無常には因果がある?

無常というのをキーワードとして、初期仏教と私が見ている非二元の関連性を検証してきたのですが、ここで決定的な違いを発見しました。

それは、因果についてです。仏教では物事の起きる全ては因縁によっているという言い方をしますね。

つまり、原因があって結果が起きているという見方なのです。瞬間ごとに現れが変化するというところは分かるのです。

けれども、前の現れが次の現れの原因となっているというのが、どうにも分からないのです。私の感覚では、その連なりはない。

一体全体、現れ同志の繋がりってどのように起きるのか、これは是非仏教の長老に説明をして欲しいところです。

相手は悟った人ですので、どうやったってむこうが真理を突いているということなのでしょうけれど。

そこの仕組みが分からないのです。こうした謎も、少しすると解決してしまうのかもしれませんけれどね。

「持続する現在」はない

昨日のブログでは、無常の前提として時間というものがあるというのは妄想であって、実際には時間は変化を説明するための概念だという話をしました。

だとすると、「今」というのは一体なんなのでしょうか?私たちは通常、今というのは過去があって未来があって、その間の一点が「今」だと思っているのです。

言ってみれば、時間の線の上の点なんだと。でもこれはすでに思考が作ったモデルに過ぎないということ。

実際には、観察によってわかることは「これが今だ」と指させる固定点などどこにもないということです。

「今」を掴もうとするとどうなるのか?「今だ」と思った瞬間、それはもう記憶になってしまっているのです。つまり一歩遅れている。

だから、「今」は対象として捉えることはできないのです。実は「今」というのは、現れていること自体(プロセス)なのです。

どんな今も次の瞬間にはもう別のものになってしまうのですから、「持続する現在」という考えが崩れることになるのです。

となると、「持続する私」というのも当然不可能になってしまいます。やっぱり私はいないことを示していますね。 

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時間は前提ではなく、派生物

仏教でいう無常というのは、時間の流れの中で絶え間なく起き続ける変化のことを言っていると普通は思うはずです。

逆に言えば、時間の流れがなければ変化はないんだと。だから、無常というのは時間の流れが必須なのだと。

ところが、観察の精度が上がっていくと、そうではなくなるのです。よく観ると、直接わかるのは、現れが起きる→消える→別の現れが起きる、なのです。

ここには、まだ時間というものは出てきていないのです。実際の体験としてあるのは、変化(生滅)の連続だけなのです。

そしてここから肝となる部分なのですが、時間というのは変化を後からまとめて説明するための概念だということ。

無常を深く見るということは、「変化している」という事実を徹底して見ることです。だから、当然時間という枠組みよりも変化そのものがリアルになるのです。

その結果、時間は前提ではなく、派生物になるわけです。変化は時間の中で起きているのではなく、変化の連なりを時間と呼んでいるだけなのですね。

モノが動いているのではない

クルマが向こうからやってきて、走り去って行ったというとき、私たちはクルマが移動していると感じるのです。

ところが実際には、現れだけが起きているという立場に立った時には、全く違うことに気づくはずです。

それは、見えているものが映像だと思えば分かりやすいのです。ただ単に映像が変化しているだけなのです。

クルマが向こうにあるときの映像と、通り過ぎる時の映像では違いがあるわけですが、それこそが変化なのです。

どれほど強固なボディを持ったクルマをイメージしたところで、それが映像だと分かれば瞬間瞬間に変化していることに気づくのです。

仏教の無常に通ずることです。全てが現れでしかないということに心底気づくことができれば、そこに無常があるだけなのです。

仮に目の前に設置されたテレビは、それ自体も硬いし全く動いてもいません。それでも実は常に変化しているのです。

あなたがそのテレビを見る角度を少し変化させただけで、テレビの形は変化するし、場所も変わって見えるはず。

それこそが無常の本質なのですね。

現れを連続である必要がないと体感する

仏教では、苦しみの原因は「執着」だとされています。だからその執着は何に対して起きるかを見る必要があるのです。

それは、変わらないと思っているもの、コントロールできると思っているもの、そして自分のものと思っているものに対して起きるのです。

でも「無常」を本当に見るとどうなるか。当然のことながら、上記の三つのものがそもそも存在していないことに気づくだけではないのです。

そんなことは、論理的に考えてみれば誰にでも分かる当たり前のことです。本当に無常を見るとは、体感として執着の構造を見破ることなのかも。

それは、この世界(現れ)を「連続した物語」としてではなく、「瞬間ごとの発生と消滅」として見る訓練なんだろうなと。

これは大変なことかもしれません。非二元の話の中で、体験には物語を作る思考体験と、直接の体験があるということを言ってきました。

この直接の体験を徹底的に体感し続けることで、ようやく真に無常を知ることができ、その結果が自動的にやってくるのかなと。

不可能に思えるけど、映像の1フレームごとを不連続なものとして体感できるということ?いや、そういうことではないのかも。

むしろ、連続しているように感じていたものが、連続である必要がなくなるってことなのかもしれないですね。

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この世界は不要だった!

