怖れについて

 動物としての人間は、当然他のあらゆる動物と同じように種の保存と存続を目的として生きているという側面があります。動物が自分と生き写しの子どもを産み育てて、種を存続させようとするときに必要とするのが、子どもやツガイの相手への愛という情動なのです。一方、産まれた自分自身が成長していくためにも、親への愛が使われます。そして、個体として生きていくために危険から自らを守る必要があるときに使われるのが怖れという情動なのです。

 このように、動物にとっての愛と怖れとは、動物が種を絶やさないようにして生きていくためには欠くことのできない本能なのです。我々人間にとってもそれは全く同じことなのですが、脳の発達とともに、動物の社会よりもはるかに複雑な社会を築くようになった人間のレベルでは、愛と怖れは単なる本能の一つというだけでは済まされない、より複雑な枝葉の部分が出現してきて、人生の中でとても重要な要素となってしまっているのです。

 感情を表す言葉は沢山あるのですが、そのすべてがこの愛と怖れから変化して生まれたものなのです。特に怒り、絶望、悲しみ、憎しみ、妬み、嫉妬その他すべてのネガティブな感情、依存、これらはすべて怖れから作り出されるのです。そして付け加えるならすべての病気も怖れが作り出しているともいえます。昔から病は気からと言われてきたように、その気とは邪気のこと、つまりマイナスの感情エネルギーのことです。それは、結局怖れということになります。

 病気に限らず、人を不幸に陥れているものも実は怖れなのです。ここはもっと正確に言わなければなりませんが、怖れそのものが人を不幸にするのではなく、怖れを回避しようとする行為そのものが、人を不幸にしているということなのです。どういうことなのか、少し詳しく説明していきます。セラピーの仕事をしていて常々感じることなのですが、人は出来る限り怖れの感情を味わわないように神経を張り巡らして生きているということです。それは考えてみるまでもなく当たり前のことなのですが、それが過度になっていることが多くの問題を引き起こしているのです。怖れを回避しようとする力が強いあまりに、自分を抑えて我慢を継続してしまったりするのです。

 例えば、親に怒られてる子どもが自分は悪いと思っていないにもかかわらず、あまりの怖さから逃げるためだけに「ごめんなさい」というかも知れません。このときに自分が怒られる正当な理由があると分かる場合には問題ないのですが、理不尽な怒られ方をしているにも係わらず、怖さから逃げるためだけに謝ってしまうことが続くと、怖れだけではなく怒りや絶望などの感情を溜め込むことになってしまいます。幼い子どもの立場というのは本当に弱いものです。親に捨てられたらもう生きて行くことができなくなってしまうのですから。だから、その場から逃げることもできないし、かといって強い大人に立ち向かっていくこともできませんので、謝ってその場を何とかしようとするしか他に手立てがないのです。そうやってマイナスの感情を溜め込むのです。

 乳幼児期から10代中頃までの非常に弱い立場の子どもの期間に、主に親との関係の中で子どもが感じる最も大きな怖れは、分離不安(恐怖)と見捨てられ恐怖と言われるものです。どちらも直接命に関わる根源的な怖れとなるものですが、この二つの怖れについて少し詳しく説明していきます。まず分離不安についてですが、身の安全を求めようとする本能と個体としての独立を求める本能の葛藤から生じる怖れと言うことができます。生まれて間もない幼児の頃というのは、いつまでも親の庇護のもとでぬくぬくと安全な状態を感じていたいと思うものです。しかし一方では、身の回りのあらゆるものに好奇心を抱いて、親から離れて歩き回るようになります。

 そうやって少しずつ親から離れては、また親の元に駆け寄って安全を確認するということを繰り返しながら、徐々に個体として親からの分離を進めていくのです。しかし、この大切な時期に特に母親が適切に接する事ができないと、せっかくの子どもの独立心を妨げてしまうことになるのです。例えば、母親が次第に自分から離れていく我が子を見て、寂しさや心配のあまりに甘やかして不安の信号を子どもに送ると、子どもは外に向かって冒険をしていこうとする大切な気持ちを削がれてしまうのです。そうして、親の元が一番居心地がよくて安全なんだとして、親から分離することを止めてしまうのです。

 このようにして、親から分離していく怖れを克服できずに成長していってしまうと、親にくっついて守ってもらいたいという欲求を持ったインナーチャイルドを抱えたまま、社会に向かって出ていかねばならなくなります。社会というのは、親から離れた怖い世界だと感じているインナーチャイルドの影響で、社会人として頑張ってもなかなか適切な人間関係を作ることがむずかしくなって、何度となく職場を変えても失敗して、結局親の元に戻ってしまうことになったりします。親の元に戻っても、それはそれで居心地がいいわけではなく、結局自分の部屋にこもるような生活になってしまいます。これが引きこもりの人の心の状態である場合が多いのです。

