不可能に挑戦していたことに気づいてホッとする

ここ以外の他のどこかなんてない。どこにも行き場がない。改善の余地など全くない。それが分かるとどうなるだろう?

めっちゃ無駄な努力をしてきたなあという、呆れた状態になるのです。一生懸命瞑想を続けていれば、いずれは覚醒するかも知れないと。

覚醒してしまったら、自我が作り出すあらゆる苦しみ、悩み、そう言ったものから完全に解放されて、死ぬまでマインドは静かなままになる。

この思い込みが、これまでの人生で一番バカバカしい考えだということに気づいてしまいました。本当にしょうもないのです。

それ以外でも、今のままではダメだ、このままでは不満があるし、もっといい状態に持っていけるはずだと。

ずっとそんなことをどこかで考えていたような気がします。それが日々生きるエネルギーとなっていたような。

だって、昨日までの自分と全く同じではつまらないじゃないですか。ほんの少しでも進歩しなければ、時間がもったいないと。

生きている意味がないじゃないかと。けれども、改善するものがそもそもなかったと気づいてしまったら、アレってなってどこかで安堵が起きるのです。

不可能に挑戦していたことに気づいたら、あとはほっとして全てを放っておくしかなくなるのです。これって完全な自由ですね。

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滑稽過ぎて笑うしかない

ある本を読んでいたのですが、途中で何やら可笑しくなってきて最初のうちは我慢していたのですが、とうとう笑い出してしまったのです。

理性の自分は別に何も可笑しいことなどないのにな、と思っているのですが、どうにもこうにも笑いが込み上げてくるのです。

どんな内容の本かというと、これまでの自分の生き方、考え方、積み重ねてきたもの等々を根こそぎ否定された感じがしたのです。

もう全く取り憑く島がないといった感じなのです。何か自分なりの言い返しを試みようとしても、それも含めて全部否定されるのがわかるのでできなくなってしまうのです。

手も足も出ないとはこのことかなと。人の心って、あまりに全敗してしまうと、悔しいとか悲しいとか、惨めとか何もなくなるのですね。

そしてただ可笑しくて仕方なくなってしまうのです。あまり経験したことのないことだったので、ちょっと書いてみたくなりました。

で、まだ途中のこの本ですが、当然最後まで読むつもり満々です。なんでなのかというと、一切の言い訳ができないことが、清々しいのでしょうね。

それだけではなくて、今までの人生がいい意味で馬鹿馬鹿しく感じられて、滑稽に思えてきて不思議と気分爽快なのです。 

あるがままを見ることの難しさ

すでに目の前に展開されているものを、ただあるがままに見るということがどれほど難しいことなのかというお話しをします。

自分の部屋に1人腰掛けて、部屋の中をゆっくりと見渡してみると、様々なものが目に映るわけなのですが。

その時に、何も考えることもせずにただあるものを見ていると思ったとしても、実は脳内(左脳)では凄まじいほどの量の仕事をしているのです。

それは例えば、見えるもの一つひとつに対して自分に対するそのものの意味だとか、価値だとかのデータベースを作っているのです。

そのデータベースは以前からすでに脳内に作ってあったものですが、目を開けた瞬間に見えたものとそのデータをリンクさせるのです。

それはもう瞬間的な作業なのでしょうね。そうやって、部屋の中にあるテレビやテレビ台、ソファやテーブル、天井、壁、ライト、ドアなどがオブジェクトとして登録された状態で周囲を見ているのです。

だから、あるがままを見ているなどとは到底言えないのが分かります。もしも本当にあるがままを見るのだとしたら、まずはそのデータベースとのリンクを外す必要があります。

そして、あらゆる概念、観念、イメージ、そういったものからも外す必要があるのです。これまでの自分との関わり、あるいは歴史、そのものにまつわるそれ以外のすべての情報を外すのです。

