ハート優位の人生へ

多くのクライアントさんと接してきてつくづく感じるのは、頑張って自分の力で何らかの目標を達成しようとしている人が大勢いるということです。

努力とか忍耐とか、乗り越えるとか、とにかく力づくでやり抜くと言う傾向に関しては、比較的得意なのですが、その逆に力を抜いてリラックスするとか、何も考えないでお任せするなどが苦手なのです。

人間というものは、元々そうした生き物だなどと思わないで下さいね。そんなことは決してありませんが、ただ多くの人々がマインド優位で生きているということの証なのです。

ハートよりもマインドに重点が置かれているために、あらゆる行動にはそれなりの目的があって、その未来にのみ存在する目的のために現在の行動を捧げ続けているのです。

マインドというのは、常に目的指向、達成指向なのです。そもそも、マインドの中にある思考というのは、目的とか価値とか、意味というようなことにしかエネルギーを向けられないものなのです。

だからこそ、マインド優位になれば必ずや、決してやってくることのない未来のために、現在を費やすことになってしまうのです。それは、手段と目的の分離を招き、その距離こそが欲求なのです。

したがって、この生き方を続けている限りは、決して満たされることはありません。ではどうやったら、ハート優位に変えていくことができるのでしょうか?

直接的にハート優位にしようと頑張るなら、それこそがマインド優位のやり方ですね。そこに気づくことです。ハートは、どんなことも直接的に変えようとはしません。

遊び心をできるだけ復活させるのです。それは、手段と目的が一つであること、あるいは今行動していることそのものが目的となるということです。

遊びとはそういうものです。その時間、マインドは自然と静かになっていくことになるのです。そして、ハートが結果として活性化していくのです。

人生にどれだけ遊びの要素を取り込めるようになるか、そこに意識を向けることができるなら、きっとあなたの人生は多いに満ち足りたものへと変貌するでしょうね。

心の声に聞き耳を立てる

今朝出かけるときに、家人に忘れ物はないの?と聞かれて、ないよ!と即答して家を出ました。そして、クルマのドアを開けようとしたその瞬間に、水着を持ってくるのを忘れたと気づいたのです。

でももう、部屋に取りに戻るというのが面倒だったために、今日は泳ぐのをやめようとそのときに決心したのです。実際、プールは凄く空いていて、ああ勿体ないことをしたなと後悔したのでした。

実は、家を出るときに何となく手持ち無沙汰というか、何か忘れているのではないかと言う感じはあったのですが、忘れ物がないかと聞かれて、ああ忘れてたというのが何となくシャクなので、ないよ!と即答してしまったのだと思うのです。

みなさんにも似たような経験がないでしょうか?何となく違和感を感じながらも、その感覚を無視しつつ行動を起こして、結果として何かを忘れていたといったようなことが…。

あの違和感というのは、忘れているよ!という心の声をかすかに聞いているということなのでしょうね。本当は忘れていることを、心の奥では知っているということです。

実は私自身は、なるべくどんな心の声も拾い上げて、受け止めるということを実践しているつもりなのですが、それにもかかわらずその声を無視してしまったのですね。

ただ一つ言い訳になるかもしれないのですが、今日は何だか泳ぎたくないという気持ちもあったのです。少し体調がすぐれないという感覚があったので。

そのために、泳がないという現実を作り出すために、わざと心の声を無視したのではないかという思いもあるのです。人の心というのは、本当に微妙なものですね。

これからも、私は自分の内側のかすかな声に聞き耳を立てながら、生活していこうと思っています。それが結局は自分を観照する、自分に意識を向けるということになるのです。

そのようにして、できるだけ一瞬一瞬に注意深く生きることこそが、気づきに繋がるということなのですね。

マインドが二元性を作る

みなさんは、二元性とか二元論と言う言葉をご存じですか?このブログでも何度も出てきている言葉なので、もうすでに馴染みの言葉だと感じる方もいらっしゃると思います。

この世界というのは、二元性で出来ていると言われているのですが、それは善と悪、光と闇、昼と夜、前と後ろのように、どんなものでもその逆がペアのように常にあるのです。

プラスがあればマイナスがあり、男がいれば女がいるのです。愛があれば恐れ(憎しみ)があるという具合に、無数に挙げられますね。

ところがどっこい、この世界が二元性で出来ているというのは、実は真っ赤な大うそなのです。あるがままのこの世界には、二元性などというものは存在しません。

本当は私たちのマインドが、この世界を二元性のものとして勝手な解釈をしているに過ぎません。マインドこそが、二元性を生み出す張本人なのです。

そのことに是非とも気づいて欲しいのです。マインドというのは、分裂を意味するのです。マインドの中身である思考は、すべてを分裂させてしまうのです。

それがすべてなのです。けれども、私たちのマインドというのは常に、思考の束によって活性化しているために、この世界を見るときに二元性というフィルターを通してしまうのです。