 もう一つの怖れである見捨てられ恐怖については、余程理想的な親に育てられない限りはほとんど誰の心の中にもある怖れと言ってもいいと思います。この怖れは、自分がどれだけ親から認められて愛されていると感じているかということと反比例します。つまり、親からの愛があやふやだと感じているほど見捨てられ恐怖は増大するということです。親が子どもを叱るときなどに、「本当は家の子じゃない」、「どこかから拾ってきた」とか、「言うことを聞かない子はどこかの家にやってしまう」などの言葉で言うことを聞かそうとする場合があります。子どもはそういう言葉を聞くと、信じたくない反面、見捨てられたらどうしようと感じて震え上がってしまうのです。

 怒った親が子どもを家の外に強制的に出すなども、この見捨てられ恐怖の元になると考えられます。子どもは親から見捨てられる、見放されると生きていくことができないと感じているので、死の恐怖と同等なのです。外出先でわざと子どもを置き去りにするようなふりをして、言うことを聞かそうとする親もいるかもしれません。親はこのような、子どもが見捨てられる恐怖を感じるような叱り方を常套手段として使うのです。それが子どもに言うことをきかすために一番効果があると知っているからです。なぜなら、親自身が子どものときにその親から同じようなことをされて、自らがこの見捨てられる怖さを心の奥で知っているからです。

 親が子どもを脅すつもりはなくても、例えば夫婦仲が悪くていつも喧嘩が絶えないような状況では、子どもは安心して毎日を過ごすことができなくなります。そして、母親が勝手に突然実家などに帰ってしまったりすると、子どもは本気で見捨てられる恐怖を味わうことになってしまいます。自分がどんなにいい子にしていようと、避けることができないこの恐怖は無力な子どもにとってとても大きな怖れとなってしまうのです。この怖れは直接向き合うことが全くできないくらい大きなものですので、いつまでたっても味わって開放することができないのです。当然大人になってもこの子どもの頃溜め込んだ見捨てられる恐怖はそのまま残っていて、自分では気づかぬうちにこの怖れを味わわないように生きるようになってしまいます。

 それは例えば、人の目、人からの評価をとても気にするなどの言動として表れてきます。自分が相手からどう思われるかとか、こんなことを言ったりやったりしたら嫌われはしないかという怖れから、本当の自分を表現できなくなってしまいます。嫌われると相手が自分から去っていくと心の奥で感じているのです。この怖れの元は、実は子どもの頃溜め込んだ見捨てられる恐怖なのです。子どもの時の見捨てられるかもしれないと思った相手は親だったのですが、大人になるとこれがすべての対人関係に使われてしまうのです。ひどくなると、縁もゆかりもないような、ただ道ですれ違う人にもよく思われたいと感じてしまうかもしれません。

 そしてもう一つ、知って置く必要があるものとして、二次的な怖れというものがあります。それは、今までお話してきたような怖れを回避しようとするあまりに、自分に我慢を強いてそれを続けてしまった結果、その我慢があまりにも辛かったりすると同じような我慢をすることが新たな怖れとして心の中に加わってしまうのです。実はこの怖れの連鎖の結果、生きていても怖いことばかりで何て生き辛い人生なんだろうと感じてしまうようになるのです。例えば、苦手な上司のもとで、苦しい思いをしながら何年も仕事を続けてしまったとします。その仕事が好きならいいのですが、単にすぐに会社を辞めたら人から何と思われるだろうという怖れを回避しているのだとしたら、ここで二次的な怖れを作り出してしまいます。それは、その上司に似た人に出会うと無意識的に拒絶感を味わって、とても普通の人間関係を築けなくなったりするといった形で表れてきます。

 このような怖れの連鎖をどこかで断ち切らなければ気持ちのいい人生に変えていくことはできません。それには、自分がどれだけ普段怖れを回避しようとしているのかということにはっきりと気づく必要があります。人に迷惑をかけてはいけないという信条で生きている場合でも、心の底から迷惑をかけたくないと思っているだけなのか、迷惑をかけることで嫌われては困るという怖れからなのか、よくよく自分の心の奥を見つめてみることです。怖れを回避して安全策で生きるのか、怖れに立ち向かって愛をもって生きるのか、それを決めるのは自分自身です。



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