起きていることは常に中立

この地球において、人類の歴史を振り返ると、いいこともあるけれど悲惨なことの方が圧倒的に多いように感じてしまいます。そして、どうもそういうことはこれからも続くように思います。

けれども、起きていることに何等かの意味を与えているのは我々の方だということです。そこに価値があるとかないとか、悲惨だとか、それは出来事そのものではありません。

私たちのマインドの中にのみあるものです。起きていることは、それがどんなものであれ中立であって、いいも悪いも本質的にはないのですね。

更に言えば、出来事の渦中に私たちは生きているように感じているのですが、それは物語の住人としての立場から見たものにすぎません。

私たちの本質は、この出来事と接触しているものの、まったくその影響を受けるものではありません。いつも言うように、それは映像とそれを映し出すスクリーンの関係のようなものなのです。

スクリーン上に投影された単なる光の束に、意味づけしているのは私たちであり、その映像はスクリーンを必要とはするけれど、スクリーン自体は映像という概念すら持ちません。

そこでどんな悲惨な物語が展開されていようと、スクリーンは距離ゼロで接触していながらも、どんな影響も受けることはないのです。

私たちがずっと勘違いしてきたこと、それは自分を映像の一部だと思ってきたのですが、真実はスクリーンだったということです。

一日のうちに、何度もその感覚を思い出すことができるなら、少しずつ物語をただ楽しめるようになっていくはずです。そして、深刻さはどこかへ行ってしまうでしょうね。

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