結果ではなく原因を見出す

私たちは色々な現象を見て、それをすぐに問題視してしまう習慣があるようです。たとえば子供の不登校だとか、イジメに関連する事柄など。

病気あるいはその症状についても同じですね。もしもウツ症状が起きてしまい、朝身体が動かないとなったら、そのこと自体を問題視するのです。

つまりは都合の悪いことが起きれば、それ自体を問題だと思い込むのですが、それは間違いなのです。

起きていることは都合がいいか悪いかでしかなく、それは何かの結果でしかないということを見失っていることに気づかないのです。

症状が起きるには、それを起こすだけの原因が何処かに必ず隠されているのです。その原因を究明しない限りは、問題を解決することはできません。

仮にもしもパニック症状が起きたなら、それは確かに困った自体ですがそれを起こすだけの原因が確実にあるということ。

それは偶発的に起きたものではないのです。しかもその原因というのは、必ず過去にあるのです。きっかけだけが現在にあるのです。

パニック症状を起こす原因は、過去の不安感にあります。幼い頃に安心させてもらえずに過ごすと、不安なままに成長することになるのです。

その時にその不安を隠そうとして、外側にばかり注意をするようになると、不安を忘れることはできる代わりに、そこから様々な問題が起こるのです。パニック症状もその一つに過ぎません。

外側で起きていることを一つひとつ潰していこうとするのではなく、内側に蓄積された過去の苦しみを見てあげることです。

そうやって原因を見つけてあげて、それを丁寧に紐解いてその感情に寄り添ってあげることで、外側の都合の悪い事象は小さくなっていくはずなのです。

揺るぎない真理への眼差し

子供の頃は、神様という言葉はもちろん知ってはいたのですが、これといった興味を持ったこともなかったのです。

それがいつか、あらゆる疑問に答えてくれる存在が一人いてくれたらいいのにという願望のようなものが生まれたのですね。

それで他の人もみんな同じように思っているはずだから、その存在のことを神様と呼んでいるのではないかと考えたのです。

全知全能の神という言葉があるくらいだから、きっと人類に共通する願望としての神という概念なのだろうと。

それからしばらくして、そろそろ大人になろうとしている頃だったと思うのですが、外側の世界にそんな全知全能の神のような存在がいるなんて、子供騙しだと感じるようになったのですね。

