との共同作業が苦手
−目立ちたくはないが、注目はされたい
−自己表現が苦手
−人との会話に温度差を感じてしまう
−褒められることに心地悪さを感じる

 上の項目に当てはまると思われるものが多ければ多いほど、無邪気さをなくして生きているということになるのです。

 誰もが生まれた時には持っている大切な無邪気さを、次第になくして行ってしまう原因として以下のようなことが考えられます。一つは、幼い頃に恐怖から身を守ろうとすることにあるのです。怖い人を例える言葉として、『泣く子も黙る…』という言葉がありますが、これは無邪気に泣いている幼子でも泣き止んでしまうくらい、怖い人だということです。つまり、恐怖から身を守るためには無邪気さを犠牲にすることがあるのです。

 もしも泣いたら余計に親から激しく怒られてしまうことが繰り返されたら、子供は無邪気に泣くこともできなくなってしまいます。親がいつも正しくて、子供は親の言うことを聞いていればいいと威圧的にしつけられたら、素直な自己表現もできなくなってしまいます。つまり、そのような状態では安全に生きていくためには無邪気さの象徴である素直さは邪魔もの、一種の危険因子になってしまうのです。

 そしてもう一つ、無邪気さを無くしてしまう原因として、親をかばおうとする心があるのです。いかにも辛そうな親、可愛そうな親には無邪気に甘えたり、物をねだったりすることが難しくなってしまうのです。余計な心配をかけないようにしたり、親が望むいい子を演じたりすることによって、無邪気さは次第に損なわれていってしまい、笑顔の少ない苦しそうな親を自分が守らねばとして大人びた子供になってしまうのです。

 そしてまた、無邪気さとは正反対であるねじけた心の状態というものがあります。どのようにして、このねじけるという状態ができあがるかを考えてみます。例えば、幼い子供がお店の前で買って欲しいものを泣いて騒いで親にせがんでいる姿を見かけることがあります。どんなに泣きついても買ってはもらえないと分かったとき、子供の心の中では次の二つのうちのどちらか、あるいは両方が起こります。

 一つは、買って欲しいという強い欲求を忘れようとすることです。そのためには、何か別の興味の対象に自分の意識を向けようとするはずです。もう一つは、買って欲しいという気持ちとは正反対の気持ちを作って、本当の気持ちに蓋をするのです。つまり、もうそんなものはいらないと思う自分にしてしまうのです。最初のうちは、本当は欲しいということをどこかで分かっていますが、時間の経過とともに欲しかったその気持ちを感じることができなくなり、最終的にはそれに全く興味のない自分ができあがるのです。

 自分は何であんなものを欲しがっていたんだろうと不思議に思うようになるかもしれません。子供の態度に親が根負けしてじゃあ買ってあげると言った時に、素直に慶べない子供がいるとしたら、こうした心の作用が原因なのです。本当はまだ欲しいけど、もういらないと突っぱねたくなったり、実際にもう欲しくなくなったよと思うかもしれません。このように本音とは真反対の気持ちで蓋をする心の状態が、ねじけると言われる心を作り出すのです。

 一度この方法によって、欲しいものが手に入らなかったり、自分の願いが叶わない苦痛から解放されることを経験してしまうと、大人になっても繰り返しこのねじけた生き方を使って生きて行くようになってしまいます。程度が軽い場合には、少し強情だねとか、すねないでねとか言われたりするだけで本人も周囲も笑って過ごせるのですが、ひどくなると自分が本当に欲しいものに背を向けてしまう人生になってしまう場合もあります。

 しばらく連絡が途絶えていた彼氏から久しぶりに電話が来て、本当はとても嬉しいはずなのになぜか素直には喜びを表すことができずに、場合によっては今日は突然なので都合が悪いとせっかくの彼の誘いを断ってしまうことだってあるかもしれません。こうなってしまうと、断った後にとても深い後悔の念に襲われたりして、自分の言動に対して大いに悩んで不自由を感じながら生きていかねばならなくなってしまうのです。

 人間の本来の姿は無邪気な状態であるため、放っておくとまた元の無邪気な心に戻ろうとします。しかしそれにブレーキをかけて現状を維持しようとするために、無邪気な言動を抑制する意識というのが生まれます。無邪気さを取り戻して不自由な人生から開放されたいと思っても、そう簡単には行かない理由がここにあるのです。つまり、自分のことを常に監視して、少しでも無邪気な本音の自分に近づこうとすると心の中で警笛を鳴らして妨害しようとする強い意識があるのです。

 その意識が活動すると、本人にとっては居心地の悪い感覚に襲われたり、恥ずかしい気持ちになったり、冷や汗をかくくらいに不安や怖れを感じるかもしれません。時としてその警告を無視して無邪気さを出してしまった場合には、後でひどい自己嫌悪や罪悪感を感じることになってしまうかもしれません。だからこそ、無邪気さを取り戻すことはそう容易なことではないのです。

 幼い頃のピュアな無邪気さをどこかに置いてきてしまったかも知れないと感じてる人は、子供の頃の親とのかかわりがどうだったかを思い出してみて下さい。親が怖い存在であったために素直な自己表現を抑えていなかったか、親が見るからに辛くて可愛そうな存在だったために、かばおうとして本音を出せないでいたかどうか。そして自分の気持ちをしっかりと親に受け止めてもらえずに、上述したようにねじけた心で生活していなかったかどうか。

 もしも、該当するようなことがあったら、その時の本当の気持ちをよく思い出して感じることです。そこには沢山の感情や本音が抑え付けられて残っているはずです。時には、自分では全く自覚できずに取り残されていた本心に気がつくかもしれません。川底に溜まったヘドロのように心の底に沈殿してしまった感情をすくい上げて開放していくことができれば、本来の素直な自分が顔を出してくるはずです。

 それは言葉では言い表すことのできないくらい、とても気持ちのいいものです。素直な自分は必ずいます。心のどこかに身を潜めて、素の自分は外に出てはいけないと思っているのです。出そうと思っても監視する意識にダメ出しされて妨害されてしまうのです。それが子供の頃から身に付けた生き方になってしまっているということです。大人の自分がそのことを深く認識してあげて、無邪気さをなくした自分に寄り添ってあげることです。

 そして日々少しずつでも行動に移すのです。人の輪が苦手だからと一人でいるのではなく、不安感や怖さ、恥ずかしさなどを感じながらもそこから逃げることなく、逆にその居心地の悪さをしっかりと自分に味合わせてあげることです。無邪気になってはいけないと自分を監視している意識にも寄り添って、その気持ちをしっかり受け止めてあげることです。そうやって、徐々に生まれた時の素直な自分を取り戻していけたら、きっと人生が変わって見えてくるはずです。



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