この世界に「モノ」はない?

テレビの画面に、例えば上半分が白で、下半分が黒というシンプルな画像が映っていると仮定します。すると、画面の真ん中に上下を分ける境界線があるように見えます。

ところで、画面は色の粒子の集まりでできています。ということは、ものすごく画面に接近してさらに拡大鏡を使って画像を見てみると…。

上半分には白い粒子だけがあり、下半分には黒い粒子だけがあるだけです。この状態では、色の違いがあるだけで、どこにも境界線などないことは明白ですね。

これと同じことが私たちのこの世界でも起きています。というのは、この宇宙をこれ以上細分化できないところまで細かく見ていくと、最後には素粒子しかないことが分かっています。

つまり、全ては素粒子によってできているのです。それなのに、私たちは見かけ上あらゆるものは、互いに分割されていると感じるのです。

3次元の空間の中に、さまざまな「モノ」が存在し、それらはその空間の一部を占有し、互いに分離しているという見方です。

自分たちが見ているスケールでは確かにそのように見えるのですが、どこまでも細分化していった先には、素粒子だけがあり、そこにはどんな分離もないわけです。

これが分離は幻想だという理由です。ところが、私たち人間の左脳だけが、「モノ」という単位でこの世界を認識するような構造に初めから作られているのです。

初めからというのは、生まれる前からということです。つまりは、まだ何も知らない赤ちゃんの左脳も、「モノ」を認識できるように仕組まれているということです。

すごいことですね。進化の過程で我々の左脳はそういった機能を授かったのです。その結果、言葉を発明し、時間という感覚さえも生み出したのです。

そして私たちが暮らしている、この複雑で大規模な人間社会を構築することを可能にし、科学も発展させてきたのです。とんでもないことが起きたと言ってもいいかもしれません。

ただしその代償も大きかったと言わざるを得ません。分離からくる苦悩は、それが見かけ上のものであることを見抜く以外には、無くすことができないからです。

果たして人類の未来はどうなるのか?このまま分離の世界を加速して病んで滅亡への道を進むのか、あるいは左脳と右脳の両刀使いになって発展していくのか。

できれば後者を望みますが、どうなるのかは神のみぞ知るですね。

続、左脳さんの逆襲

左脳と右脳のどちらに自我はいるんですか?と聞かれたら、迷うことなくそれは左脳ですと答えるでしょう。

当然のことですが、左脳は思考を操る部分であり、自我は思考の塊と考えることができるからです。

ということは、自我の特徴と左脳自体の特徴が一致していたとしても、決して不思議なことではないですね。

両者の共通点は、自分のことを第一に考えるということです。人に優しくしてあげられるのは、自分に余裕がある時なのです。

人を優先する時も、本当にそうしたいと思っている時よりも、何か他の要因があって仕方なくそうしてることの方が多いはずです。

個体が自分の生存を優先させるのは、個体の本能であるため、これは当たり前のことだと言っていいと思います。

自我は自分を幸せにしたいと願っています。何が幸せなのかはその人によって違いがあるのですが、こうなりたいという自分を目指すのには変わりありません。

では、左脳本体さんはどう思っているのか?面と向かって聞いたわけではありませんが、左脳は左脳の存続を第一目標にしているはずです。

ということは、自我である自分が左脳にとって不利になるような言動をすれば、左脳は全力で抵抗をしてくるのも頷けます。

そのことに気づいている人は、きっとたくさんいるはず。あなたもその一人ではないですか?これは決して気のせいなどではないので、十分に気をつけてくださいね。

イヤイヤ期があるわけ

少し前までよく観ていた動画で、小さい男の子とそのご家族の心温まる日常をただ映したものがあったのですが、その中でこんな会話がありました。

ママが、「◯◯ちゃん、今イヤイヤ期なの?」と聞くと、その子が、「うん、イヤイヤ期なの」と答えるのです。自分が今イヤイヤ期だと答える1歳くらいの赤ちゃんがいるんだとびっくりしたのを覚えています。

人間は他のどの動物とも違って、複雑なことを考える能力があります。考えることで、自らの力で何かを選択するということができるわけです。

これを自由意志と言ったりもします。つまり、人間は外部からやってきた刺激に対して、他の動物のようにダイレクトに反応するだけでなく、どのように反応するかを選ぶ能力があるということです。

この能力を発達させるための最初の大事な時期が、赤ちゃんの時のイヤイヤ期なのです。個体差もあるので、何歳でやってくるとは言えませんが、2歳くらいの時が一番多いようですね。