それでふと、神は自分の内側にこそいるのではないかという感覚がどこからともなくやってきたのです。

そうなったら、外側に広がる世界よりも自分の内側のほうにより強い興味を持つようになるのも当然のこと。

セラピストという仕事も手伝って、次第に内面に向けての自己探究のようなことが始まったのです。

私の中では、もう神という概念は全くと言っていいくらい陳腐なものとなってしまいましたが、代わりにそれは真理とか真実という言葉に置き換わったのです。

そしてその正体は自分自身の本質であるというとても明快で、揺るぎない感覚のところまでやってきた感じがします。

その感覚がベースにいつもあることで、生きることがとても気楽になったなあという感じがしていますね。

防衛が混ざると深刻になる

私たちはこの社会の中で、共同生活をしているようなものなので、必要最低限のルールのようなものを守る必要があるのです。

それには、道徳や倫理、あるいは義務や責任といった概念が含まれているはずです。人は成長するプロセスの中で、こうしたものを少しずつ身につけていくわけです。

ただしそれをあまりに強く受け止め過ぎてしまうと、それこそ生きづらい人生になってしまうでしょうね。

私自身は、特に上に挙げた四つの単語は好きではありません。できる限り、縁のない生活をしたいと願っているのです。

概念というのは思考で作り上げたものなので実際には存在しないものですが、そこから生み出される義務感とか責任感というのは、確かに感覚としてあるのです。

そして義務感や責任感からさらに派生して作り出されるのが罪悪感ですね。私にとっては罪悪感はゴミだと思っています。

1mm も必要性を感じません。それなのに現実はどうかと言えば、非常に多くに人々がこうした概念や感覚に日々悩まされているのです。

社会の中で立派に立ち振る舞うためには必要だと思われているこうした概念や感覚について、是非じっくり見つめてみることですね。

道徳も倫理も、義務も責任も過度に重要視するなら、そこには必ず防衛のエネルギーが注ぎ込まれていることを見抜くことですね。

自己の不在は気楽なもの

子供の頃、海に行くことがあると次から次へと沖の方からやってくる波を見て、何だか不思議な気持ちになったことがありました。

だって沖の方にはなかったはずなのに、どういうわけか近づいてくるうちに、はっきりとした波の形となって押し寄せてくるからです。

波はどうやって生まれるのだろう?そう思って、もっとよく観察して見ると、どうも波という存在はないのです。

波は現象でしかなく、要するに海面の上下運動が単に伝搬しているに過ぎないのです。それを一つの塊として存在しているように見ているのです。

それと同じで、存在しているように見えて実は存在していないものはたくさんあることが分かります。

影もそうですね。影は光の不在であるだけでそれ自体の存在はありませんが、あたかも存在しているように見えるのです。

実は個人という存在も同じなのです。肉体そのものは確かに個別的に存在しているのですが、それそのものが個人というわけではありません。

自我を通すことで、それぞれの個人が存在しているように見えるだけなのです。それはマインドと呼ばれる現象によって、あたかも個人が存在しているように感じるのです。

もしも私という個人の存在は絶対だと信じているなら、その存在を証明できるかを試してみることです。

証明できた人は歴史上一人もいなかったはずです。なぜなら、個人という存在はないからですね。

そこを見抜くことができたら、人生がとても気楽で生きやすいものになるはずです。

内側の広大な世界に意識を向ける

人生というのは、光のような無邪気さから始まるのですが、しばらくすると自分の惨めさが耐え難くなるのです。

そうすると、何とかその惨めさを払拭しようとして社会の中で頑張ることになるのです。

社会というのは外側の世界であり、その外側に広がる世界こそ自分が活躍できる場所だと認識するわけです。

ところがどれほど結果を出したとしても、どうしても気持ちが晴れやかになり続けることができないと知るのです。

そしてようやくそれまでの生き方を見直さねばならないと自覚するようになるのです。そして外側にばかり向いていた意識を内側へと転換するのです。

こうして見るべきところが180度変わるのです。一度内側を見ることに気づけば、あとはこれまでとは全く異なる世界が広がっていることに驚くのです。

人によっては外側の世界だけで生きて死んで行く場合もありますが、もしもあなたが内側こそ見るべき場所だと気づけたなら、ラッキーだと思うべきです。

内側は外側のように五感で認識することができない世界なので、それだけに奥深い世界なのです。

そしてあなたが本当は何者なのか、余計な雑音から解放された暁にはそれを見ることができるのでしょうね。

自我を見守る

自我にとっては、それが何であれ戦うということが自分の存続にとって必要不可欠なものだということを知っているのです。

戦う相手、あるいはターゲットというのはそれぞれ人によって千差万別です。たとえば、目標を設定してそれに向かって進んでいくのも一種の戦いです。

それは目標に到達するということが戦いのターゲットになっているわけです。到達するまでのプロセスがあれば、自我は安泰なのです。

または、戦いの相手が人間になる場合もありますね。人類の歴史を見れば明らかなように、戦争が絶えない理由はここにあるのです。

戦争のような大規模なものでなくても、誰かを嫌いになってその人を攻撃したり、蹴落としたりして自分が勝利することが快楽にもなるのです。

そしてもちろんその戦いのプロセスが続いていく限り、自我はやはり安泰だと感じるのです。

よってどれほど世界平和を唱えたところで、自我の本性を知ってしまえばそれがどれほど無意味なことであるか分かるのです。