だから、この世界そのものが二元性で出来ていると信じて疑わなくなってしまったのです。もしもあなたがマインドを静めて、思考から離れることができたら、二元性はあっという間に消え去ってしまうでしょう。

たとえば、通常私たちが愛と思っているものは、マインドの中での愛のことなので、それは必ず憎しみを伴っているのですが、真実の愛は反対のものを持ちません。

あなたがマインドから抜けるとき、不二一元論の世界が広がっていることに気づくことになるはずです。それはどんな言葉で呼んでもいいのです。

純粋な愛でもいいし、純粋な意識でも、神でも何でも構いません。それこそが、私たちの真の姿なのですね。

変化を嫌う自分

フェイスブックで見つけた姓名判断のサイトがあったので試してみたら、向いている職業が「医師、教師、公務員」ということでした。

もうすぐ還暦という人間が、今頃自分にはどんな職業が向いているかを調べても、どうしようもないのですが、面白いのでやってみたのです。

そして結構、的を得ているなと思ったのですが、特に公務員というのがピッタシカンカンなのです。実際の公務員の方には申し訳ないのですが、私が勝手にイメージしている公務員像というのがあるのです。

それは、変化を嫌う、革新的なことを毛嫌いして、すでに他人が歩いて出来上がっている道を、地道に歩む人というイメージなのです。

何か決められたことをある程度、間違いなくこなすことは得意なのですが、政治家のように大ナタを振るって、ドンドン突き進んでいくのが苦手という感じ。

それって私自身にものすごく当てはまるのです。学生のときに、自分は何になるんだろうか?と考えていたときに、何の夢も希望もなかったので、公務員になろうかと考えたこともありました。

公務員にならなかったのは、父親にそんなのつまらないぞ!と言われてしまったからです。それと、試験を受けるための勉強をするのが面倒だったというのもあります。

有能な公務員の方も沢山いらっしゃるので、私のイメージはかなり偏ったものだろうとは思うのですが、姓名判断というのは、なかなかバカにできないものですね。

そんな私が見つけてしまった人生の秘密、それは自分を変化させようとしなくていいということでした。革新的なことが苦手な私にとっては、最高の朗報です!

その代わり、今日々チャレンジしていることは、これほど革新的なことはないと思えるものです。それが、気づいているということ、意識的であるということです。

人物としての自分が変化を通して改革されるのではなく、垂直に飛躍すること、それは今この瞬間に意識的であり続けるということなのです。

そのときはじめて、人物だと思っているエゴは衰退して、ただあるがままの現実に直面することができるようになるのです。それこそが至福なのですね。

自分をごまかさずに生きる

私たちは、生まれてすぐに親から生きて行くための最低限のルールを叩き込まれるのです。あれはダメ、これをやってはならない、もっとこうしなさい!と言う具合に。

最初のうちは、無邪気に反抗していたものの、そのうちにはある程度は言いなりになった方がよさそうだと気づいて、自分の自由さとルールを天秤にかけるようになるのです。

自分の好きなようにしたい気持ちとルールを守るべきという気持ちが、うまい具合にバランスがとれてくれるといいのですが、場合によってはひどくルールが勝ってしまうこともあるのです。

それは、たとえば子供の側がすごく頑固で意志が固く、お母さんが手を焼くことになって、しまいには激しく怒りを子供にぶつけるようになれば、子供は言うことを聞かざるを得なくなるかもしれません。

あるいは、元々極端にルールに厳しい親に育てられる場合にも、同じようにして子供はルールを重要視するようになったりするものです。

珍しい場合として、子供が親には見えないものを見えてしまったりすると、子供は無邪気にそれを主張するのですが、それが親の反感を強く買ってしまい、それが原因で親からひどい扱いを受けたりするのです。

このようなことがあれば、あるいはそうしたことが重なったりすれば、当然子供は自分は親にとって何の価値もない、元々生まれなければよかった存在なんだと思うようになるのです。

親の側に愛情がないわけではないのですが、他の兄弟と比較されて否定されたり、親の心の中にいるインナーチャイルドから問題視されて、ひどい扱いを受けるようになるかもしれません。

そんな子供が成長して大人になると、ありのままの自分を出しては絶対にいけないというルールを作り、人とうまくやっていくための仮面の自分を作り出すようになるのです。

本当の自分のことは地中深く沈めて忘れてしまうのです。そうなったら、何をどうやっても心は晴れることなく、常に欲求不満状態になるはずです。

元の素晴らしい自分を取り戻すためには、常に自分を見張って、できるだけ自分に正直に生きる練習をすることです。それがどれほど恐怖に感じるとしても。

その恐怖ごと、正面からしっかり見て、感じてあげることです。そうやって、いつの間にか本来の自分が顔を出すときがやってきます。それがどれほど清々しいものか、経験した者だけが知っていますね。

