対象を持たない欲望

誰であれ、ものすごく欲しかったものがやっと手に入ったときには、とても嬉しくて有頂天になりますね。それは、モノだけではなくて、人の場合だってあるはずです。

何にせよ、何かを欲するという欲望があって、それを満たすために頑張ったり努力したりして、ようやくそれをわが物にしたときの感動は、すばらしいものです。

けれども、その素晴らしい気持ちというのは、残念なことにいつも一過性のものだったのです。どれほど大喜びしたとしても、しばらくするとそれが当り前のことになり、また別の何かへの欲望が湧いてくるのです。

こうした繰り返しをもう何度も何度も続けてきて思うのは、外側には本当に自分を満たしてくれるものは何一つなかったということです。

もう十分過ぎるほど分かっているはずなのです。それでも、気が付くとまた別の何かを見つけてはそれを手に入れることで束の間の幸せを貪ろうとしてしまうのです。

そこで、さまざまな経典には、「あなたの苦しみの原因はその欲望にある、だからその欲望を手放しなさい。」と謳ってあるのです。

確かに欲望がなくなりさえすれば、誰もがそれを手に入れることができなくても苦しむことはなくなるはずです。でもどうやって、欲望を落とすことなどできるのか?

考えると、欲望こそが悪者のような気さえしてきます。けれども、実は欲望そのものには何の悪意もありません。というよりも、それは私たち自身の本質であるとも言えるのです。

ただし、私たちが欲望という場合には、そこに必ず何等かの対象物が想定されているのです。外側の世界に存在する対象物への欲望こそが、我々を苦しめる原因であって、欲望それ自体ではないということに気づくことです。

では対象を持たない欲望とは何でしょうか?それ自身が拡張したいという強烈なエネルギーだと考えればいいのです。欲望はただのエネルギーであり、それこそがこの生を生み出しているとも言えるのです。

内側にあるエネルギーに欲望という呼び名は不適当な感じもしますが、それが外側の対象へと向かう時には、欲望という名前で呼ばれることになるのです。

自分の欲望から対象を落として内側に溜めるとき、きっと爆発が起きて全体へと帰ることになるのではないかと思うのです。

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