一貫性など元々ない

梅雨の時期であるのに、昨日今日と猛暑日のように異常に暑くて、身体はもうしんどいよと悲鳴をあげているようです。

そんな中、あれ?これは夏休みの時の感触じゃないの?ワーイ、夏休みだぁ!と喜んでいるのが内側にいるのです。

多分小学生くらいの時の自分なんでしょうけれど、あの頃はとにかく休みが大好き&夏が大好きということで、夏休み命だったのですね。

そんな子供のサブパーソナリティがいまだに突然お出ましになるのですから、人間とは如何に過去に縛られているかが分かります。

大人になって、暑くてだるい夏よりもおしゃれなブルゾンとかを着ることができる冬の方がいいじゃないと感じるようにもなったのに。

年齢とともに、いろいろなパーソナリティがいて、どれが出てくるのかはほとんど予想できません。だから、一貫性などないわけです。

これが人間なのです。TPOに応じてその時に都合のいい奴が出現するのです。そんな自分を温かい気持ちで見守ろうと考えた本日です。 

外側の世界と内側の世界

私たちには、世界が二つあるのです。一つは内側の世界であり、もう一つは外側の世界。馴染みのあるこの世界は外側の世界です。

外側の世界で生きているので、他人の外側のごく一部のことしか知り得ません。内側を知るすべはないのです、たった一つの例外を除いて。

その例外とは、私たちは自分自身の内側には入っていくことができます。他人の内側に入ることはできませんが、己の内側には幸運にも入れるのです。

あなたが自らの内側深くを覗き込むことができれば、それだけ外側の世界の上位の次元であるところへと近づくことになるのです。

一般常識としては、外側の世界はみんなで共有している世界であって、内側の世界というのは個人個人のプライベートな世界ですね。

けれども、内側の世界の内奥へと迫っていくことによって、個別に存在しているように見えていた意識が、実は全体性としての唯一の意識だったと気づくのです。

そこには分離という概念がありません。あなたの意識と私の意識とは同じものだったということ。無限に広がった意識の大海原なのです。

それがほんの一瞬、自分は大海原から分離した水滴だと勘違いしている夢を見ているに過ぎないのです。外側の世界に生きているという夢の中で、このことを見抜くなら一瞬にして真実に出会うことでしょうね。

