Let it Be

私が確か高校生の頃に、ビートルズが 「Let it Be」を発表して、ポールがピアノを弾きながら歌う姿を見て、心を奪われたのを覚えています。

天才がまたやっちゃったって。しかも曲が素晴らしいだけでなく、今度は詩もすごく入ってくるものがあったのです。

ビートルズの曲の歌詞は、英語なのですが比較的平易なものが多くて、ちょうど高校生くらいだと何とか理解できるレベルだったようで。

レットイットビーとは、あるがままにしておけ、くらいの意味だと解釈したのですが、今の自分だと「対処するな」といったところかなと。

他の言葉で言えば、これもいつも言っていることですが、ただ起きることが起きているに過ぎないという感覚。

残念ながら、レットイットビーをリリースしたその年に、彼らは解散してしまいました。ああ、やっぱりなと思ったのをよく覚えています。

歌詞の中に、確か彼らはバラバラになってしまうかもしれないけれど、いつかまた再会することができる云々という言葉があったかと。

そんな時期で、きっとポールはそのことで悩んでいたのでしょうね。再結成は実現しませんでしたが、マリア様の言葉である「そのままに、委ねなさい」が刺さりますね。

自分を解放するモットー

子供の頃からいろいろなモットーを持っていたように記憶しています。それは自ら頑張って作るというようなものではなく、気がついたら何となくあったという程度。

その多くは、自分を不自由にしているものから自分を解放するのが概ねの目的だったように思います。

例えば、「正義の味方を引退する」というのは、勝手に正義の味方をやっていたことに気づいて、それをただやめようと思っただけのこと。

でもそれを自分の中で明確にする必要があったのでしょうね。ずっとやってきたことって、はっきりさせないとまたすぐに戻ってしまう傾向にあるからです。

もう少し大人になると、「かわいそうに負けない」というのを作りました。これは自分の中では結構画期的でした。

要するに、かわいそうな人、大変そうな人、申し訳ないと感じてしまうことにやられないようにしたのです。はっきりと、「ノー」を言うということ。

別の言葉で言えば、罪悪感なんかには負けないということ。その後は、「義理を欠いて生きる」というモットーもありました。

義理と人情を握りしめてしまうと、不自由さがつきまとうことに気づいたからでしょうね。

あるいは、「いい人をやめる」とか、「何でもあり」、最近では、「少しぐらい傷ついてもいい」というのもありますね。

決定的なものとして、「正しさをドブに捨てる」というのもあります。正しさを優先して生きると、自己犠牲が大きくなるからです。

皆さんは、どんなモットーを持っていますか?自分を解放して、自由になれるようなモットーを沢山持つといいと思いますね。

マインドを見る側になる

もう諦めてください。何を諦めるかというと、個人として生きているあなたの人生、あなたの気持ちが満たされるということ。

誰もが、充分に満たされたいと願っているのですが、それは原理的には叶うことがないということです。

なぜなら、満たされたいと願っているのはあなたのマインドであり、そのくせマインドは満たされた瞬間に身動きできなくなってしまうからです。

マインドは何かを求めて動く原動力が必要なのです。今はまだ満たされていないけれど、未来へ向かって進むことでそれはやってくるはず。

これがマインドがずっとやり続けていることです。それは鼻の先にぶら下げられた人参を追い続ける馬と同じなのです。

このバカバカしさ全体を見極めること。いつかよくなる、いつかは解決する、いつかは満たされる、いつかは幸せになれる等々。

もしも諦めることが難しいようであれば、マインドはそのままにしてそれを見守る側へとシフトすればいいのです。

その時には、これまでとは違う種類の何の理由もない満たされてる感がやってくるのです。しっかりマインドを見る側になれればですが…。

お任せして委ねる

クライアントさんの中には、具体的な心配事やどちらを選ぶべきかと言った、一般的な相談事を持って来られるケースもあるのです。

困っているから相談に乗って欲しいというお気持ちは分かるのですが、正直なところ相談事をお聴きして、的確な答えを提示するのがとても苦手なのです。

もちろん正論を言えば、セラピストはご近所のご意見番と違って、癒しに特化した仕事しかできないということになるのです。

そして少し冷たいようですが、本音を言えば相談事には興味がないということと、実際に正しい答えを出す自信もないのです。

自分があまり常識人ではないという自覚もあるし、そもそも正解などというものはないと思っているからです。

