「でも」星人現わる

この仕事を初めてすぐの頃ですから、もう15年以上前のことになりますが、あるクライアントさんとお話しをしているときに、その方がすぐに「でも…」から話しを始めるのです。

最初は特別何とも感じていなかったのですが、あるときにふとその毎回出てくる「でも…」が気になりだしたのです。

その方にとっては、私の話す内容が気に入らなかったのだろうことは分かるのですが、その後も何度となくセッションにいらっしゃるのです。

もしも本当に気に入らなければ、もう二度といらっしゃらないはずなのに。今よりももっと未熟だった私は次第に腹が立つようになってきました。

何を言っても、「でも」で返されてしまうからです。自分が言ったことがすべて否定されてしまう感じがして、苛立ちを覚えたのです。

「でも」という言葉は日常的に誰もが使ってる便利なものですので、それ自体には何の問題もないのですが、頻発するとなるとそこには何かがありそうです。

実はその人なりの自己防衛の方法だったのです。その人にとっては、相手に対して共感したり肯定的な返事をしてしまうと、きっと負けて惨めな気持ちになってしまうのかもしれません。

もしかしたら、幼いときに親から「でも」を連発されて悔しい気持ちを感じていたのかもしれません。そういう意味では、相手を変えて仕返しをしているという捉え方もできます。

それがはっきり理解できたときから、「でも」を連発されても一切苛立つことがなくなりました。みなさんは、「でも」を使っているまさにそのときに気づいていますか?

そこに防衛の要素が入っていないか、ご自身の発言を注意深く見守ることで気づくことができるようになるはずです。

中道こそ王道

絶対的に正しいことというのは何だろうか?
タントラは、それは<二>の中に<一>を見ることだと言う
<多>の中に<一>を見ることだ、と
いちどあなたが二元対立の中に<一>を見られたなら
すでに超越は始まっている
これが王道だ

by osho

先日あるクライアントさんに、信じることと信じないことは同じコインの表と裏のような関係にある。どちらでもないという態度が大切だということをお伝えしたのです。

きっとこんなことは初めて聞いたのでしょうね。半ば呆れ顔というか、少し薄笑いされてこの人は何を言っているのだろうという感じでした。

当然かもしれませんが、信じることと信じないことは同じことだと見抜くことは<二>の中に<一>を見ることなのですね。

神を信じることと、神を信じないことは真反対のように見えて、両者のマインドは同じ機能を使っていることに気づくことです。

つまり、神の存在を信じることと、神の不在を信じることと、結局どちらも自分にとって都合のいいことを信じるという点では、まったく同じなのです。

信じるでも信じないでもない、そのどちらでもないいわば中途半端?と思われても仕方ない生き方こそが、中道なのです。

この視点は、物語を見る視点と共通なのです。なぜなら、信じることも信じないことも、思考の中であり、どちらでもないこそが、思考から抜けた観照の視点だからです。

物語の外側にだけある至福感

物語というのは、嬉しい時楽しい時には、本当にそこから抜けたくなくなるし、それがずっと続けばいいと願うものです。

人生が上手く転がっているときには、「この世の春を謳歌する」のような表現があるくらいですから、物語であることなど忘れてしまいます。

一方で、願い通りに行かなかったり、嫌な出来事が連続して起きたりしたら、気持ちも荒んで、落ち込むことになるかもしれません。

そんなときにも、やはり物語であることを忘れて、なんで自分の人生はうまくいかないのだろうと思うのです。

物語とは、いい時も悪い時も刺激的なのです。刺激がなければ、抑揚がなければ物語は消えていってしまうからです。

ところで物語の中に入り込んでいたことに気づけると、そこにはある一定の静かな至福感があることにも同時に気づくことができます。

ただしそれは非常に静寂で、刺激がまったくないために強い刺激の物語の中にずっといる人にとっては、本当に気づきにくいものなのです。

例えて言えば、味の濃い刺激的なジャンクフードばかりを食べていると、非常にうす味で奥深い風味の京料理などが、味気ないつまらないものに思えてしまうのと同じです。

いい時であれ悪い時であれ、人生物語を見ることを忘れずに入られると、そこには必ず在る至福に気づけるようになるのです。それを信頼と言ってもいいかもしれません。

それ以上の救いはないですね。

マインドのどの具材を選択する?