否定感を観る

とかく他人のことを否定したがる人というのがいるものですね。何かにつけて、芸能人やスポーツ選手などの有名人、あるいは政治家や著名人のことも否定するのです。

ご本人としては、理路整然と否定しているという思いがあるため、自分が他人のことを否定するには、それなりの正当な理由があると信じているのです。

けれども、自分の周りの何かや他人を否定する心の奥には、必ず著しい自己否定感を隠し持っているとみて間違いありません。

その自己否定を最初にしたのは、勿論本人も覚えていないような幼い頃なのですが、自己否定を感じながら生きているのは辛いものです。

だからそれを抑圧して、感じないようにしてしまうのです。自己否定に蓋をしても、それだけでは安心できないために、その蓋を頑丈にする工夫をするのです。

それこそが、外側への否定なのです。自分以外の何かや誰かを否定するとき、自分はそれとは違うということを自分や他人に対して言明しているようなものなのです。

だから、誰かを否定しているその瞬間、一時的な安心感を得ることができるわけです。当然、その安心感は一過性のものに過ぎないため、繰り返し何度も否定し続けることをせざるを得ない状態になるのです。

せっせと誰かを否定する心の奥には、そうした本人にも気づくことのできない心のメカニズムがあるということですね。

私もよく誰かを否定したりすることがあります。ある種遊び感覚でやっているし、それほどしつこい否定でもないですが、そういう自分を見ているクセがついています。

だからなのか、深刻さを伴った否定をするということはなくなりました。本当は、否定も肯定もないというのが深い部分にデンとあるのです。

あなたの心の中にある否定的な想いを見てあげて下さい。否定するのをやめようとする代わりに、その否定感をしっかりと受け止めてあげればいいだけです。

そのうち、すべての否定がただの遊びになるはずです。

怒りを捻じ曲げて憎しみにする

子供の頃に、自分の気持ちや感情をストレートに表現できるなら、それはとても幸せなことですね。多くの場合は、自分の感情に何等かの制限を設けて、抑圧してしまいます。

たとえば、怒りを感じたとしても、親が非常に怖ければ、その怒りを直接親へ向けることはできないはずです。そうなると、子供はその怒りを処理するうまい方法を見つけるようになります。

その一つが、怒りを憎しみに変えるという方法です。怒りそのままを抑圧することもできますが、それだと何かのきっかけですぐにその怒りは表面化しようとするはずです。

そうならないために、怒りを一旦思考によって歪曲させるのです。そうして憎しみというエネルギーに変えてしまうのです。憎しみにしてしまえば、それは思考によって冷静さを取り戻すことができるからです。

つまり、怒りは火のように燃えたぎるエネルギーですが、憎しみはある程度の冷静さを兼ね備えたものになるのです。だから、本人は憎しみを感じても取り乱したりせずに済むのです。

憎しみとは思考によって捻じ曲げられた怒りなのです。それは、未来に成就させる復讐心へと繋がっていくことになるのです。

だから、怒りの言葉が、「殺すぞ!」という直接的で今をターゲットにするのに対して、憎しみからの言葉は、「今にみてろよ!」という未来志向の言い方となるのです。

今はまだ無力な自分だけれど、未来のどこかで徹底的に仕返ししてやるから覚えておけ!というわけです。こうなると、非常に困った事態になってしまいます。

なぜなら、怒りという純粋な感情を味わって解放しようと思っても、その表面には憎しみという思考が覆ってしまっているために、それが邪魔をするのです。

怒りを解放できなければ、本人の人生は闘いだらけの壮絶なものになっていくはずです。こうした場合、ただ怒りだけを味わおうとするよりも、周辺の感情である悲しみとか恐怖などをしっかり味わうようにすることが必要かもしれません。

親を助けたいという気持ち

親というのは、誰にとっても特別な存在ですね。特に幼い子供にとっては、親なしでは生きていけないことを知っているので、まさしく特別であるわけです。

その特別な親に愛されたい、気持ちを受け止めて分かって欲しいという思いを持っていない子供は、一人もいないはずですね。

けれども、どの親も当り前のごく普通の人間でしかありません。絵に描いたような理想的な親というのは、そうそう探しても見つかるものではないのです。

したがって、どの子供も100%確実に親に対して不満を抱えているのですが、どうやってもその不満を解消することができないと分かると、自分の気持ちを紛らす様々な方法を編み出すのです。

その一つは、親から欲しいものを与えてもらえないなら、自分が親を必死で助けることでその辛い気持ちを忘れようとする方法です。

この方法は実に画期的です。なぜなら、自分が親を救おうとすることで、親と子供の立場が逆転してしまうために、きれいさっぱり本当は自分が助けて欲しいと思っているその切実な想いを、忘れることができるからです。