今これが正解だと思って選んだことが、10年後には真逆になっているということもあるかもしれません。

ロングスパンで見た時に、何が成功で何が失敗なのかは言えなくなると思っています。だから相談事には、曖昧な答えしか出せないのです。

もっと大切な事は、起こるべきことが起きているという感覚を持つことかも知れませんね。全体性にお任せし、委ねるという感覚です。

実際私たちは全体性の一部に過ぎないのですから。これが分かれば後悔も減るし、未来への不安も小さくなるはずです。

理由なき満たされた感

他の人のことは分かりませんが、私自身の人生を見たときに思うのは、本当に満たされた感覚でいられることが少ないということです。

多くの場合には、何かしらの不満を抱えているのです。具体的なものの場合もあるし、何だかよく分からないものの場合だってあります。

もしかしたら、満たされた状態でいられるのは1%くらいで、残りの99%は不満を感じて、何かが足りない、このままではダメだと思っているかもしれません。

本当に満たされて、この瞬間が充分以上であり、これ以上の求めや期待するべき何も見つからない時に初めて、真のリラックスがやってくるのです。

だから、残りの99%は決してリラックスできるはずがないのですね。こうしたことに独り密かに気づいた時、何かが変化し出すように思います。

きっと1%である満たされた状態というのは、人生物語から抜け出している瞬間なのだろうなと。マインドから脱している状態だし、瞑想状態とも言えるのです。

不満や欠乏感が私たちを闘いへと誘うのですが、それが人生というものだということを再確認しておいた方がいいでしょうね。

そのことを知った上で、毎日ただ起きることが起きては去っていくのを見守る側でいられたら、理由なき満たされた感がもっと頻繁にやってくるようになると思いますね。

たった一つの思い違い

私たちは、生まれてほんの数年の間に自己イメージというものを作ってしまいます。自ら作るというよりも、環境によって設定されてしまうと言った方が近いかもしれません。

ビルディングの建設で言えば、土台の部分にあたるものですね。その土台によって、どのような建物が建つのかが決まるわけです。

私たちの人生も同じようにして、幼い頃にでっち上げられた自己イメージが、事実間違ってなかったと証明するようなものになるのです。

つまり、自己イメージに自分は「A」だと書いてあると、それが正しかったかのような人生になるということです。

それは本当に恐るべきことだと言えます。なぜなら通常そんな古い自己イメージに自分が縛られているなどとは思いもよらないからです。

あなたが持ってしまった否定的な自己イメージの根本にあるもの、それは自分には「価値がない」という思いです。

たったその一つのイメージがあることによって、あらゆる否定的な自己イメージが連鎖的に作り上げられるのです。

もしもあなたが、否定的な自己イメージの一つとして、自分は「根暗だ」というものを持っているとしたら、それも「価値がない」からやってくるのです。

「価値がない」という自己イメージを持っていなければ、「根暗だ」というのはただの特徴に過ぎないというだけになるのです。

このたった一つの「自分には価値がない」という自己イメージが単なる思い込みに過ぎなかったと気づいた時、人生は何から何まで変容してしまうでしょうね。

学生と弟子の違い

学生とか社会人が勉強をするのに努力は必要かもしれませんね。なぜなら、その時間をもっと楽しいことに費やしたいという欲望と戦わなければならないからです。

知識欲が旺盛な人は、勉強して知識が増えること自体が楽しくて仕方ないという有利な気質なので、それほどの努力はいらないかもしれませんが。

ただどれほど知識が増えたところで、新たな気づきがやってくることはありません。知識とは、そういう情報があることを知っていることに過ぎないからです。

一方で、弟子が本当の学びをしていくためには、努力も必要かもしれませんが、もっとも必要なものは勇気なのです。

そこに関しては癒しと似ているのです。弟子が学ぶときも、クライアントさんが癒しを進めていく時にも、両者に共通する事柄があるのです。

それは、自分が変容していくことへの覚悟が必要ということです。弟子の場合は、師から与えられた全く新しいワールドへ没入していくこと。

それがどれほど恐怖を伴うものだとしても、それを通過していくことでしか師のところに近づく方法がないからです。

癒しには師は必要ないのですが、それでも癒していった先にはこれまでの自分とは違う変容した自分が待っているのです。