夢の中でくつろぐ

例によって以下のoshoの言葉に耳を傾けてみましょう。

『あなたのハートに沈みこませるべき最初のことは、あなたは眠っている、完全に眠りこけているということだ。あなたは明けても暮れても夢を見ている。

目を開けて夢見ている時もあれば、目を閉じて夢見ている時もあるが、あなたは夢を見ている。あなたは夢だ。まだ現実ではない。』

実はこの仕事を始めるずっと以前から、「この世界は夢だ」という感覚を持っていたのですが、もちろん誰かに言ったことはなかったと思います。

今でこそこのブログがあるからこうして表現することができるのですが、それでも直接会話の中で言うチャンスもないし、何となく気が引けるのは確かです。

なのでosho がこのような言葉で語ってくれるのは、物凄くありがたいのです。自分一人の感覚なんてあまりにも曖昧で荒唐無稽なものでしかないので。

最近の自分の言葉で言うなら、みんなで自我になった夢を見ているということです。この宇宙がないということではなくて、目覚めた状態でそれを見てはいないということ。

もしかすると私のこの感覚は、目覚めていた頃の感覚を夢の中でもうっすらと感じているのかなと。きっと死んだらすぐに目覚めるような気がします。

どうせ眠って夢の中にいるのなら、苦痛のそれよりも穏やかで楽しい夢にした方がいいですね。防衛から手を引いてくつろぐことですね。

意識が覚醒すると…

一般的に言って、気絶した時には意識を失うという言い方をするし、そこから回復した時には意識が戻ったと表現しますね。

こういった言い方に慣れてしまっているので、意識というのは失ったり戻ったりするものだという思い込みが出来てしまったのです。

真実のレベルで言う純粋な意識というのは、決して失ったり戻ったりするものではなく、私たちの本質そのものだということ。

意識はこの宇宙である3次元の上位の次元にあるものなので、この世界のあらゆるものに浸透しているのです。つまり意識の内側(より低次元)にこの世界があるということ。

ただし意識の状態として二つの状態があるのです。一つは、覚醒している状態であり、もう一つは眠っている状態なのです。

私が知る限り、この宇宙の中で覚醒した意識が顕れているのは人間だけなのです。それ以外の全ては眠っている意識が覆っているのです。

あらゆる動物、植物、鉱物も全てに意識は浸透しているのですが、とにかく眠っている状態なのです。そしてその唯一の覚醒した意識も、人のマインドの中のほんの少しだけ。

それ以外は全て眠っていると考えられます。残念ですね。眠った状態の意識に覆われたマインドの代わりに、覚醒した意識に気づくなら、誰もが本当の自分に戻ることになるのですね。 

マインド優位からハート優位へ

マインドというのは思考で出来ている一方で、ハートは感覚や感性で出来ていると言っていいと思います。不思議なことに日本語では、どちらも「心」と呼びます。

単純に言って、考えることと感じることの両方があっての人間ですから、どちらもとても大切な欠くことのできないものです。

けれども、現代人の多くにとってマインドとハートの使われ方の比重が、マインドの方に強く傾いてしまっているのです。

その理由は、このせちがない世界の中で生き抜いていくために、自分をあらゆる敵から守らなければならないために、思考を働かせる必要があるからです。

戦いに勝つために有利な条件とは、マインドによって戦略を練る一方で、痛みを感じやすいハートを閉じることです。だからマインド優位が必然なのです。

たまに忙しい毎日から脱出して、大自然の中で日常を忘れてゆったりと過ごすことができれば、その時はマインド優位が崩れて、自ずとハート優位の状態になるはずです。

こうしたことは、誰もが大なり小なり気づいていることのはずなのに、それならなぜいつまでもマインド優位の人生から逃れることができないのか?

それは、マインド優位であればあるほど、自我にとっては具合がいいからです。自我はマインドの中に棲んでいるので、ハート優位の時には大人しくしていなければならないからです。

自我は幸せを求めているふりをして、実はマインド優位の状態を保って、戦いの人生を継続させたいという本音があるのです。

こうしたことに気づいて、少しずつマインドを沈めるとともに、ハートを開いて感じやすくなるように、生き方全般を見直してみることが大切ですね。

防衛は自我の独壇場

人は何か興味があること、好奇心を駆り立てられるようなこと、大好きでやりたくて仕方ないようなこと等に向かっている時には、取り立てて「安心したい」とは思わないものです。 

つまりそこに不安があろうとなかろうと、それを安心に変えたいという衝動が小さくなっている状態だということです。

その一方で、逆に興味深さや好奇心とは無縁のやりたくないことに従事している時には、どうやって自分を安心させられるかに意識が向くのです。

つまりは自己防衛が発動しやすい状態になっているということです。こうなると、自我の独壇場となってしまうのです。

さてあなたの人生はどちらの色合いが強くなっているか、ご自身で検証してみてください。万一、安心を目指すような人生になっているのでしたら、癒しが必要というサインです。

