セッションの中で、常々お伝えしていることの一つに、セッションで聞いたことをそのまま信じてはいけないということがあります。
なぜそんなことをいちいち言うのかといえば、人はとりあえず信じたいのです。信じてしまえば、あとがすごく楽だということを知っているからです。
一旦信じてしまうと、マインドの中で決着がついて、安心することができるのです。実際、人はなぜ信じるかと言えば安心したいからに違いありません。
けれども、信じてしまえばその裏側に不信がくっついてくるのです。不信を排除して信じることは、物事の道理からして不可能なことです。
信じることと信じないことは共に一枚のコインの表と裏の関係であり、どちら一方だけというのはこの世にはあり得ないということを理解することです。
神がいると信じることと、神がいるとは信じないこととは同じことなのです。どちらも、神がいる(いない)と信じているからです。
いわゆる宗教の信者とは、その全員がマインドの奥にその宗教への不信を隠し持っているということ。神を信じてしまえば、どんな探究も不要であり、神の不在を信じても結果は同じ。
その手っ取り早さは、あなたをどこにも連れて行ってはくれず、どんな気づきもやってきてはくれません。一方、幼い子供の質問責めを思い出して下さい。
子供たちは何かと疑問に思って、無邪気に質問を繰り返すのですが、あれこそが純粋な「疑う」ということが起きている時なのです。
「疑う」という言葉は、どういうわけか何かネガティブな響きを持って聞こえてくるのですが、本当は疑うことは物凄く健康だし、そこから探究が始まる大切な心の要素なのです。
分かったような大人たちが、物事を疑ってはいけないと子供に諭すなら、その大人は信じることがいいことだと勘違いする無知な状態なのです。
信じることの裏返しである不信と、純粋な「疑う」こととは全くもって異なることです。「疑う」心がなければ、どんな探究も起きないことに気づくことです。
疑うことをきっかけに探究が開始され、そのバックに信頼がやってくるのです。疑うことがなければ、信頼は決してやってきてはくれません。
今日この瞬間から、信じるか信じないかの人生から足を洗いませんか?疑うという宙ぶらりんでいることです。必ずや何等かの探究が起きるはずだからです。その時に信頼も一緒にやってきてくれるのです。