白か黒かについて

 子どもの頃、算数や理科のように答えがはっきりと一つに決まる科目が好きでした。逆に国語や社会のように、場合によっては本人の主観や考え方によっては必ずしも答えが一つとは限らないような科目は苦手だったように覚えています。このことは、自分の心をよくよく見つめてみた結果、単に理系か文系かということでは済まされない何かがあるのではないかと最近考えるようになりました。答えが一意に決まらないなんて、すごく気持ち悪いと子どもの頃からずっと思っていたのですが、最近は答えが一つではないことの方が自然なのではないかとさえ感じるようになりました。

 20歳の頃からタバコを吸い始めて30歳のときに一大決心をして止めたのですが、吸っている間は特に職場では年中タバコをくわえているチェーンスモーカーだったと記憶しています。しかし、30歳で止めてからは、つい最近になるまで一本も吸ったことはありませんでした。それは一本吸ってしまったらまたズルズルと吸い出してしまうのではないかという怖れから、タバコには近寄らないようにしていたのです。しかし、癒しを始めてしばらくした頃、このタバコに対する怖れに気づいて、それを克服するために飲み会の席などで吸ってみることにしたのですが、それ以降続けて吸いたくなるということは起きてはいません。

 世間ではタバコを吸う人と吸わない人というように分けて考えるのが普通なのですが、そのどちらでもないというのでもいいのではないかと思うようになりました。たしなむ程度に吸う、あるいは普段は吸わないけれど、飲み会のときは吸いたくなるので、吸うこともあるというのでも一向に構わないのではないかと考えるようになりました。主に香りなどを味わう葉巻などをワインなどと一緒に楽しむ人もいるようですが、そういう人たちをタバコを吸う人、吸わない人と単純に分けることもできないかもしれません。

 クライアントさんの中に時々いらっしゃるのですが、たとえば毎日寝る前にこれをやろうと決めたことは、何があってもやり続けてしまう。ある種強迫的になってしまっていて、やらずにはいられなくなってしまっているのです。そして、一度でもやらない日があると、もうそれ以降続けることができなくなってしまうというものです。やれるときにはやって、やれないと思ったときには無理せずにやらないでおいて、またやれるときには再開するという柔軟さがないのです。このやり続けるか、やめてしまうかという両極端は一体どこからくるのでしょうか?

 白か黒か、0か100か、あるいは良いか悪いかなどの両極の状態を志向するのは、そのどちらでもない曖昧なものを受け止めることができない幼い心の名残りなのではないかと思うのです。まだ未発達な段階の意識というのは、生きていくために、ここは安全な場所なのか、危険な場所なのか、あるいはこの人は安心できる人なのか、危ない人なのかといった、両極端な判断を下そうとするのではないかと思うのです。そして、幼少期になかなか親から認めてもらえないままの生活が続くと、いつまでたっても不安な心を残して成長していくために、この白か黒かという志向を持ったまま大人になってしまうのではないかと思います。

 そういった未発達な心を持ったまま大人になると、様々な問題を抱えて生きていかなければならなくなってしまいます。たとえば、典型的な境界性パーソナリティ障害、いわゆる境界例の症状を持ったクライアントさんの場合、周りの人を自分にとってすばらしい人と最悪な人という具合に両極に分けてしか見ることができないのです。人間はいいところも悪いところも両方を同時に持っている曖昧な存在なのだという見方ができないために、ある人をとてもすばらしいと崇拝していたかと思うと、何かの拍子に突然のように極度に蔑んでこき下ろすといったことが普通に起きてしまうのです。

  癒しの作業の中心となる感情を開放するということにしても、心の奥に蓄積された様々なマイナスの感情の全てを味わって溶かしてしまって楽になりたいと思われるクライアントさんが多いのですが、感情の全てを開放するなどということは現実にはあり得ません。もしもそういう状態の心になってしまったら、それは神と同じレベルになってしまうとも考えられます。あくまでも、自分が生きていくのに不自由を感じないと思えるようになったらそれでいいのです。だからこそ、癒しの道がこれで終わりという終点もないのです。

 「〜べき」、「〜ねばならない」、などの言葉で表現できる、心の中に作られた制限を手放すことが自分自身を解放することに繋がるというお話をすることがありますが、これも実際にはそういったものを信念の中から消し去るということを言っているのではないし、そんなことはできないのです。つまり、100%何が何でも死守するという完全な状態から0%のどうでもいいという状態に向かって変化していくだけなのです。0〜100%の間のどこかのグレーゾーンに元々いて、なるべく0%に近づけるように変えていくということなのです。絶対に人を傷つけてはならないというのではなく、自己犠牲を強いない程度に人を傷つけないようにするというような、自分にとって最適なグレーゾーンを選べる生き方が大切なのです。

 このように人は完全な白でも黒でもない、その中間であるグレーゾーンで生きているということをはっきりと認識することが大切かもしれません。一意に決まる完全な白とか黒ではなく、その間のグレーには白と黒の成分比によってそれこそ無限に色の種類があるのです。そういう曖昧な色で生きているのが人間なのです。曖昧だからこそ、白でも黒でも同時に見たり味わったりすることができるのではないかと思います。自分の心を見つめたときに、白黒はっきりさせたいという強い気持ちが見つかった場合には、そのことが自分の人生を何かしら圧迫していないかどうか疑ってみて下さい。

 物理学の中でもミクロの世界を扱う量子論の中心となる理論として、今から80年ほど前にハイゼンベルグという人が発表した不確定性原理というのがあります。それは原子や電子といった極微の世界のものは、その位置と速度を同時に確定することができないというものです。つまり、曖昧に存在しているとしか考えられないということなのです。原子の周りを電子がグルグル回っている図は学生のときに習ったことがありますが、実際の電子は雲のようにある確立でしか存在を示すことができないのです。そう考えるとこの宇宙そのものが元々曖昧なものなのではないかという気がしてきます。だとしたら、宇宙の一部である人間が曖昧な存在であることは当然のことなのかもしれません。曖昧であることを楽しめるような心のゆとりが持てると、人生が心地いいものになっていくのではないかと思うのです。



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