世の中からあらゆる争い事を無くそうとするなら、まずは自分の自我をしっかり見守ることから始めなければなりません。

すべての問題はこの世界の中にあるのではなく、私たちの内側にある自我の仕組みから起きてくるのですから。

そのことに深く気づいた人から、自我を見守るという生き方をすることになるのだと思います。

過去の惨めさを思い出してあげる

もしもいじめられている子を見かけたら、きっと可哀想にと思うかもしれませんが、決して惨めだなとは思わないのです。

それは、惨めさというのは期待値との落差だからですね。つまり、自分以外の誰かに対する期待値がないのが普通なので、そこに惨めさが起きないのです。

自分自身に起きることに対しては、意識していてもいなくても必ず何らかの期待値を持っているものです。

だから、自分自身に対しては時として惨めだと思うことがあるのです。特に、子供の頃というのは誰でも不自由さの中で生きているので、惨めさをよく知っているはず。

ところが、それがあまりにも辛いと感じると成長するにつれてそれを他人事のようにしてしまう場合があるのです。

そうすることで惨めさから解放されるからです。勿論過去の自分を思い出して可哀想だとは感じるのですが、それでも惨めだという思いよりはマシなのです。

これがもっと極端になって、重症化してしまう場合もあるのです。あれは自分ではなかったとして、別人格にしてしまうことがあるのです。

それがいわゆる多重人格、今では解離性同一性障害などというモノモノしい名前がついたりします。

すべては自分を守ろうとする自己防衛から起きるマインドの働きだと言えます。あれもこれも自分だったと受け入れて、過去の辛さを引き受けてあげられるといいですね。

罪悪感なんて怖くない

繊細で敏感タイプで生まれてくると、その多くの人たちに共通する特徴があるのですが、その一つは罪悪感です。

子供の頃からずっと、折に触れて罪悪感を感じてきたはずなのです。もちろんなぜ罪悪感を感じてきたのかについては、その子の生育環境によるところが大きいのです。

たとえば、親がコントローラーの場合には、子供を自由にコントロールするために親が罪悪感を利用するのです。

子供は、罪悪感を感じるように仕向けられてしまうので、罪悪感とは切っても切れない関係だと思ってしまうのです。

あるいは、一番オーソドックスなケースとしては、親の期待に応えることができない時に子供は勝手に罪悪感を感じてしまうのです。

いずれにしても罪悪感を感じることは非常に辛いことなので、子供は罪悪感を感じないように工夫をするようになるのです。

それは自分の本心を隠してみたり、それだけでなく相手の気持ちを優先させるようにするのです。

その結果、自覚のないままに不満を募らせて怒りが蓄積されるのです。そのエネルギーがうつ症状やあらゆる問題行動を起こす原動力となるわけです。

罪悪感から逃げれば、自由を失うことになるだけでなく、自己犠牲も蓄積してしまいます。つまりはいずれは人生が行き詰まってしまうことになるはずです。

罪悪感に親しみがあるという人は、とにかく罪悪感から逃げずにそれを感じてあげる練習をすることをお勧めします。

罪悪感が怖く無くなってきたら、自分の自由で清々しい人生を取り戻すことができるようになるはずです。

不可能性を見抜く

実際にやってみないことには、可能か不可能かは分からないから、とりあえず挑戦してみる、と言うのがあります。

特に若い人には、私も勇気を出して沢山挑戦してみてほしいと思うのです。たとえ可能性がほんのわずかであっても、諦めずにチャレンジすることは素敵なことです。

けれども、最初から不可能だと分かっていることに挑戦することほど馬鹿げたことはありませんね。

そんな無駄な努力はないからです。100メートルを5秒で走れるようになりたいと思って、毎日練習するのは無意味です。

ただし、目的は達成されないとしてもその練習のおかげで、足腰が丈夫になったり健康維持ができたりすることはあるかもしれません。

問題は、そこに自己犠牲が紛れているといつかは破綻する時がやってくるということです。そして子供の頃というのは、不可能だと気づけないことが多いのです。

たとえば親からの期待に応えようと頑張る子供は沢山いますが、いくら頑張ったところで不可能なこともあるのです。

その子は親の期待に応えられない自分を責めたり、罪悪感を感じてしまうことになるでしょう。

もしもあなたのマインドに罪悪感がびっしりこびりついているなら、子供の頃に何らかの理由で不可能なことをずっとできるようになろうとしていたことを疑ってみて下さい。

この世の中は、不可能性に満ちています。不可能なことをしっかり見極めて、そこから手を引くことで罪悪感から離れていくことができるのですね。

惨めさを見守る

自我の一生というのは、自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとして悪戦苦闘することを言うのです。

もちろんそればかりではないのですが、そのエネルギー源はどこからくるのかと言えば、自分は惨めだと言う思い込みからくるわけです。

何であれ自我は期待を持って物事を見るのです。そうなると、その期待値に対して現実が届かなかったならば、その落差を惨めだと思うのです。

だから期待値が高ければ高いほど、また現実が期待値から離れていればいるほど、惨めさの大きさも増すのです。

この惨めではないということを証明しようとする生き方を辞めない限り、惨めさは付きまとうことになります。

頑張れば頑張るほど、実は惨めなんだと言う思い込みが強くなって、最後は信念になってしまうのですから。

惨めさから解放される唯一の方法は、見守ること以外ありません。惨めさは事実ではなく、思考に過ぎないと言うことを見破ることです。

それには見守ることです。その思考と距離を置くことで、惨めさを笑っていられるようになるのです。