自我を自由に解き放つ

以前アインシュタインの名言集のような本を買ったことがありました。さすがに天才は物事を見る目が違うなと思った記憶があります。

その中に載っていた言葉で、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」というのがあります。

赤信号みんなで渡れば怖くない、と少し似ているところがあると思うのですが、常識というのは結局のところ大衆の意見ということです。

多数側でいればひとまず安全みたいなことですね。だから非常識という言葉には、なんとなく否定的なニュアンスを感じてしまうのです。

偏見も多数派になった途端に常識として扱われるということです。本当にくだらないですね。

正しいことを大切にするのも常識的な匂いがぷんぷんします。だから失敗したり間違いを犯すことを非常に恐れるのですね。

けれども実際のところ、間違いを犯したことのない人というのは、何も新しいことをしていない人ということでもあるのです。

失敗というのは、そこから何も得ることがなければということであって、失敗しなければ得られない事はたくさんあります。

それは失敗という言葉で括るのがそもそも違うかなと思うのです。あなたの自我にはなんでもやらせてあげてください。

ただそれを見守ってあげれば良いだけです。常識に縛られて自我を抑圧したり強制するとろくなことがありません。

あなたの自我を自由に解き放してあげることです。そうすると、ひとりでに自我はあなたの邪魔をしなくなっていくはずです。

子供に嫉妬する親

普通に考えたらそんなことがあるの?と思うかもしれませんが、母親が自分の腹を痛めて産んだ子(特に娘)に嫉妬してしまうというケースは稀ではありません。

それはいくつかの事柄が同時にやってくると起きてしまうのです。その一つは、親のインナーチャイルドが強くて、大人になりきれていない状態。

親の気分が良い時にはいたって良い親でいられるのですが、少しでも気分がよくないような時には一気に病んだ子供に乗っ取られてしまうのです。

親の皮を被った病んだ子供は、娘をライバル視して自分よりも幸せになって欲しくないというエネルギーを発するのです。

蹴落とす系のライバル視をされた子供は、大抵が幸せ恐怖症になってしまうのです。母親の期待に応えようとして、自ら苦痛を選ぶようになったりもします。

さらに生まれながらに敏感体質だった子供であれば、あっという間に無邪気さを押し殺して、ありえないほど早期に大人のような感性で生きることになるのです。

そうなると、親子逆転現象が起きてしまい、子供は母親をかわいそうに思う反面、場合によっては見下すようになるかもしれません。

それは母親にいずれは伝わってしまうので、そこで嫉妬心がより強くなってしまうのです。親からしたら賢いかもしれないけれど、可愛くない子という見方が定着してしまうのです。

それでも子供の方は親に遠慮してみたり、自分の能力を最大限発揮することはいけないことだと思い込んで、人生をつまらないものにしてしまうのです。

もしもあなたが子供の頃に、親(特に母親)に嫉妬されていた感じがするのなら、あるがままではダメだという間違った思い込みを捨てる必要があるのです。

大人のあなたが責任を持って、幼い自分をしっかりと受け止めて安心させてあげることですね。

達成ではなく見抜くということ

この生には目的などないのです。どんな意義も意味も価値も何もないのです。百歩譲って何か目的があるとするなら、自分はすでに救われていると見抜くこと。

あなたを救えるのはあなた以外にはいないのです。世界中のみんなが寄ってたかって、どれほど努力したところであなたを真に救うことはできません。

気休めならもらえるし、気晴らしも与えてもらえるでしょうね。一時の安心もくれるかもしれません。でもそんなものであなたの人生が救われるわけがないのです。

なぜ他の誰かにあなたを救うことができないのかというと、それは気づくということ。見抜くということだから。

あなたがもうすでに救われていると見抜くこと。何かを達成するという問題ではなく、見抜くという問題なのです。

だからこそあなた本人にしかそれをなすことができないということです。救われている理由は、あなたの本質は何一つ傷つくことができないし、生まれたり消えたりもできないのです。