そこまでやれて、初めてあるがままを見るというところに近づくのかも知れません。きっと右脳は最初からその状態で、周囲を見ているのでしょうね。

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マインドからハート中心へ

私が日々行なっているセラピーの根っこにある原理原則は、結果にはそれに見合った合理的な原因が必ずあるということです。

様々な困った症状が出て本人を悩ませてしまうので、それを何とかしようとしてクライアントさんはセッションに来られるわけです。

そしてその症状というのは、あくまでも結果であってそれをどれほど眺めていても、解決することはできないのだと。

その代わりに、その原因となるものを探し出してそこを癒すことによって、結果は自然と緩和して行くことになるのです。

とここまではいいのですが、ただし常に結果には合理的に(言葉で)説明できる原因があるという考え方は、あくまでも左脳によるものなのです。

つまり左脳偏重の世界では正しいのですが、左脳の理屈が及ばない右脳の世界では通用しないことであることを忘れてはいけないのですね。

左脳には理解できない世界というのがあって、それを左脳は否定したいのです。なぜなら、自分が理解できないことが苦しいから。

人間のあらゆる言動を、左脳の理解できるルールの中に無理やり押し込んで納得できたつもりになっても、そこには受容するという真の理解がないのです。

この宇宙はあるがままにあるのであって、起きることがただ起きるのです。それは私たち人間に対しても言えることですね。

私自身も含めて、多くの人がマインド(左脳)からハート(右脳)中心へとシフトすることで、より優しい世界になるような気がしますね。

自我は自分にまつわる記憶で溢れている

自我というのは、巧妙にあらゆる事柄を自分と関連付けて記憶して行くのです。そうすることで、自分を大きな存在として感じることができるのです。

それは例えば、身体のどこかに痛みがあるとすると、自我はそれを自分の身体のどこどこが痛いという具合に転換するのです。

本当はただそこに痛みが起きているだけなのに、それを自分と上手に関連づけて記憶してしまうわけです。

ただ歩くという行為が起きているだけなのに、自分が歩いているというように解釈することで自分にまつわる事柄が増えて行くのです。

物事や行為はただ起きているだけなのですが、それに対して自我は、「私は〜」のようにして、全てを自分のものにしてしまうのです。

そんなことをずっと毎日続けてきてしまったおかげで、朝起きてから夜寝るまでの全てを自分の経験とするのです。

だから記憶の中には、自分にまつわる膨大な量の情報が溜め込まれて行くわけです。もう自分で溢れかえっているのです。

自分自分、私私私、寝ても覚めても自分、私。それが日常的になってしまっていて、その異常さに気づけなくなっているのです。

物事をいかなる先入観も使わずに、ただあるがままに見ることができるなら、自分などが入る余地などないと気づくことになるのでしょうね。

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感謝はするものではなく、やってくるもの

敏感さと素直さの両方をあわせ持ったような子供は、多くの場合人生の初期の頃は苦しむことになる可能性が高いのです。

それに加えて大人のような聡明さを兼ね備えていたりすると、大抵の場合は大変なことになってしまいます。

親の言葉を額面通りに受け取ってしまい、それを死守しようとするあまりに自分をがんじがらめにしてしまうからです。

親のちょっとした言葉を真に受けてしまい、その通りにできない自分を責めてしまったりもするのです。

例えば、「◯◯さんには感謝しないとね」と言った何気ない言葉をそのままに理解して、なんとしても感謝しなければならないと思い込むのです。

けれども、その子の心の中にこれといった感謝の気持ちが芽生えていないとしたら、その子は自分の心がダメだからと自己嫌悪になるわけです。

親としては、相当に言葉を選ぶ必要があることに気づく必要があります。逆にもっと明確に感謝については伝えておくべきです。

感謝はするものではなく、やってくるものだと。だから、そのままの自分でいればいいだけで、何か努力をするようなものではないと。

親自身が自分に負荷をかけるような生き方をやめることができれば、こうした問題は自然と解決してしまうはずですね。

自我とは点だった

2600年前にブッダが説いた「縁起」というのは、あらゆるものが互いに繋がっていて、いかなるものも単独では存在し得ないということ。

逆に言えば、あらゆる関係性だけが存在して、その両端にあるものは存在しないということ。それは概念でしかない。

例えば、線と線が交わる場所を点と言いますが、つまり位置を表す点というのはそういう意味では存在するのですが、点そのものは存在しませんね。

点というのはあくまでも概念でしかないということです。あるいは、次のように表現することもできます。