防衛を繰り返していて満たされるということは決してないからです。安心を求めている人のマインドの中は、思考でいっぱいです。

なぜなら、防衛には思考を使うからです。思考が止まらないという自覚があるなら、それは年がら年中防衛を繰り返しているということを意味します。

そしてその目的は、闘ったり守ったりを繰り返すことで自我はやるべきことがあり続ける状態となって、それが安心につながるわけです。

自我の安心なんて所詮そんなものなのですね。不安だから安心したいと思うのは当然ですが、それをただ見守ってあげられるように練習することですね。

意識的でなければ真実を知ることはできない

私たちの肉眼は常に外側を見るようにできています。もちろん耳も同様に、外側からやってくる音を聞くように外に向けて開いているのです。

だからいつだって、外側の世界の方にばかりに意識を向けてしまう習慣ができてしまったのです。ところが真実を知るためには、内側に意識を向ける必要があるのです。

このブログでいつも書いている、「意識的である」というのは内側に意識を向けているということを意味しているのです。

内側が対象になるので、肉眼や肉体の耳を使うわけにはいきません。そこで、意識を向けるという表現を使うことになるわけですね。

言ってみれば、心の眼で見るということ、心の耳で聞くということです。え、そんなことができるの?と思うかもしれませんが、誰でもできることです。

外側に意識を向けることができるのですから、内側に意識を向けることだってできるのは当然のこと。ただ少し慣れが必要なだけなのです。

ただし、外側の世界に対してすごく気になることがあるとか、不安や困りごとがあってとても安心などしていられないという状態では、当然のこと意識を内側に向けるという余裕がなくなってしまいます。

だからなるべく特別な問題を抱えていないような状態の時にこそ、意識を内側に向ける練習をする必要があるのです。

そうすることで、少しぐらいの不安や困りごとがやってきても、意識的であり続けることが少しずつできるようになるのですね。

自我の正体を見る

最近このブログに度々登場している私の母親のことですが、ちょっと驚くようなことがありました。

とにかく家にいる時には、何もすることがないので、起きていようが寝ていようが不安の攻撃を受けるらしいのです。

特に寝て起きた直後は、もう夢の中の状態が継続してしまうのです。そしてその夢はことごとく潜在意識の中に巣食っている「不安」が題材となっているのです。

どれほどこちらが安心してもらいたいと願って、あれやこれやを提案したり言って聴かせたところで、ほとんど効き目はないのです。

不安を煽るネタが次から次へと無限に出てくるので、なんでも不安の材料にしてしまうんだねと声をかけたところ、突如不安製造機の親分が現れたのです。

そして一言、「生きている限り不安があるんだ!」。普段の穏やかな感じとは大分違ってちょっと怖い感じのするキャラクターでした。

思わず、不安の張本人の本音が出たなと思ったのですが、それも一瞬だけでその後すぐにいつもの穏やかな母親に戻りました。

初めて直にその存在を見ることができました。やっぱりいるんですね、黒幕が。その存在が、不安を操って日々を生きる糧として使っているということです。

自我の正体が見えた気がした体験でした。

覚醒とは自然であること

覚醒すること、あるいはエンライトメントというのは、特別な何かを達成するというものではありません。

生後くっつけてしまったあらゆる余計な概念や正しさ、自分はどうあるべきか等の観念から解放されることです。

他人のことについては、とてもよく理解できるのですが、いざ自分のこととなるとそうは簡単にはいきません。

なぜなら、防衛のために自分に押し付けてきたあるべき姿を捨てられないからです。それほどの勇気を持つことは難しいのです。

もしも私たちがあらゆる拘りから解放されたなら、幼い頃のようなより自然な生き方に戻ることになるでしょうね。

ところが、潜在意識の中には過去に体験して、未消化なままに残ってしまったエネルギーがどっさりと残っているのです。

そういったものが、自然に生きることにブレーキをかけて、不安や孤独、そして惨めさの中に引き戻そうとするのです。

自然にそして自由に生きようとする部分と、不安から逃げて安心を掴もうとする部分とが常に対立しているのが私たちのマインドですね。

心労から解放される

自我にとっての最大の楽しみというのは、哲学なのではないかと思うのです。なぜなら、それはずっと思索の中に入って戯れていることができるからです。

外側には何も必要とせずに、ただただ内側の世界で思索し続けることができるのです。それが終わりを迎えることはありません。

奥深い思索の結果、覚醒に到達するということは決してないからです。これはエンドレスの思考のゲームなのです。

言ってみれば、ゴールのない無限に続けることができるロールブレイングゲームのようなものです。

どれほどの際立ったものに到達したところで、それは思考の世界でのことであり、そこから抜け出すことはできないのです。

それに対して、瞑想においては全く異なる次元に到達することができます。とめどない思考の罠から抜けて、クリーンな実在を見抜くのです。

思考から抜けると時間からも抜けて、ただ現在にあることに気づくことができます。過去と未来から解放された至福を味わえるのです。

なぜなら、過去と未来がなければ、あらゆる心労からも解放されるからですね。