人はそれぞれに独自の性格、生き方、考え方を持っていますね。誰一人として、同じということはありません。今日は、その違いはどこからやってくるのかというお話しです。

実は私たちのマインドには、非常にたくさんの機能的要素があるのですが、それは誰もが同じ要素を持っています。その中のどれを主に使って生きているかの違いが、その人を特徴づけているということです。

たとえば、一つのスーパーマーケットに大勢の人が買い物に行き、それぞれに異なる具材を選んで持ち帰り、それを料理することでその家庭の夕飯ができるのと同じです。

肉を食べたい人、野菜中心の食事をしたい人、それぞれにスーパーでの買い物の仕方が違ってくるわけです。

もしもあなたが、嫉妬深くて困ると思っているなら、それは嫉妬するマインドの機能を選択しているからだということです。嫉妬する機能を持ち合わせていないマインドなどないのです。

もしあなたが、罪悪感まみれで生きているなら、罪悪感を生み出すマインドの要素を最大限活用しているに過ぎないということです。

マインドのどの具材を利用するのかを選んでいるのは自分なのだということに深く気づくことです。そのためには、注意深く、意識的に自分のマインドを見守ることです。

それによって、選択しようとする瞬間を捉えることができるようになるはずです。もしも激昂してしまうという自覚があるなら、怒りという具材を選ぼうとする瞬間に気づくことで、それを使わずにいられるようになるのです。

繰り返しますが、人はみんな同じスーパーマーケットに買い物に行くのです。そこには、違いはありません。そこで何を選んで、どのように調理するのかで、その人の性格、生き方が決まるということです。

マインドを見守る練習をすることですね。

思考を見守る

思考を見守ること
もしそれを見守れば
あなたは完全に静寂になるだろう
思考は続くかもしれない
浜に打ち寄せ
岩に砕ける
が、あなたは穏やかで静かなままだ
波はあなたに影響すまい
だから本当の問題は思考ではなく
影響されるということにある

by osho

いつもお伝えしている通り、思考そのものはいいも悪いもありません。思考は単に便利に使えるツールでしかないからです。

人とのコミュニケーションをとるには、言葉を使うのですが、それは思考そのものと言ってもいいのですから、思考のない世界は考えられません。

問題は、思考への同一化なのです。思考と一体になってしまうことで、思考の外側を見ることができなくなってしまうのです。

osho は控えめに、影響されると表現していますが、正直言って影響どころか思考に飲み込まれてしまっているのです。

そうなると、そのことに気づけなくなるのです。それこそが問題の核心なのです。同一化をやめる唯一の方法は、それをただ見守ること。それ以外にはありません。

ただ見守るとは、巻き込まれずに超然としていることです。そうすると、自動的に思考の外に立つことになるのです。

はじめのうちは、思考を見守ろうとすると、思考は止まってしまいます。止まってくれればそれで目的が達成されたと感じるのですが、見守らなくなればまた思考は活性化するのです。

こうしたことを繰り返していくうちに、見守り続けながらも思考を自由に泳がせておけるようになるのでしょうね。これが、理想です。

必要とされたい病

好きな人に愛を告白するときに、「僕には君が必要なんだ!」という男性がいて、そう言われて喜ぶ女性がいるわけです。

お互いに相手を必要としていれば、相思相愛のいい関係になれると思うのですが、本当のところ愛されるということを必要とされることだと勘違いしているのです。

純粋な愛とは、溢れ出てくるものをただ与えることであって、相手を必要とするのは単なる欲望です。それが悪いと言っているのではなく、思い違いしていることに気づけばいいのです。

そのことに深い理解ができるなら、必要とされることで満足している自分の怪しさにも気づくことができるはずだからです。

誰かに必要とされてると思うだけで、自分に価値があると感じることができるので、私たちは安心するのです。

はっきりさせましょう!必要とされるということは、相手にとって利用価値があるというただそれだけのことだと。存在価値とは無縁のものです。

そのことが分かった上で、どうぞ自分を利用して下さいというのであれば、それは全く問題ありません。

でもその前に、まずあなたは誰かに必要とされる(利用される)ために生まれてきたのではないということを改めて深く知ることです。

人はモノではないので、利用することも利用されることも本来あり得ないことです。誰からも必要とされる必要のない人生を生きているか、要チェックですね。

モチベーションなんていらない?

最近あるクライアントさんとお話ししているときに、モチベーションが下がると思うように仕事ができなくなるといったことを伝えられました。

その時には、誰にとってもごく普通のことだなと思っていたのですが、ふと気が付いたのですが、そのモチベーションなるものが必要となるのはなぜなのか?

例えば、ある仕事を頼まれてそれを時間内に頑張ってやり遂げようとするとき、報酬として1万円もらえる場合と、100万円もらえるのとではモチベーションが違うのは当然かもしれません。

つまりモチベーションというのは、何かの要因によって起きてくる「やる気度」のことだと言えるのですが、実は私自身は若い頃からモチベーションを自覚していなかったのです。

何かをするときに、やる気というのを感じられずに生きてきたということで、ちょっとそう言ってもうまく伝わらないだろうと思うのです。

もっと簡単に言ってしまえば、何事にもやる気がないということなのかもしれません。これって、考えてみれば結構辛いことですよね 笑。

それこそが私の奥深いところにくすぶっていた違和感なのかもしれません。けれどもそのおかげで、今ではより積極的にモチベーションはいらないという生き方になれたのです。

ないものはないのですから、それを受け入れて生きていくしかないということですね。モチベーションがないと、いいこともあって、それは常に淡々としていられるということ。

それと自然でいられるということ。関連するかもしれませんが、テンションの高い低いもありませんので、つまらない人と思われるかもしれませんが…。

もしもモチベーションが小さくなってしまったら、あなたの生活はどうなるでしょうか?一度よく考えてみるのもいいことかもしれません。モチベーションの原動力は愛なのか、それとも恐怖?