赤ちゃんは不必要にイヤイヤを連発することで、相手に「ノー」を突きつけられるという能力を磨くわけです。

自分に選択権があるのだということを、身をもって練習するわけです。もしも親が絶対正しいというエネルギーで囲われてしまっていたら、赤ちゃんはその練習ができずに成長してしまうかもしれません。

そのほかにも、赤ちゃんがイヤイヤ期を十分に練習せずに通過してしまうケース(理由)はたくさんあるはずですね。

そうなったら、動物やペットと同じになってしまいます。それは奴隷というのと同じです。外側の世界と内側の世界が直結してしまうわけですから。

人間らしい生き方をするためには、外と内を直結しないでいられるバッファというか空間が必要なのです。そこでこそ自由意志を行使することができるのですから。

もしもなんらかの理由で、あなたが幼い頃にイヤイヤ期をパスしてしまったような場合には、イメージで過去に戻って、幼い自分にたくさんのイヤイヤ期を経験させてあげることですね。

本当のお宝は自分の中にあった

私たちの多くは、気がついた時にはもうすでに何かを目指して生きていたのです。目指すものは常に未来にあるのです。

より大きく、より賢く、より強く、より速く、より豊かに…、これがいくらでも続くのです。そして人生のどこかで、ふと気がつくのです。

なぜいつもどこかに向かって駆り立てられるように進もうとするのか?まるで、走り続けていないと、深い泥沼にでもはまりこんで沈んでいってしまうかのように。

こうしたことの原動力となっている根っこには、自分には何かが足りていないという漠然とした感覚があるのです。

それを補おうとして、鼻面に吊り下げられた人参をどこまでも追っていく馬のような人生を生きて死んでいくわけです。

ではその何かが足りてないという感覚はどこからくるのか。ここからは私の考えですが、それは分離感からやってくるのです。

産まれたばかりの赤ちゃんはまだ全体と一つでした。その状態では完全に満たされているのです。なぜなら、全体というのは過不足とは無縁だからです。

ところが、自我を持っている親に育てられている間に、ゆっくりとこの全体である実世界の中から自分という個別の存在を生み出したのです。つまり全体から分離させられたのです。

この世界は空間とその中にあるモノ、自分や他人や机やおもちゃといったもので構成されているという見方をするようになったのです。

この見方は左脳の発達と関係しているのです。そしてその後は、人間社会で生き抜くために、左脳が大いに活躍するようになるわけです。

ただ残念なことに、左脳がフル回転して足りないものを外の世界から手に入れたとしても、その根底に分離感があり続けるので、満たされることは決してないのです。

宝物は外側には決して見つけることができないわけです。ではどうしたらいいのか?幸運なことに、まだ左脳による分離の見方が始まる前に内在していたものがあるのです。

それが右脳です。右脳は、左脳が活動する前からあって、どこにも分離など見ることはありません。それが今でもそのままにあるのです。

右脳には、過去も未来も時間も分離もありません。その世界に戻ることができれば、不足感もそこからくる欲望も全てが消えてしまうでしょうね。

追記:

とはいえ、左脳さんは決して悪い奴ではありません。それどころか、これまで普通に社会生活を送れてこれたのは、ひとえに左脳さんのおかげなのです。そのことを決して忘れてはいけません。

左脳さん、これまで本当にどうもありがとう!そして、これからもよろしくお願いしますね。

自我は脳内を走るプログラム

昨日のブログで、「あなたは自我ではない」という記事を書きました。今日はその補足的な内容を書いてみようと思います。

私たちの物理的な身体は、遺伝子という精密な設計図によって厳密に作り上げられたものです。これは紛れもない事実ですね。

ところが、一方でこれが私だと実感している自我については、遺伝子にそんな情報はなかったのです。つまりは、設計図なしに作り上げられたのが自我というわけです。

自我の正体を暴こうとして、脳の神経細胞の中をくまなく解剖学的に調べ上げたとしても、決して見つからないはずです。

なぜなら、自我はあれとかこれといった一まとまりの物理的な何かではないからです。それは、脳の神経細胞の中で繰り広げられるある種の働き、あるいは仕組みだからです。

コンピュータで言えば、物理的なハードウェアに対するソフトウェアに相当するものだと思っていいと思います。

つまり、自我とは脳の中で実行されるプログラムではないかということです。いやいや、自分はコンピュータでもなければ、AIロボットでもない、という反論が聞こえてきそうです。