もしもあなたが、子供のころに親のことを可哀想に思っていたり、何とかして自分が助けてあげなければいけないと感じていたとするなら、それこそが強力な防衛方法だったということを疑う必要があるのです。

大変そうな親、可哀想な親、苦しそうな親というのは、そうした子供の心をがっちりとつかんで離さないのです。その子供は、自分のことを後回しにしてでも、親を助けようとしてしまうのです。

それが結果として、多大な自己犠牲の蓄積を生み、未来に向けての負の遺産となってしまうことに気づくことはまずありません。

自己犠牲のつけは、怒りという感情のエネルギーに変換されて、いつかは爆発することになるはずです。そのときに、なぜ大切な親に自分はこれほどまでの怒りを感じるのか、きっと理解できないでしょうね。

親を助けようとばかりしていたはずの自分が、心の奥では親を憎んでいたということが多々あるのは、こうした心の働きがあるのです。

どんな感情が見つかったとしても、それをそのまままずは認めてあげることです。そのうえで、じっくりと過去を見つめて、癒しを進めていけばいいのですから。

自分自身でいるだけ

今の私がサラリーマン時代と比べて、一番大きく変わったところと言えば、それはどんな「自己改善プログラム」にももう興味がなくなったということです。

もう少し正確に言えば、自分のマインドの中にあるものは一切変わっておらず、当然以前からあった「自分をもっとよくしよう!」という思いもそのままに実は残っているのです。

けれども、それすらそのままにして、そうしたマインドを見る立場になれるようになってきたということなのです。極端な言い方をすれば、人のマインドの中身がそうそう変わることはありません。

マインドに手を付けて、それを何とかしようとするのがマインドど真ん中のやり方なのです。自分を改善しようとするどんな思いにも乗っ取られることなく、それをあるがままに見ることができるようになったということです。

こうしたことを、ものすごく的確に表現した osho の言葉があったので、以下に紹介します。あ~あ、何でこんな上手な表現ができるのか、無駄がないんですよね!

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まず必要なのは、変えようとする努力ではない。最初に必要なのは、自分の実存をよく知ろうとする努力だ。あなたのなかにいるのは誰だろう?あなたを訪れた、この客に目を向けなさい。

あなたの身体は、客をもてなす主人だ。その身体には、見知らぬ客が滞在している。彼方からの客が、身体に降りてきている。

それがあなただ!ただ目を向け、見守り、瞑想し、それに気づいていなさい。自分を変えようとする努力をすべて落としなさい!あなたの全エネルギーを、自分自身を知ることに注ぎなさい。

するとその知ることから成長が生じ、その成長があなたの本来(オリジナル)の面目(フェイス)をもたらす。自分自身でいるだけでいい。あなたはすでに自分であるものでいればいいだけだ。

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「すること」と「在ること」

この世界を見ると、二つの要素から成り立っていることに気づきます。それは、「すること」と「在ること」です。「すること」とは、あなたの言動であり、あなたのマインドによって支援されているものです。

一方、「在ること」は、あなたの実存を感じることであり、それはハートを通して感じられるものです。「すること」が動であるとするなら、「在ること」は不動であるとも言えます。

その両方が互いに補い合って、この世界は成立しているのです。あなたが何かを達成しようとするなら、それは「すること」に属することになりますね。

もしも、あなたが自分の存在価値にしっかりと気づかずに大人になってしまったとしたら、きっとあなたは「すること」ばかりに関心を向けることになるはずです。

なぜなら、存在価値の代わりになるものを探して、それを手に入れて何とか安心しようとするために、それは成果主義にならざるを得ないからです。

そのような場合、あなたは「在ること」の方に目を向けたことがないかもしれません。「在ること」、つまり自分の存在について見る眼が養われていないのです。

「在ること」に意識を向けるためには、瞑想が一番手っ取り早い方法です。「在ること」とは、人物としての自分を離れて、この世界の実存にハートを開くことです。

人物としてのあなたが、人生の中で何をしようと、どれほど闘って自己防衛をしようと、何かを達成して幸せになろうとしようが、その背後には常に「在ること」が広がっていることに気づけばいいのです。

「すること」は円の円周上をグルグルと回っていることだとするなら、円の中心こそが「在ること」なのです。この相補的な関係に気づくことです。

円周だけの人生では、何の深みもありませんし、決して満たされることがありません。あなたという人物は、常に円周上で活動しているのであって、それは本当のあなたではないのです。

不動の円の中心こそが、あなたの本質なのです。いつからでもいいので、円の中心の方向を見る練習を始めることです。「在ること」はあなたを静寂へと導いてくれるはずです。