波照間島の思い出 その5

波照間島では、同じ民宿に泊まるもの同志にある種の仲間意識のようなものが生まれたりするのですね。夜な夜な酒を酌み交わしたりするからかもしれません。

それで、仲間の誰かが島を発つ時には、残っている仲間が船着場まで見送りに行くという風習があるのです。

そして別れを惜しんで、送る側が海に飛び込むというのも慣わしになっていたようで。私は1人での時間が大事なので見送りにいく機会を逃しました。

逆に自分が島を発つ時には、何人かの仲間が見送りに来てくれました。ただ海はおおしけで、ギリギリまで出航するかどうかわからなかったのです。

そんな中なんとか出航したのですが、フェリーの中で散々な目に遭ったのです。フェリーといっても小型のジェットフェリーなのです。

だから海が荒れている海面をジャンプするようにして進んでいく訳です。初めのうち、湾の中を進んでいるうちはよかったのですが、外海に出た途端立っていられなくなりました。

それどころか、椅子に座っているのもままならないほどで、約1時間ほどの間、全力で柱などにしがみついていなければならないほど。

船が揺れて船酔いしたら嫌だななんて思っていたのですが、それどころの騒ぎではなく、ほとんど何の記憶も残っていないほど揉みくちゃにされたのです。

ジェットコースター的なアトラクションが大嫌いな私としては、もう二度と経験したくない海上での格闘劇でしたね。

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波照間島の思い出 その4

波照間島の思い出の中で、特に楽しかったのは主に二つのことが挙げられます。そのうちの一つは、民宿でのことですね。

民宿で過ごすのは、朝食と夕食の時だけで、あとは外へ出かけたりしてました。そんな中で、夕食の時には決まってみんなで外の庭でテーブルと椅子を並べて祝杯をあげるのです。

波照間島には、島特産の焼酎として有名な「泡波」というお酒があるのですがご存知ですか?お酒が好きな人は知っているかも。

ネットの情報によると、『波照間島民向けに製造していることから、そもそもの生産量が少なく、沖縄本島からも直通のない島のため流通コストもあり、結果的に希少かつ高価な泡盛となった『泡波』。この理由から「幻の泡盛」と呼ばれるようになりました。』

その貴重な泡波が毎晩のように出されるのです。それも無料で。事情はよく分からないのですが、島の人が持ってきてくれるのだとか。

それで宿泊組と一緒に呑んでいくのです。場合によっては、島の人が三線(さんしん)を奏でながらの唄を披露してくれたり。

そしてもう一つの楽しみがやっぱり海ですね。昼間の海水浴もいいですが、深夜の海はもっと幻想的で素晴らしい。

誰もいない海で、月に照らされて海面がキラキラ輝いてそれはそれは綺麗なのです。ずっと泳いでいられる感じがしてきたり。

ところが、海底をのぞいてびっくりしたのですが、1メートル間隔置きくらいにずらっとナマコがいるんですね。

ちょっと気持ちが悪くて、おいそれと海底に足をつけることができないのが辛かったです。そんな感じで、民宿では人との交流がメインで、外では全く1人で行動していました。

そのバランスも心地良かったのかもしれませんね。

波照間島の思い出 その3

波照間島に行ってからしばらく経ったある日、何かのテレビ番組を見ていたら波照間島の特集をやっていたのです。

そして、ああ懐かしい風景だななんて思っていたら、知ってる子が映ったのです。確かにその女の子の記憶がある。

実は私が島に滞在している約2週間の間に、島をあげて行う運動会が開催されたのです。島には幼稚園と小学校と中学校がそれぞれ一つずつしかないのです。

それも同じ場所に建っていて、それ以外はないのです。だから運動会も幼稚園、小学校、中学校が一緒に行うのです。

島のみんなが参加する運動会なので、私たち民宿組もみんなで見に行った訳です。そこで、幼い女の子と知り合いになって。

その子が初めて会った私に懐いてくれて、運動会の間中ずっと一緒に遊んだりしていたのです。その子が画面に出ていた訳です。

彼女のご家族全員も一緒に出ていて、波照間島の中でも最南端に位置するところにある家のご家族として紹介されていました。

ちなみに、彼女には小学生高学年のお姉さんがいるらしく、彼女はヤギをペットとして飼っているのだとか。

確かに、波照間島の至る所にヤギが放し飼いになっているのを見たことがありました。ところが、ペットとは名ばかりで何かのお祝い事などがあるときに、食べられてしまうのです。

