どちらでもないが究極

何かを買いに行って、どちらにするかなかなか決められない時って誰にでもあることですね。一緒に付き合ってくれた人に、優柔不断だなと嫌味を言われたりして。

けれども、実は優柔不断というよりも、選んでいるものに対してのこだわりが強いために、なかなか決断ができないという現象が起きるとも言えるのです。

逆にこだわりがなくて、どちらでもいいという場合には、スッと決断できるのです。どちらにしても、それほどの違いを感じられないからですね。この、どちらでもいいという心の状態は、人生を清々しくしてくれるのです。

私たちは、大抵自分自身に独自の考え、独自の主義主張を持ちなさいという教育を受けてきたはずです。それが、社会で生き抜くためには有利に働くと思えるからですね。

そういうところからも自分のアイデンティティが確立されていくように考えられているのも事実です。こだわりを持っている方が、何となく人生をしっかり生きているという印象を与えるのも事実ですね。

けれども、こだわればこだわるほど、それだけ苦しみが増えるということにも気づく必要があるのです。こだわった結果が、望むものとなればそれだけ喜びも大きいのですが、その反面、望まない結果がやってきたときには苦しむことにもなるのです。

信じるものは救われるという言葉がありますが、信じれば必ず信じないが一緒についてきて、いつかは信じないが表面化して裏切られたような気がするのです。初めからどちらでもない状態であれば、結果に対して無頓着でいられるのです。

真に中道を生きる人とは、どちらでもない状態にあるということです。自分は自由でも不自由でもない、自分に対してそういった観念がないということです。

こだわりを減らして、どちらでもないを増やしていくことができれば、それこそが究極の生きる極意を体得していくことなのだと思うのです。

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