あなたが自分を自我(エゴ)と同一視したことで、あなたはひどく傷ついたと思い込んでいるのですが、それは思考による幻想です。

ただ自分の本質に気づくこと、自我は一時の仮面に過ぎなかったと気づけば、自動的に元々救われていると気づくことになるのですね。

知覚が消えて真実が顕れる

私たちが生きているこの世界は、私たちが認識するように存在しているわけではありません。ただそのように見えているだけなのです。

物質に色がついているわけではないのです。もしも赤色のモノがあるなら、その物質が赤に見える光の周波数だけを反射しているに過ぎません。

だから物体そのものに色という特徴が存在しているわけではないということですね。私たちが見ることで、それがそのように見えているだけなのです。

そうやって考えてみると、他の知覚、聴覚や嗅覚、あるいは触覚などを使ってこの世界を認識しているだけで、そのように世界があるわけではないとはっきり分かりますね。

つまり、私たちの知覚が全く異なる機能を持っていたとしたら、全く違うようにこの世界を認識しているはずなのです。

あるいは、五感以外の知覚を持っていたとしたら、それこそ全く別の世界に住んでいるように感じてしまうかもしれません。

そう考えてみると、本当はどんな世界に自分がいるのか何か不思議な感じがしてきませんか?あるいは、ちょっと怖くなってしまうかもしれません。

でも大丈夫です。身体の消滅とともに五感が消えていった時にこそ、私たちは真実と出会うことになるはずだからです。

抑圧せずに飽きるまでやらせてあげる

何十年も前に私が学生だった頃に、大好きで買った中古のクルマがあったのですが、しばらく乗っているうちにマフラーからビックリするくらいの爆発音がするようになったのです。

そのような現象をバックファイア(正確にはアフターファイアというらしいです)と言って、整備不良のクルマにはかつてよく起きた現象だったのです。

それはエンジンの中で十分に燃焼しきれずに残ってしまったガソリン(生ガス)が、マフラーから出てくる時に空気に触れて爆発する現象なのです。

もちろん最近のクルマではそんなことは起きませんが、F1などのレースカーではまだそれを見かけることができます。

私たちのマインドにも同じようなことがあって、それは十分にやり尽くしていないことがあると、それが後々になって爆発するのです。

たとえば子供の頃にゲームをやりたくて仕方なかったのに、親から強く規制されて十分にできなかった思いが残ってると、なかなかゲームの魅力から解放されないのです。

そうなると、大人になってもダラダラといつまでもゲームをやってしまう習慣だけが残ってしまうということが起きるのです。

大切なことは、やりたいことがあったらできるだけやらせてあげる、飽きるまで没頭させてあげることです。

そうすれば不十分さが消えて、逆にやった感(満足感)が残るので、執着が消えてしまうのです。

それでもやり続けたいのであれば、それはもう本当に好きなことな訳ですから、死ぬまでやらせてあげれば良いのです。

過去はイメージ

今起きつつあること、これは間違いなく事実ですね。事実というのは、現実として起きていることのことです。

ところが私たちは、それが過去となっても起きたことは事実だと思ってしまうのです。これが一般常識です。

けれども、過去というのは実はもうどこにもないものです。一度起きたことですが、もうどこを探してももう現実にはないことです。

それはデータとして思考が取り扱うものとなったのです。過去データというのは今となっては現実(事実)ではありません。

過去というのは思考がなければ成立しないものなのです。ここをしっかりと見抜くことです。

このことを逆手に取ると、どれほど認めたくない辛く苦しい過去があったとしても、それを変えることができないと思うのは、それを事実だと思っているからなのです。

何度も繰り返しますが、過去はもうすでに事実ではなく思考が取り扱うデータ、つまりイメージになり変わってしまっているのです。

つまり過去というのは、そのイメージを変えることによって変化しうるということ。ここに気づくことができると、支配されていたと思う過去から解放されることができるのです。