波照間島の子供達は、大切に育てていたペットを家族全員に食べられてしまうという、かなり過酷な体験をして育っていくんですね。

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波照間島の思い出 その2

波照間島から帰宅して数日たったある朝のこと、出かける支度をしながらも聞こえてくるテレビの中の男性の声にオヤっとなったのです。

あれ、何だか聞き覚えがある声だなと思って画面を見ると、少し前までお世話になったあの波照間島の民宿のご主人の姿が映っているじゃないですか。

そして、その民宿から海までの歩き慣れた小道も映ったりして。何だ何だとなって見ていると、驚くことにそれは凶悪な事件の取材だったのです。

どうも、あの民宿に宿泊していた若い女性が海の近くの東屋で殺されたのだとか。その女性は、ちょうど私と入れ替わりで宿に来たらしいので、私は会っていないのです。

犯人はまだ見つかっていないらしく、島をあげて大捜索が始まっていたのですね。それにしてもびっくりです。

真夜中に1人で海まで行って、その東屋に荷物を置いてから、月明かりの中よく泳いでいたし、数日ずれていたらこの事件に巻き込まれていたかもしれないなと。

この話を当時通っていた催眠療法のクラスの友人たちに話したら、大澤さんが犯人なんじゃないの?とか言われたんですよね。

しばらくして無事犯人が逮捕されたので、私の嫌疑は晴れたのですが。犯人の男性は、宿に泊まらずに禁止になっていたテント生活をしていたらしいのです。

事件に直接巻き込まれなくても、ほんのちょっとの差で島から出ることが許されない状態になっていただろうなと。そんなレアな体験でした。

波照間島の思い出

最近ずっと非二元の話ばかりしているので、今日はちょっとした箸休め的な話をしたいと思います。

今の仕事を始める少し前に、波照間島に遊びに行ったことがあるのですが、この島の事ご存知ですか?日本最南端の小さな島です。

自転車で島を一周するのに30分くらいしか、かからないくらい小さいし、宿泊するところも、ちょっとした民宿が数軒しかないような島なのです。

その民宿の古臭い畳の狭い部屋に寝ている時に、明け方ふと目を覚ますと、誰かが外を歩いている足音が聞こえてきたのです。

窓のすぐ傍に寝ていたので、その足音との距離はきっと1メートルくらいしかないように感じていたのです。

なので、ちょっとした恐怖がやってきたのです。そしてじっと耳を澄ましていると、その足音は行ったり来たりして、至近距離で立ち止まったりしてるのです。

絶対にこんな早朝に建物の外をふらつく人などいるはずがないと。これは完全にお化けか、あるいは頭のおかしい人に違いないと。

もしも窓を破るか、すり抜けて部屋に入ってきたらと思うと、本当に怖くなったのです。それでもしばらくして、その足音は消えてなくなったのです。

朝食の時に、実は明け方こんな体験をしたということをみんなに話したところ、民宿のご主人が「ああ、きっとそれはお袋だよ」と。

離れになっている部屋に1人で暮らしていて、普段は滅多に表に出てこないらしいのです。もしかしたら、若干認知症になっていたのかもなと。

結構自分は怖がりで、勇気がないんだなと自覚しましたね。でも、思い切って窓をバーって開けなくて良かったです。

この波照間島に関連した小噺は他にもあるので、また書きたいと思います。

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魂の修行に興味なし

人生は「学びの場」だということを聞くことがあります。そのためには、1人で勝手をしているだけではダメだと。

様々な人との交流を通して、多くのことに気づいていく必要があるのだと。それは確かにその通りかもしれません。

自分の経験でも、一緒にいて楽な人といるよりも、ちょっと面倒だなと感じる人とか、苦手だなと思うような人といる方が学べる感じがします。

そうやって人格形成というのか、人格を磨いていくのが正しい道なんだとか。ただ、自我であることには変わりはないわけで。

自我をどれほどピカピカにしたところで、所詮は自我なのです。ある程度の癒しは必要だとは思うのですが、自我を磨くことには興味がないですね。

もっと単刀直入に言えば、人格というものに興味がないのです。だからこそ、自我から離れていくことにしか興味がなかった訳です。

気が合わない人とは一緒にいようとは思わない。そこに学びがなくてもいいと思うのです。学んだところで、修行したところでどうにもならないので。

ついでに言えば、魂の段階があるとかいうまことしやかな話にも、一ミリの興味もありません。人がそういうことを気にして生きていることには無関心。

どうぞご自由にという感じで、それを否定することもなく。もっと言えば、人生があるとするなら、人生は全自動だと感じますね。

直接の体験だけがリアル

この世界には実体がないという気づきがやってきてから、非二元と呼ばれる世界へと迷い込んでしまったようで。

こういう表現をするにもちょっとした勇気がいるのです。なぜなら、実体がないはずの誰かが迷い込むなどということは不可能だからですね。

