答えを持ち歩かない

ネットのニュースを見ると、今は自民党総裁選の真っ只中ということもあって、立候補した方々の質疑応答を幾度となく見ることになりました。

それで思ったのですが、彼らはどんな質問が来てもいいように、前もって準備をしていてこの質問にはこう答えようと予め決めているのだろうと分かるのです。

それはそうでしょうね。国民の前で答えに窮してしまった姿を見せてしまったら、落選してしまう可能性が高くなってしまいます。

それと比べるのはどうかと思うのですが、クライアントさんとのセッションにおいては、実は何も決め事がない状態でスタートするのです。

ですので、その日のクライアントさんの状態次第でどんな内容のセッションになるのかがその瞬間ごとに決まっていく感じなのです。

だからセッションの終わり近くなって、必ずこのような結論で締め括ることになるなんてこともないのです。

私自身がどういう内容のセッションになるのか、全くわからない状態で進行していくのですから。

実は今自分はこんなことを口走っているけど、それはどうなんだろう?と思っていたりもするのです。これはクライアントさんには言わないですが。

同じ質問をされたとしても、クライアントさんによっては全く違うことを説明していたりすることはよくあるのです。

答えを持ち歩かないということを心がけている方が、きっと自分のエゴの影響が少なくなるのかなと思っていたりします。

闇と戦わず光を当てる

明るいの反対は暗いですし、光の反対は影ですね。では光と影(闇)のどちらが実在かといえば、当然光です。

光の不在である闇を何とかしようとするなら、光を当てればいいわけです。闇そのものをどうにかしようと思っても、どうにもならないのです。

これと同じようなことがマインドにも言えるのです。私たちはマインドの中に闇の部分を持っています。

自分はダメだとか、自分は惨めだとか、そういった自己否定の思いはマインドの闇の部分として捉えることができます。

その闇を何とかしようとして、価値ある人間、役に立つ人間になろうとしたり、高評価を得られる存在になろうとして頑張るのです。

これこそがマインドの闇を何とかしようとする悪あがきなのです。闇は存在しません。そこに光を当ててしまえば、闇は消滅してしまうのです。

光を当てるとは、マインドの隅々までしっかり見てあげるということです。全部見えてしまえば、自ずと闇は消えてしまうのです。

それをするのが、癒しなのです。闇と戦うことを金輪際やめてしまうこと。代わりに、光を当ててあげればいいのですね。

「ここ」と「そこ」の違い

この生において一番大切なことは、自分は身体ではないとはっきり知ることです。身体との同一化が外れたら、痛みからも解放されるはずだからです。

痛みが消えてなくなるということを言っているのではありませんが、自分が身体の痛みを感じているという解釈と、身体のそこに痛みがあるということとではまるで違うのです。

osho の弟子の歯医者さんが、osho の歯の治療をする際に麻酔をかけなくていいよと言われて、きっととまどったことでしょうね。

実際、麻酔なしで歯の治療を受けているときに、osho はその痛みがどんなものかを感じながら笑っていたそうです。

これは何もosho が無類の我慢強さを誇る人間だということではないのです。全くそうではなく、ただ身体との同一化がなければそうなるということです。

私は少々変わった少年だったので、その頃からずっと身体の苦痛というのは一体全体何なのだろうと思い続けてきた記憶があるのです。

けれども、身体との同一化を外すだけでそんな疑問も消えてしまうのだというところまでは気づけませんでした。

あなたの身体はそこにあるけれど、あなたはそこにはいないのです。さあどこか?それは一人称のあなたが知っている「ここ」です。痛みは「そこ」にあるのです。

「ここ」が私たちの本質

このブログでは、できるだけ意識的であれということを繰り返しお伝えしていますが、この意識的であるということをもう少し具体的に説明してみようと思います。

意識的であるとは、あなたが目の前にいる人を見ている時、あるいは通りがかった家の庭に咲いている花を見ている時、どこからそれを見ているのかに気づいていること。