今の自分は過去の自分ではない

昨日のブログでは、まだ幼い頃から強制的に自立的な自分(大人びた子供)を作り出してしまうと、不健康な自立になってしまうというお話しを書きました。

今日はそれに付随して起こるもう一つの困った結果について書こうと思います。それは、不健康な自立ではまともな大人になれなくなってしまうということです。

子供の頃から大人びた考え方、子供らしくない態度、歪んだ自立を始めてしまうと、本人が大人になった時に子供の頃の自分との違いを感じれないのです。

つまり子供の頃の自分が現在の自分としてそのまま生活しているという状態になってしまうのです。

子供の頃に背伸びをして大人に似せてしまったせいで、実際に大人になっても中身が子供の時のままになってしまうということです。

こうなると、一般的な癒しの作業がなかなかうまく進んでいってくれないということが起きてしまうのです。

なぜなら、癒しとは大人の自分が主役となって、過去(子供の頃)の自分を当時の自分とは違う目線で見直す作業だからです。

「子供の頃の自分を抱きしめて、受け止めてあげてください」とセッションで言われても、ピンとこないわけです。

自分そのものを抱きしめたり受け止めたりすることは難しいからです。自分を対象としては見えないのです。距離がゼロだからです。

こうした場合、本当のところは子供の頃の自分とは違う大人の自分がいるということにどうにかして気づく必要があるのです。

何だそうだったのかと気づくことができたら、子供の頃の自分を別の人格として受け止めて、愛しいと感じることができるようになるのです。

人工的な自立は不健康

完全なる依存状態からスタートした人生が、自然な形でゆっくりと安心を伴って自立へと向かうなら、その自立は健康的なものだと言えます。

十二分に依存させて貰ったからこそ、自ずとそこから自立へと少しずつ変化していくのです。

この依存から自立への理想的な環境とは、周囲からの期待が少なく愛に溢れたものであればあるほど良いのです。

そんな環境に生まれたならば、その子がどんな気質を持った子であろうと確実に健康に育つはずなのです。

その逆も然りで、親兄弟の精神が不安定で余裕がない状態だったり、親の期待が強すぎると、子供は依存のままでいてはいけないと感じるのです。

そして急ごしらえで自立しようと焦るのです。親の期待に応えようとしたり、依存したままでは危険だと判断すれば、依存をそのままに自立しようとするのです。

こうした自立は不健康に育つのです。そしてその自立と抑圧した依存がずっと共にマインドにあるような歪さが残ってしまうのです。

時々幼い子供なのに、マインドはまるで大人のように無邪気さをなくして、せっせと理想の自分になろうとしているのを見ることがあります。

とても切なくなってしまいますね。もしもあなたの子供の頃が似たような状態であったなら、その子をしっかり抱きしめてあるがままでいいということを教えてあげることですね。

意識的であるとは?

私たち人間が他のあらゆる動物と決定的に異なる点は、意識的であることができるというところです。

それは意識が内側に向いている状態を指すのです。多くの人にとって、外側の世界に注意を向けることが普通になっているのです。

けれども、これでは動物と同じ。賢いワンちゃんなら、新聞を取ってきてと頼んだら、その声をしっかり聞き分けて言われた通りのことを実行してくれます。

この時、このワンちゃんは自分がそうしていることに気づいてはいません。この状態を無意識と呼ぶのですが、意識が無いのではなく、自覚がないのです。

自覚とは自分自身に気づいているということなので、これこそが意識的であるということです。

無意識とは意識が眠っている状態と思えば良いのです。私たちの夢の中も、これと全く同じなのです。

それで言うと、動物はずっと夢の中で過ごしているようなものですね。さて、あなたの今日一日を思い返した時、どれだけ意識的でいられたでしょうか?

1%なのか、5%?それとも10%くらい?何か特別なことをせずに、ごく普通の暮らしの中で、50%以上の時間を意識的でい続けられたとしたら、早晩覚醒してしまうかもしれません。

意識的であり続けるとは、そのくらい難しいものです。それでもなるべく習慣のようにして、たとえ忘れてしまったとしてもすぐに自覚を取り戻すようにできれば、この世界の見え方が違ってくると思いますね。

自我の本性は惨めさ

もしもあなたが汗だくのままの身体で、クールに着飾り周囲に賞賛してもらえたとしても、気持ち悪さがなくなるわけではありませんね。

一刻も早く服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びたいと願うはずです。私たちの奥深くではずっとこれと似たようなことが起きているのです。

素敵な服を着るということは、外側から何か自分が望むもの、欲しいと思っているものを手に入れるということです。

その瞬間は大喜びできるのですが、所詮はやっぱりシャワーを浴びたいがやってくるのです。一時は忘れることができたとしても必ず思い出すのです。

私たちが自我として生きている限り、あの汗だくのベタベタ不快感がずっとまとわりついているのです。

自分を洗い流したいと感じるのは当然のことで、広大無辺の本性を忘れて小さな身体の内側だけが自分だと勘違いしているのですから、気持ち悪くて当たり前なのです。

その気持ち悪さは自我の本性であり、より正確な言い方をすれば「惨めさ」として表現できるのです。

あなたがどれほどのものを手に入れたとしても、その中心に惨めさがあり続ける限り、満たされるはずはありません。

惨めさを何とかしようと外から何を手に入れても無駄なのです。要するに、自我という惨めさは単なるイメージであると見抜くことですね。