同一化が外れたら

先日このブログで、自己との同一化を外すということについて書きました。自分は、肉体でも感情でも思考(マインド)でもないということ。

同一化があるところ、必ずエゴがついて回るのです。ということは、すべての同一化が外れたときには、自動的にエゴも消えていくということですね。

では、エゴが消えた自分、同一化が外れたあとの自分に意識を向けてみたらどうなるのか?そのような自己の本質の今日一日を思い返してみようとしたのです。

すると、どのようにしてもそれを思い出すことができないのです。なぜなら、身体であれば、何をしたということを思い出すことができるし、マインドであれば何を考え、どう感じていたかを思い出せばいいのです。

けれども、本質だけは思い出すどんなネタも見当たらないのです。同一化が外れた自分とは、肉体ではないので、大きさも位置もありません。痛みも疲れもないのです。

マインドとの同一化が外れてしまえば、思い悩むことも怒ることも不可能になってしまうのですから、思い出すターゲットがまったくなくなってしまうのです。

それなら、思い出せなくて当然ですね。そもそも思い出すという行為それ自体がマインドのものであるため、マインドではいくら頑張っても自己の本質をとらえることは不可能なのです。

それは時間の中にもいないということがこれでわかります。だから過去や未来というジャンルからも外れているということです。それはきっと真の至福なのでしょうね。

それが至福を感じているのではなく、それ自体が至福そのものだということです。それが私たちの真の姿だということです。

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