目の前にいる誰かとお話をしているときに、その人を「ここ」から見ているということに気づいているということです。

「ここ」というのは、自分自身からの距離がゼロの場所を指します。肉体は自分からの距離がまだあるのです。

「ここ」から、綺麗に咲いている花を見ているのです。普通なら綺麗な花にばかり注目が行ってしまいがちですね。

けれども、それと同等かそれ以上に「ここ」に気づいていることなのです。なぜ「ここ」という表現を使うかというと、「私」を排除するためです。

一般的には、「私」がその花を見ているのですが、「ここ」からその花を見ているに変えるのです。「ここ」こそが私たちの本質だからです。

それは位置のことではないのです。なぜなら、「ここ」というのはあなたがどこで何をしていようと一切変わることなく「ここ」だからです。

マインドは戦いを糧にする

マインドというのは、すぐに戦いに誘われやすいのです。少しの間、ゆっくりゆったりできていると思っても、そのすぐ後には戦いが餌をぶら下げてやってくるのです。

そして必ずやその戦いへの誘いは危ないのです。あなたは自分の人生を生きるエネルギーを犠牲にすることになるのです。

戦い出したら最後、それは必ず自己犠牲の餌食になってしまい、人生そのものを浪費して、大切な人生を無駄にしてしまうのです。

このマインドの誘いには、本当に注意しなければなりません。誘われるという表現を使いましたが、言い方を変えるとマインドが戦いを引っ張ってくるとも言えます。

戦いの相手というのは、それこそあらゆるものが充てがわれるのです。それはひどい仕打ちをする人かもしれないし、病気かもしれません。

自分が何か困って、どうにか対処しなければならないと考えるものなら、何であれ戦いのターゲットとなるのです。

痛みを我慢するのも戦いだし、自己表現を抑えるのも戦いなのです。恥ずかしさや罪悪感から逃げ続けるのも戦いの一つです。

はっきり言いましょう。マインドは戦いを糧にして存続しようとしているのです。少しも幸せになろうなどとは思っていません。

このことを忘れないことです。そして戦いの中に入っていこうとする自分に気づいていてあげることができれば、いずれは少しずつ足を洗っていくことになるはずです。

全体性についての補足

昨日のブログでは、全体性の感覚のことについて書いたのですが、もう少し補足しようかなと思います。

より具体的なことで説明することができれば、分かりやすくもなるのかなと思ったので。

例えば、『空っぽで、自由で、そして自然でありなさい』と言われたら、ものすごく気持ちが楽になるのですが、すぐにそれだけでは生きていけないという考えがやってきます。

もしも誰かに理不尽なことをされたり、搾取されるようなことがあれば、そんな呑気なことを言ってられないとなるのです。

この場合、自分の立場で考えるから自分を守らなければいけないとなるのですね。この「◯◯の立場」というのが問題なのです。

寄生される生物の立場になったら、とんでもない理不尽な目に遭ったことになるのですが、寄生する生物の立場に立ったら、そうする以外生きる道がないのです。

ライオンに追われて食べられてしまうシマウマの赤ちゃんを見たら、シマウマの立場になったら酷い仕打ちだけれど、ライオンの立場であれば生きていくために必要なことです。

そして野生動物の生態系という全体で見たら、何も問題がないということになるのです。それが全体性の感覚とも言えるのではないかと思うのです。

結局、全体性とは個別的などの立場にもならない時の感覚だということ。一見すると、すごく冷たいような感じもしますが、確かに全体性には感情がないのかも。

感情だけでなく、思考もないのです。全体性とはただ見ることだからですね。だから、空っぽで、自由で、自然であることになるのです。

全体性という感覚

osho が次のように言っているのを知って、少し驚きました。

『私はあなた方に、分割されていない―<全体(whole)>の感覚を与えようとしているのだ。科学は片割れだ。哲学も片割れだ。どうしたらいい? どうやってあなたにその<全体>の感覚を与えよう?』