昨日のブログでも触れたことですが、非二元というのは非常にシンプルで、シンプル過ぎてかえって分かりづらく感じてしまうのです。

悲しみや怒り、あるいは不安などを感じるのは実体としてはないのですが、体験としてはリアルなものですね。

あなたが街を歩いているとして、街を歩いている体験はリアルなものですが、歩くという行動はイメージでしかありません。

歩くという物理的な行為は、物理的な身体が必要になるのですが、身体という実体もないし、街という実体もないからです。

数ヶ月前にこんな話を誰かから聞いたら、まるで訳のわからない意地悪な禅問答のような印象を受けてしまうかもしれません。

けれども、リアルなこと、現実というのははっきりしているのです。それは、どうしようもなくただあるからですね。

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非二元はシンプル過ぎて難しい

非二元ってあまりにもシンプルなことなので、心の癒しのこととは違ってほとんどあまり表現することがないのですね。

だから質問の内容がどんなものであれ、質問をいただくとそれに答えるということができるので、非常にありがたいのです。

しかも、実際に質問をされなくても、他の人の質問に対して「そうそう!」と思っている人も結構いらっしゃるのではないかと。

私自身も、じつは自分がお伝えしている非二元に関連して、いくつか質問をしようと思えば質問ができるのです。

けれども、それは私たち自我には決して理解することのできないことだろうなと、そう思うので疑問をそのままにしているのです。

それにしても最近ふと思うのですが、なぜこれほどまでに究極のシンプルなことにこれまで気づくことがなかったのかなと。

シンプル過ぎると、自我はそれを拒否するのかもしれないですね。思考は複雑なものを好むけれど、逆にシンプルなものはきっと苦手なのです。

人生80年だとすると、残り少なくなってきた今のうちに気づくことができてよかったなとは思うのです。ただそんな自分はいないんですけどね。

ピダハンのように直接体験だけを見る

私たち人類がこうして地球の支配者として君臨することができた理由の一番の要因は、想像する力だと言えるかなと。

目の前にないことを想像できること、これは他のどんな動物でもできないことなのですね。過去のことや未来のことを考える。

ここにはない何かのことをイメージすることができるだけでなく、それを他の人たちと共有することができる。この能力がとても大きいのです。

他の動物は、直接の体験の中だけで生きている訳です。だから広がりがないのですね。自分の目の前の世界だけを対象として生きているのです。

ところが、人間は直接体験よりもその何十倍もの時間と労力をイメージに注ぎ込んでいるのです。そこにこそより重要な事柄があるのだと。

人間でも動物のように直接体験しか信じない民族もいます。以前紹介したことのあるアマゾンの少数民族であるピダハンの人々です。

彼らは人から聞いた話はほとんど信じないし、相手にしないのです。だから彼らの生活はとてもシンプルなのです。

けれどもその一方で、私たちのような高度な文明を発展させることはできないでいるのですが、世界一幸福な民族と言われているのも事実です。

実は非二元に近づくためには、ピダハンのように直接の体験をイメージから切り離すことが必要なのだろうなと思うのですね。

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非二元の話の前に…

私たちは気がつくと、自分の身体の外側に広がっているこの世界をありのままに体験していると思い込んでしまっています。

清々しい風の感触をありありと皮膚感で味わうことができるし、美しい景色をそのままに見ることもできるし。

海に行けば、潮騒の音をずっと聞いていられるし、芳しきワインと美味しいご馳走を堪能することもできるのです。

また大好きな人たちとの会話を楽しむこともできます。だから、思い描いている通りの世界が外側にあると信じて疑いません。

けれども、本当はどうでしょう?私たちが知っているのは、全て肉体の五感を通して認識した情報だけなのです。それが世界を認識するということなのです。

つまり、全て「間接的」にしか知ることができないのです。こんなごく当たり前のことを普段は忘れてしまっています。

私たちが知っている世界というのは、全て脳の中にしか存在しないものです。つまりは仮想的なものでしかないということです。

たとえば、外の世界に色というものは存在しません。どれほど極彩色豊かな景色だとしても、その色は脳の中にしかありません。

わかりやすく言ってしまえば、あなたが認識している世界とは自分の脳の中にしか存在しないものだということです。

ここまでは、非二元を持ち出さなくても理解することはできます。非二元の話を理解しようとする前に、このことをまず分かっておく必要があります。

ただし、もちろんこの話の延長上に非二元があるという訳ではありません。要するに、知っているということの危うさにまずは気づくと。これがどうしても必要なんですね。