これまで築いてきたものを手放す時、ずっとしがみついてきたものから離される時がやってくるのです。

そうした覚悟があればあるほど、早く癒しが進むことになるのですが、一般的には恐怖がそれにブレーキをかけるのですね。

惨めさが輪廻転生の原動力

私たちが個人(自我)として生きている限りは、惨めさは必ずついて回るものだということを知ることです。

自我はそれとは知らずに、その惨めさから何とかして脱出しようとするエネルギーを主な原動力として生きているのです。

一番長続きするのは、その惨めさを隠し持った上で無自覚の上で、惨めじゃない自分になろうと奮闘努力することです。

これは死ぬまで継続させることができますね。ではそもそもなぜ惨めさがついて回るか、それを理解することがまずは必要なことです。

惨めさの原因となるものは、期待です。本能的なものは当然のこと、自我は心理的な期待というものを必ず持っているのです。

その期待値に対する現実との落差が惨めさとなるのです。つまり惨めさは思考により作られるものです。

実在するものではないにせよ、その思考が原因となって悲しみなどの感情が発生するので、それを直視せずにいようとするのです。

もしも自分が持っている惨めさをしっかり見つめて、それが思考による創作物だと深く理解することができたなら、生きるエネルギーが恐怖から愛へと変化するでしょう。

そうなったら、次の人生がやってくることは無くなるはずです。なぜなら、輪廻というのは惨めさの伝播だからです。

思考と実在の区別

子供の頃、いろいろなことが分からな過ぎて、そもそも何で宇宙があるんだろうとか、そもそも何で自分がいるんだろうって考えたりしていました。

さすがに、何で自分がいるんだろうと言う前に、自分がいるということが本当なのかを疑問視したことはありませんでした。

かつてデカルトは、「我思う、故に我あり」と言ってしまったのですが、これが圧倒的に思慮深くなかったなと。

これが歴史上残ってしまったので、あの世で彼はちょっと恥ずかしい思いをしているかもしれません。

我思う、故に我ありという思考がある、こう言ったらよかったのに。思考と実在の区別をしなかったための間違った言葉ですね。

このように私たちは、思考なのか実在するものなのかの区別をあまり明確にしていないのです。

思っていることが実在であることもあるかもしれませんが、それはまた別の話。とにかく思考と実在をゴッチャにすることをやめることです。

さもないと、いつまでも自分を本質側から見ることができないままでいることになるのです。

常に思考の中にあると、そうした間違いを犯しやすくなるのです。あなたは大丈夫ですか?思考から離れている時間が1日のうち数分でもあれば、今日のブログの意味がはっきりすると思います。

改善より見守ること

幼い頃の生育環境がその後のその人の人格や人生に多大な影響を与えることになる、という事は現代においては誰もが知っている周知の事実ですね。

ところが私が思うに、そのニュアンスは間違って理解されているように見受けられます。本当のところ、環境に影響されるというよりは、それで出来ているのです。

もう少し丁寧に説明すると、我々に元々与えられているのは遺伝子とそれによって作られた肉体だけなのです。その人の内面を形成しているマインドは、当初存在してなかったのです。

影響されるという意味は、元々何かがあってそれが環境によって変化させられるということなのです。

サイコロのような形をしたスイカを見たことがあると思いますが、あれはそうした形の箱の中でスイカを育てる事で、その影響を受けてその形になったわけです。

けれどもその箱がなくてもスイカは自らの形に成長することができますね。一方でマインドは、マインドを持った家族に囲まれることでしか発生しません。

何もないところにマインドが生み出されるのですから、それは影響されるというレベルではなく、親などの家族のマインドが材料となって作られるのです。

意味が伝わったでしょうか?影響を受けるのと、それで出来ているのとの違いは絶大であり、それをどう考えればいいでしょうか?

もしも自分のマインドが気に入らないとしても、それを望むようなものに変えることは出来ないと知ることです。

鉄の板をどれほど磨いたところで金の延べ棒に変えることが出来ないのと同じことです。だから改善しようとするのをやめること。

そして唯一のできる事とは、マインドの働きを小さくするのです。あなたのマインドが様々な反応をしても、それを見ている側になる練習をすること。

そうすればどんなマインドであれ、その影響を見守りながら生きていくことが可能となり、それはより自分の本質に近づくことにもなるのですね。