非二元のことをお話ししていると、どうしてもこの「世界はない」という表現をしてしまうことがあるのです。

この言葉を聴いてどう感じるかは人それぞれでしょうけれど、さすがに遠慮会釈のない表現だなと思うのです。

あるいは、どうやって世界はないということを証明できるのか?と質問されたら、明確には答えられない面もあるのです。

丁寧に答えるとするなら、この世界があるともないともどちらとも言えないというのが本音かもしれません。

というのも、この世界があろうがなかろうがどちらであっても関係がないからです。つまりは不要だったということです。

なくてはならないもの、なければ毎日が成立しなくなるものでもないということです。この辺の表現も難しいのですが。

目の前の空間に、ピンクの小さな象がぷかぷか浮いていたとしても、それが見えないし聞こえないし触れられないなら、あってもなくても同じなのと一緒なのです。

ここには、必要なものも意味のあるものも、価値あるものも何もないのです。ただ現れが起きては消えていくのみですね。

「私」はどのように生まれたか?

非二元の探究が始まるずっと前から、この私という自我は幻想に過ぎないというのを探究の中心として設定していました。

今でもそれ自体は変わってはいないのですが、一体全体どのようにして「私」という幻想が生み出されたのか?

そのことをしばし見つめていたのですが、きっとこうだろうということを見つけた感じがするのでここで書いてみます。

まず初めに、向こう側に世界がある、向こう側に人がいるということを当たり前のこととして信じてしまったのです。

その結果、ひるがえってこちら側に自分がいるということになったのだろうなと。見えているものの反射としての自分をでっちあげたのです。

もしも、向こう側とか外側という概念がなければ、こちら側というものも作ることはできないので、そこには分離はないわけです。

この順番だったのではないかなと。そしてようやく非二元の気づきと共に、向こう側にあると思っていた世界も人もなかったと気づいたのです。

その結果、この「私」という存在も自動的に落ちていくことになるはずですね。

拠り所が解体される

これまで明確には気づいていなかったものの、物事をどう捉えるかとか何かを判断するときなどに拠り所としていたものがあったのです。

それは、科学的な立場というのか、物事を論理的に考えるやり方とか、これまで自分が経験してきた知見を総動員して考えるわけです。

そういうことが根こそぎになってしまったような、拠り所としていたものが全て使い物にならなくなってしまったような。

うまくは表現できないのですが、そんなことで困っている感じがしています。例えば、全てに原因と結果がついて回るということ。

これ一つとっても、その法則が使えなくなってしまったのです。ある現れが別の現れの原因となることは決してないからです。

そうなると、過去に体験したことがまったく役に立たないのです。だから未来を予想して動くこともできなくなるのです。

そうやって、今この瞬間が際立ってくることはいいのですが、自我としては全てが初めての経験のような感じになってしまったわけです。

これが現れしかないということから逃げずにいたことで、やってきた変化なのです。毎日自分が新米であるような感じがしていますね。

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本当に身も蓋もない

これの全てが現れに過ぎないとなると、分かってはいたもののそこから一歩も離れないようにすると、もうどうしようもないがやってきます。

この世界に80億の人々とともに生きていた頃のあの複雑さからは解放されるのですが、その一方で単純過ぎて言葉にならない。

何かが存在するという可能性がまったく無くなってしまうのですから。長年こうだと思っていたものが全部崩れていくのです。

一人静かにしている時には、それに圧倒される感じもしますが、それ自体もただの現れであって、そこから逃れられない。

あまりにも馬鹿正直過ぎて、オブラートに包むこともままならないし、どうもがいたところで全ては現れでしかない。

このことを心底から認めることはとても難しいのかもしれないですね。もう根こそぎだし、ホントに身も蓋もないとはこのこと。

こっそりと密かに驚嘆しつつ、ごく自然に振る舞うこともできそうですが、そうしたことすら現れの一部でしかないのですからね。

所詮は全てが現れでしかない

非二元の立場に立つと、何かに意味を見出そうとすることや、なんらかの価値があるということからも離れてしまいます。

あるいは、何かにつけ必ずやそれなりの理由があるはずという思考パターンからも遠ざかってしまうのです。

ただそうした現象が現れている、これだけのシンプルなものだけが残っている感じになってしまいます。

思考、感情、感覚、気分、気持ち、記憶、こうした分類があるように思えるけれど、本当のところはどうだか分からない。

この一瞬一瞬が意識の場に現れては消える現象の連続のように思えるものの、それを解釈することも理解することもできない。

本当に何が何だか分からないというのが本音なのです。思考による解説はいくらでもできるのですけど。

それが最近は言葉による説明をしても、これも単なる現れに過ぎないとなって、ちょっと熱が冷めた感じがしていますね。