イメージしてみて下さい。街はずれに一軒の古びた屋敷があって、それについて幼い頃から誰に聞いても、みんなが一貫して同じことを言うのです。
あの屋敷にはもう誰も住んでいない。代わりに魔物が棲みついてしまったんだ。だから、屋敷の住人は恐れをなして逃げてしまったんだと。
幼い頃からみんなからそんなことを言われ続けたら、間違いなくそうなのだと信じ込んでしまうでしょうね。そして、友達に、あの屋敷に魔物が棲んでいるって知ってる?
と聞かれたら、知っていると答えるはずなのです。本当は知りもしないのに、ただ人が言うことを信じ込んでしまっただけなのに。
実のところ、そういう情報があるという事実は知っているということなのですが、その情報の真偽についてはいっさい疑わずに、知っていることにしてしまったのです。
自分がいるということもそれと同じだと考えればいいのです。自分がいる感じがしているだけで、本当はそれについては知らないままに生きているのです。
生後ずっと周りの人たちから、○○ちゃんと呼ばれているうちに、相手の視線の先にあるこの肉体の内側に自分という存在がいるのだと思い込んでしまったのです。
先ほどの話しに戻って、誰かが勇気をもってその屋敷の中に入り込み、懐中電灯で部屋中を照らしてみて、初めて魔物などいなかったということを知るのです。
それと同じことを自分に対してすればいいのです。自分の内面に入り込んで、隅々まで見回して、本当にそこに自分がいるのかどうかを確かめるのです。
すると、そういう作業をしているうちに早くも、なんとなくこれまでいると思っていた自分という存在が曖昧なものに感じるようになるのです。
そして辛抱強く、薄暗い内面を「見る」という光で照らし続けているなら、いつか必ずそこにはナニモノも存在していないということに気づくのです。