覚醒できなかった先達の思い

どんな人であっても、幼い頃に与えられた親からの影響を色濃く持っているものですね。それは、遺伝とはまた別の育てられ方から来るものです。

けれども、そういう影響でもなく、遺伝でもなく、不思議なことに誰からも影響を受けたはずもないのに、なぜか特別な何かに興味を持っていたり、独特の感覚を持っていたりします。

生まれる前に、誰かの経験が自分の記憶システムの中に組み込まれたかのように。はっきりとした体験としての記憶はないのに、何故かこだわりを持っていたり…。

私が中学一年生のときに、教室の前にある大きな黒板の上のところに、額縁に入った「無」という文字が飾ってあったのを憶えています。

それは、担任の先生の趣味だったらしく、自分の作品を誰の目にも見える一番目立つ場所に飾ったのでしょうね。その「無」をぼんやり眺めていた自分を憶えています。

その時に、「無」は最強だと分かっていました。何か一言でも口に出せば、それだけ堕落する。沈黙していることで、議論の土俵を遥かに超えてしまう。

また、「無」だけが変化することがなく、時間の外にあるものだということを、感覚として知っていました。それは、今この瞬間に感じているものと全く同じものです。

だから不思議なのです。誰かから学んだものでは決してないのですが、とにかくそのことを知っていました。でも表現方法が分からなくて、口に出したことはなかったかもしれません。

さらに、年齢は定かではないのですが、「死んだら目覚める」という感覚が自分の中にあることにも気づくようになりました。

最近それが確信のようになってきたのは、新しいかもしれません。きっと、かつて誰かが自分の本質に気づきつつ死んで行ったように思うのです。

その記憶が私の記憶システムの中に入れられたように感じています。この感覚は、体験として確かに知っているというものです。

だから、全体性というものにも馴染があるのでしょうね。気づきつつ死んで行ったのに、覚醒できずに残念な思いをした先達のためにも、残された人生をそのことに捧げようと思うのです。

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