私とAさんは友人関係であり、私とBさんも友人関係であると、AさんとBさんは私を交点として繋がっているのです。

互いに知らないとしてもです。その交点が私であるとするなら、交点という点である私は概念としてしか存在しないことになります。

私という自我はそんなものなのですね。つまり、私という自我は存在しないし、縁起という関係性を形作る概念としての点だったということです。

それを「無」というのか、「空」というのかは知りませんが、点は点としての役割があるということですね。

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意識的であるための一つのメソッド

椅子やソファに腰掛けて、目を閉じて心静かにしていると、自動的に意識的な状態になっていることに気づきます。

自分の心身をそのような状態に保とうとするその注意力が、思考の中から救い出して意識の方へとシフトさせてくれるのです。

つまり、意識的であるということと瞑想的であることとは、ほとんど違いがないということになりますね。

そういう時間を作れる場合はいいのですが、毎日が忙しくてそれどころではないという人もいるかも知れません。

仕事やその他何かに従事しているときに、意識的であることはとても難しいことです。なぜなら、意識が対象へと向かっているからです。

それでも、一日10分程度でも瞑想をする時間を作り出して、心と身体をその状態に慣らしていくことができれば、歩きながら、運転しながら、人と会話しながらでも、意識的であることができるようになります。

要するに、慣れの問題なのです。何かのスポーツなどと同じで、練習によって身につけていく以外には方法はないのです。

その上で、最近私がやり始めた意識的であることの補助的なメソッドがあるのですが、それは手の親指と薬指を繋ぐ方法です。

両手でやれない時は、左右のどちらかの手だけでも構いません。親指と薬指をくっつけておくのは、思いのほか大変です。

だからこそ、その注意力が意識的である状態を維持させてくれるのに役立つのです。是非試してみてくださいね。

コクのある生を生きる

神の存在って曖昧なものですね。誰もそれを証明することもできないのですから。それ以外にも、多くのものはこの世界では曖昧です。

例えば、過去生や未来世があるのかどうか、魂の存在も含めて本当のところ誰もそれを証明することができないのです。

けれども、たった一つ明確になっていることがあるのですが、それは死の存在です。死だけは、他のどんなこととも違って確実にやってきます。

証明の必要すらありません。それなのに、私たちは曖昧であやふやなことにはエネルギーを使うのですが、死を正面から見ようとしません。

毎日の生活の中で、自分の死について考えることがある人がどれほどいるでしょうか?若い人であればほぼいないと言ってもいいはずです。

もちろん年齢を重ねてくれば、それなりに迫ってきたものから目を逸らすのも難しいので、少しずつ死を迎えることを考えるようになるのです。

ただし、本当のところ私たちの誰もが年齢には関係なく、一寸先に死がやってこないとは言い切れないのです。

だから死を疎ましいこととして捉えるのをやめて、ある種肯定的に捉えることができるように準備しておくのは悪いことではありません。

夢がある人もない人も、目標がある人もない人も、どちらにせよ予期できない死と共に今日を生きるなら、バカバカしいことから離れてコクのある生を体験できるのかも知れませんね。

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勇気を持って立ち向かう

二十数年前に、催眠療法のクラスを受講していた時に、講師の方が「癒しにとって一番大切なのは勇気です」って言っていたのです。

あの当時は、へえと思ってただ聴いていただけだったのですが、確かに勇気は必要だなということを切実に感じるようになりました。

逆い言えば、勇気を使わないように生きてきた人にとっては、残念ながら癒しが遅々として進まないことになる可能性が大なのです。

幼い頃に、親からコントロールされ、無抵抗でいるように洗脳されてしまうと、勇気を使うという選択肢が消えてしまうのです。

そうなると、我慢することには人一倍長けてしまい、それが自己犠牲を蓄積することになって、人生を破壊することになるのです。

幼い頃の洗脳というのは、そんじょそこらの極悪宗教の教祖様よりもタチが悪いのです。人に親切にしてみたり、動物の世話をしたり。

そうしたことはいい人、優しい人という括りに入るかも知れませんが、勇気を使わずともそういう人にはなれるのです。

勇気を持って立ち向かうという選択肢があることにどうしたら気づくことができるのか?それには、大人の自分が成長する以外にありません。

あなたはこれまでの人生の中で、「勇気を持って立ち向かう」ということをどれほど自らに体験させてきたでしょうか?

あるいは、今日1日の中で、勇気を持って行動したと思える瞬間があったのかどうか、見返してみることも必要かも知れませんね。