その気持ちはよくわかるのですが、コンピュータの中をどれほど覗き込んだところで、Windowsやさまざまなアプリを見つけることができないのと同じなのです。

しかも自我というプログラムは、長い人生の中で自分が経験したと思い込んでいる過去データを全て自分の一部のようにして、太らせてきたという経緯があります。

そしてその情報を、多くの人たちと共有することで、確固としたものにしてしまったのだと思います。

だからあたかも自分という自我は、実在すると感じるわけです。ただし、もしもあなたが自我だとすると、あなたは脳の神経細胞の中を走る電子の複雑な流れだということになります。

きっとそうは思えないはずですね。だからこそ、自我というプログラムを見続けることで、その観照者である意識こそが、本当のあなただと気づく必要があるのですね。

あなたは自我ではない

地球上のあらゆる生物は、私たち人間も含めてその全てが遺伝子をコピーすることで種を存続してきたわけです。

爪の形から、咳払いの声だったり、その他あらゆる特徴が遺伝子によって受け継がれてきたのです。ただし、例外もあります。

それが自我です。自我を形成する遺伝子というものはきっと永遠に見つからないと思っています。それだけ、自我は環境によって作り出されるものだからです。

赤ちゃんが産まれてくる時、両親の遺伝子を半分ずつコピーした状態でやってくるのです。そして、その遺伝子の中身は死ぬまで変わりません。

けれども、自我については全くの白紙状態なのです。その証拠に、オオカミに育てられた少年少女には、自我がありませんでした。

自我を作り、育んでいくのは赤ちゃんの周囲の状況なのです。どんな自我を持った親が近くにいて、どのように接してもらったか、それが赤ちゃんの自我を決定するのです。

もちろん自我の生成に遺伝子の何かが影響を与えるということはあり得ると思いますが、それはあくまでも傾向を決めるものでしかないと思っています。

あなたがどんな自我として生きているのか、そのことに対して1ミリもあなたの責任はないということです。

あなたにどんな自我を作るかの決定権はありませんでした。知らぬ間に、環境があなたという自我を作り上げてしまったのですから。

もしもあなたが、自分の自我を好きでないとか、この自我から離れたいと願っているのでしたら、一つ方法はあります。

それは、自我を見守り続けるという練習をしていくことです。見ることによって、対象物との間に距離が作られるからです。

そして自分は自我ではないという明確な感覚が、あなたを本当の意味で助けることになるでしょうね。

顔なしで生まれてきた

印象的な osho の言葉をまずは読んでみてください。にわかには、納得できないかもしれませんが。

大部分の人はその人自身ではない
彼らは生きているのではなく
他の人々から与えられた役割を演じているにすぎない
彼らの考えは誰か他の人の意見であり
彼らの顔はただの仮面にすぎない
彼らには顔がないのだ
彼らにはまったく真正な実存というものがない
その生はまねごと
その情感は引用だ

私たちが自分だと感じているこの自我は、自分一人で作り上げてきたわけではないということです。その逆に、周囲との相互作用によって勝手に作られたと言った方が正しいのです。

生まれてしばらくは、自分の顔などなかったのです。ところが、環境に順応するための一時的な仮面をつける術を学ぶようになるのです。

そして周囲の状況や、相手が誰かによっても新たな仮面がその都度作られていくのです。そうやって、例え一人でいる時でさえも、もう仮面を外すことができなくなってしまうのです。