ここで言っている<全体>というのは、このブログで時々出てくる全体性のことだと思って間違いありません。

それってどういう感覚ですか?とクライアントさんから聞かれることもあるのですが、言葉で説明するのは難しいのです。

さらに、それを感じられるようになるにはどうしたらいいですか?と聞かれたところで、osho と同じで分からないというのが正直なところです。

私自身の場合についても、どこかの時点でそれを知るようになったのか、それとも初めからそれを知っていたのか、どちらなのか確信が持てないのです。

だから全体性を体感するようになる方法なんてものが、本当にあるのかどうかも分からないのです。

この感覚を味わっているときには、じっとしてどこを見るでもなく静かにしていることが多いのは事実です。

そして、究極的には自分しかいないという感覚と近いかもしれません。この場合の自分というのは個人としての自分ではないのですが。

もしくは、自分はどこにもいないという感覚とも近いですね。そうしたものの総称が全体性なのかなと思っています。

不安の根っこを見極める

私たちの自我(マインド)というのは、いつも様々な不安を抱えています。失業してお金がなくなったらどうしよう。

重篤な病気に罹ったらどうしよう。好きな人に裏切られたらどうしよう。みんなから否定され非難されたらどうしよう。

こういった不安のネタというのは、日々無限に出てくるのですが、その根っこにある誰にでも共通の不安というのは、たった一つです。

それは、個人として生きているということ、外側の世界とは分離していることからやってくる不安なのです。

この不安は原理的なものなので、分離しているという思い込みが消えない限りは、決して無くならないのです。

そこで私たちは、この不安を何とかして誤魔化して感じないようにするありとあらゆる方法を編み出したのです。

それをこのブログでは自己防衛と呼んでいます。防衛によって、刹那的な安心を得ることで大元の不安を隠そうとするわけですね。

けれども、不安を一瞬覆い隠すだけのことなので、分離からくる不安がなくなることはありません。

ではどうしたらその不安から逃れることができるのか?自我にとって、真に逃れることはできませんが、方法がないわけではないのです。

一つあるとすると、その不安から逃げないように練習するのです。不安をしっかり見つめて、それが一体どんなものなのかを知るようにするのです。

そうすると不安は無くならないのですが、不思議なことにその不安があっても大丈夫という感覚がやってきてくれるのです。

自我ができるのはそこまでですが、それでもその効果は絶大なものになると思います。その一方で、根本的な方法もあるとしたら…。

それは、やはり自己の本質に気づくことですね。個人という自我は一つの思い込みだと見極めて、自己の本質から自我を見ることができれば、そこにはどんな不安もないと気づくことになるのでしょうね。

遊び心を思い出す

「遊び心」の対義語は何でしょう?ピッタリ嵌るかどうかはわかりませんが、意味合いとしては「深刻さ」だと思っています。

遊び心満載で生きている人に、深刻さは似合わないですよね。どちらの人がエネルギー的に気持ち良いかも、明確だと言ってもいいと思います。

深刻になっていると、ワクワクやウキウキも消えて、ドーンと沈んだ気持ちになってしまうことが多いのは誰でも経験しているものです。

社会というのは、遊び心を嫌い、逆に深刻さを歓迎する傾向にあるのです。なぜなら、遊び心の人は決して誰にも支配されないからです。

真面目で融通が効かずに深刻になっている人ほど、社会からしたら好きなように支配することができるのです。

遊び心は何にも統制されることがありません。誰の心の中にも、あのピカピカだった幼い子供が潜んでいます。

その子は死ぬまで消えることがないし、あの遊び心は必ずそのままの状態で温存されているのです。

それなのに、深刻さがそれを危険因子だと決めつけて、社会に迎合させようとして抑え込んでしまったのです。

もう一度、遊び心を持ったその子のことを思い出して、光のなかへと連れ出してあげられるといいですね。

過去と未来をシャットアウト

このブログに何度も登場する私の母親のことですが、短期記憶の能力が明らかに落ちてきてしまっていて、デイサービスから戻ってきた瞬間に、どこに行っていたのかを忘れます。

それだけならまだいいのですが、今日は踊りから帰ってきたようなことを言うのです。30年以上前に日本舞踊を習っていたことがあったので、その時の記憶のようなのです。

一つひとつ丁寧に記憶の問題だと言うことを説明するのですが、最終的には互いにどうでもいいことにしようで終わらせるのです。

今日を無事生きるのに必要な物理的な全てが揃っていることを伝えて、できるだけ安心してもらうようにするのですが、それもすぐに忘れるのです。

ふと、自分がその年齢になったときに同じような状態になる可能性が高いと思い、自分だったらどのようになるのかを想像してみたのです。

あくまでも想像なので本当のところは分かりませんが、きっと自分の短期記憶が曖昧になった時点で、過去と未来をシャットアウトするはず。

思い出そうとすれば、苦しむだけだと分かっているし、過去と未来へ想いを馳せることをしないような生き方を練習してきているからです。

母親には、考えても解決しないことは考えるのをやめてしまおうと伝えています。本人もそうだねと言うものの、またすぐに過去のことを思い出そうとするのです。

長年の生き方のクセが取れない限り、この状態は続いてしまうのかもしれません。それは助けてあげられないのが、何とも歯がゆい限り。

でも仕方のないことですね。高齢になれば誰にでも起きうることなので、記憶力が正常なうちから過去と未来をシャットアウトする練習をしておくことです。

それには、瞑想や意識的に生きることが絶対的に役立つはずです。そしてもう一つ、自分の本質から見る事を練習すればいいのです。そのどれもが記憶を使わずにいられるからです。