私たち人間には、様々なネガティブな感情がありますね。怒り、恐怖、孤独、不安、そういったものの背後には、悲しみというものがあるように思うのです。
突出した感情の背後には、悲しみが隠されているのです。激怒していた人が、しばらくすると悲しみの涙を流したりするのはそのためです。
実は悲しみとはとても奥深い感情であり、一概にネガティブなものと言い切れないのです。実際、深い悲しみを味わったことがない人は、とても薄っぺらい人生を生きることになるのです。
逆に、深い悲しみの中にどこまでも入っていくのであれば、その人のマインドはある種とても深い味わいのようなものを持つことになるのです。
なぜなら、悲しみというのは自らの本質を忘れたままでいることからやってくるものであって、つまり全体から分離したと思い込んでいる人間としての根源的な感情だからです。
だから、悲しみがやってきたらそのことを悪く思わないことです。悲しみは、この地球上にいるすべての人々の内面深くに必ず隠されているものだからです。
それに気づかずに人生を終えるのではなく、真実を思い出したいという強い渇望こそが悲しみという感情を生み出すものだと気づき、逃げることなく悲しみとともにいることです。
悲しみをたくさん味わった人は、何かどしっとした落ち着きがあり、それだけ真実に近づくことができた人なのではないかと思うのです。
悲しみというのが、わからないと気づきました。
人は、全体から分離していると思いこんでいたけれど、本当は違うんじゃないか、それを思い出したいけど、思い出せない、その渇望が悲しみをうむ…。
逆に、分離していない、自分は全体だとわかれば、悲しみはやって来ないということでしょうか。
悲しみとは、惨めさが、余計な思考を上掛けしないで、身に染みこんでくる時に味わうものでしょうか。
エゴが生まれた時に、全体にもどりたいと泣いたとか…。
まとまらなくてすみません。
ただ、人の悲しみは、だいたいは別れる時に来ることと、人の悲しみは、静かだけれど、とても広く深く共感が広がっていくようには思いました。それは、根源的なものだからでしょうか。
でしょうか。ばかりですみません。
私の個人的な記憶の中に、もうかつてのような自分には戻れなくなってしまったという悲しみがあります。それはすごく小さな時に感じたものです。それが本当に根源的なものかどうかは分かりませんが…。
大地に根を下ろした植物が、根こそぎ引っこ抜かれてしまったと誤解して、ああもう戻れないと嘆いている感じに近いですかね。ただ悲しいというのが、悲しみの根っこの部分だと思います。
ただ悲しい、と、ただ嬉しいは、ただ、がついても平気ですね。理由は無くていいですものね。
やっぱり、自分は、何かと離れる時が、悲しいです。
もともと全一なら、本当は離れることはないのに。
でも、その悲しみを、切り上げて過ごすのが当たり前になっているので、この先は、時間が許す時は、もっと悲しみに浸っていたいです。
不安や心配は思考を使うから、すり減るけど、悲しみはそうじゃないからです。