間違えないで欲しいのは、自分自身である素顔というのが仮面の下に隠されているというわけではありません。素顔は元々なかったのです。

顔なしで生まれてきたのです。顔あるいは仮面というのは、全てが対外的なものでしかないのですから。

もしも私たちが、生まれた頃と同じ顔なしの状態に戻ることができたら、さぞかし爽快で心地いい毎日になることでしょう。

実はそんな方法が一つだけあるのです。それは、ダグラス・ハーディングが考案した実験によって、その感覚を手に入れることができます。

興味があれば、調べてみることをお勧めします。

過去も未来も実在したためしはない

この世界は、「何かが起きる」という現象がずっと継続しているわけです。そしてそれは常に今なのです。今以外の時はありません。

どこをどう見回したところで、今この瞬間に何かが起きつつある。そういう世界だということです。

ところが、私たち人間には記憶という能力と、イメージするという能力があるおかげで、現実の世界にはないものを見ることができるのです。

記憶を辿って過去に起きた何かをイメージする(思い出す)ことができます。未来のことも、頭の中でイメージを作り出して、それを見ることができるのです。

過去と未来は、どうやったってこの現実の世界には存在しません。それなのに、私たちの感覚ではそれらがとてつもなくリアルに存在するように感じてしまうのです。

それがなぜなのかなと思っていたのですが、一つの理由が判明しました。それは他人と共有できるからですね。

もしもあなたがこの地球上で一人で生きていたら、昨日こんなことがあった、あんなことがあったと一人で思い出したとしても、それほど続かないはずです。

その記憶はすぐに萎んでしまい、それよりも今目の前で起きていることの方に意識が集中するはずなのです。

ところが、誰かと昨日起きたことを共有することで、話しがはずんでいくわけです。そうやって、今日もあなたの思考があなたを存在しない過去や未来へと誘うのです。

実はこうした能力を身につけたおかげで、ホモサピエンスである我々が地球上を支配するまでに成り上がったのです。

ただし、人間社会が個々人よりも大事にされるあまりに、その能力を使い過ぎることになってしまい、誰もが左脳一辺倒の生き方をするようになってしまったことは問題かもしれません。

人とのコミュニケーションの時には、左脳(言葉)によってそれが成立するのは悪いことではないですが、独りでいる時には左脳を休ませて、ありもしない過去や未来から離れること。

独りでいるときに、余計な思考に振り回されていないか、よくよく注意して監視している必要があるということですね。

あなたはどちら派?

左脳の特徴は、過去や未来の中にいて、ああでもないこうでもないと考え続けるわけです。これって、時間の中にいるとも言えますね。

一方で、右脳はどうかというと、今この瞬間にだけいるので、全く時間というものがありません。ということは、記憶というものとも縁がないのかもしれません。

左脳にしても右脳にしても、私たちの脳の内部での話です。私たちが生きているこの現実世界とは隔離された世界でのことです。

それなのに、自分の脳の中で起こっていることを、現実の世界で起こっていることと勘違いしていることに気づかないでいるのです。

だとしたら、現実がどうなのかなどということに囚われるのをやめて、より快適な人生にするには左脳と右脳のどちらとより緊密になればいいのかを考える必要がありそうです。

実際のところ、自分が左脳と右脳のどちらと蜜月の仲なのかをみてみれば明らかですが、私の場合はもちろん左脳です。

左脳の感覚は、二元性の世界を作り出しているので、嬉しいことがあれば必ず苦悩もあるのです。これは二元性の原理原則です。

喜怒哀楽と共に人生の浮き沈みを面白おかしく捉えて生きるのが好きであれば、左脳の作る人生はもってこいなのかもしれません。

その反対に、右脳の感覚はずっと今今今だけを生きているわけです。人生という物語もなく、ただ自分の本性である全体性にずっと気づいている状態なのかなと。

左脳が好みの人は、今のままで生きて死んでいけばいいのですが、右脳が好みの人は左脳との太いパイプを解消して、右脳との関係を密にしていく必要がありそうですね。

もちろん、左脳か右脳かどちらかだけで生きることはできません。要するに、軸足をどちらにするかを考えるということです。

さて、あなたはどちら派ですか?

バカバカしいジレンマ

私たちはいつも何かを求めています。ここにない何か、今日は手に入らない何か。それを探し求めていることで、マインドは生きながらえているのです。

誰もが、そのことにうっすらと気づいているのですが、本当に気づいてしまったら都合が悪いので、そこはそうっとしておこうとするのです。

自分なりの方法で思考から離れて静かにしていると、何も求めない状態、どこかへ向かおうとするエネルギーがなくなっていることに気付かされます。

過去も未来も消えてしまって、ただここにいるのみとなるのです。そしてそのことになんの問題もないと分かっているのです。

ところが、そこから外れていつもの日常に戻ってくると、ああどこかへ向かおうとしているなとか、何かを求めているなと気付かされるのです。

そうやって、今この瞬間から離れてすっかり馴染んでしまった満たされない状態へと戻ってくるわけです。

満たされたいという願いを持っている状態こそが、絶対的に必要なものだということです。いざ満たされてしまったなら、マインドは消えていくしかないからです。

このバカバカしいジレンマに気づくこと。はっきりと理解して、そこから目を逸らさないことで、次なる展開がやってくるのでしょう。

何も求めない状態でいられることが、どれほどありがたいことか。これこそが本当の自活、自分だけで完結している満たされた状態なのですね。