 

物語を観る視点を養う

誰もがそれぞれに固有の人生を持っています。そのどれ一つとして同じものはありません。人が羨むような成功者の人生もあれば、グタグタでどうしようもないクズのような人生もあります。

但し、どんなものであれ、正しい人生とか、間違った人生などというものは決してないということに気づいている必要があるのです。なぜなら人生は物語だから。

物語に正しさを求めることは愚かなことだと誰もが知っていますね。ピンからキリまで何でもありというのが、まさしく物語なのですから。

もしもあなたが、自分の人生を物語としてただ観る視点を持っているなら、人生のこともその主役である自分自身のことも裁くことはできないはずです。

物語の中の自分は罪の意識に苛まれることがあったとしても、そういう物語なのだということに気づいていれば、深いところでは何の問題もありません。

で、どうやったら人生を物語として観る視点を養っていけるかですが、それこそが瞑想の役割なのです。逆に言えば、瞑想ができない人は人生が物語だと聞いても、決して受け入れることができないはず。

瞑想によって、物事をただ観るという視点になることを練習するのです。それは自動的に思考が緩慢になる瞬間を作ってもくれるのです。

自己改善してよりよい人生にしたいともがくのは、いいも悪いもなくただ物語の中のこと。本当のあなたはそれをただ観る側なのですから。

癒しは自己改善ではない!

改善?!
何を改善したところで
あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい
なぜならば
改善しようというまさにその努力自体
あなたをあらぬ道に導いているのだから
それが<未来>に意味を持たせ
<理想>に意味を持たせる
そうして、あなたの心は欲望と化す
欲望して、あなたは道を誤る

by osho

常々言っていることなのですが、癒しというのは自己改善ではありません。上手くいかなくなったところを良くするのだから、改善だと感じても仕方ないのですが…。

例えば、パニック症状が出てしまうために、怖くて電車に乗れなくなってしまった人が、その症状が出なくなって、ごく普通に電車通勤、電車通学ができるようになったら、症状が改善されたと思うでしょうね。

けれども、それは表面的なことであって、内面的にはどこも改善などしていないのです。改善ではなくて、余分なことをするようになったマインドを、元の状態に戻すことができただけなのです。

つまり癒しとは、いわゆる治療と違って、生後作り上げてしまった今となっては不要な内的働きを、ただ元の状態に戻すということ。

それはすべて、より安心しようとする自己防衛が原因なのです。いいも悪いもなく、単に自分を守りたいという心理的自己防衛をすることで、本来は不必要な様々な反応をすることになってしまったのです。

したがって、癒しとは成長するにつれて、培ってきたあらゆる自己防衛を少しずつ小さくしていくことでしかありません。自己改善しようとする思い自体も自己防衛だと気づけばいいのです。

自己改善も、感情を抑圧するのも、体を具合悪くさせるのも、もっと言えば人生が上手くいかないのも、すべては自己防衛が原因だと深く理解することです。

オリジナルの自分を思い出して、緊張を解いて、ただリラックスすることを心がければ、自然に癒されていくのです。そこに、自己改善はありません。

 

ブログは自己表現の場

ブログを書くようになる前には、ホームページ内にコラムというのを作って、ちょっと長めの記事を書いていました。

ブログと違って毎日書く代わりに、ずっとホームページ上に残るものだという思いで書いていたので、ブログよりは真面目に考えて書いていたのです。

実際書くことにはそれほどの困難を感じたことはなかったのですが、書いた記事を読み直すということがどうもできなかったのです。

自分にはもっといい記事が書けるはずというような気持ちがあって、書いたものを読むのがとても恥ずかしい感じがしたのだと思うのです。

ただ、セッションにいらしたクライアントさんに、コラムの内容について質問されることがあり、再度読まざるを得なくなり、イヤイヤながら読み返すことが増えてくると、次第に読むことが普通にできるようになったのです。

慣れってすごいものですね。あれほど読めなかった自分の書いた文章を、平気で読めるようになってしまうのですから。

今では毎日書いているブログなどは、思いついたことをそのまま文字にしているということもあって、文章としてはコラムよりは相当に適当になっているのに、平気でアップできるし、読み返すこともなんでもなくなりました。

他人にどう思われるかということが、きっと気にならなくなったからなのでしょうね。それが気になってしまうと、ブログであろうとメールであろうと、何度も下書きをしてようやくアップするということになるかもしれません。

自分の書いた文章を気軽にアップしたりメールで送信したりできないという自覚があるなら、他人からの評価を相当に気にしていると思って間違いありません。

怖いという気持ちから逃げずに、勇気を持って繰り返し文章をアップし続ければ、怖れは次第に小さくなっていくはずです。慣れるとはそういうことです。

元々自己表現の苦手な人にとっては、ブログを自己表現の場に使ってみるのは、お勧めできることだと思います。