距離が消えたとき

小学生の頃、図工の時間があまり得意ではありませんでした。決められた時間内に粘土でお面を作ったり、外に出て写生したりが面倒だったのです。

もちろんそういった制作過程を楽しめる人にとっては、他の教科よりも嬉しい時間なのでしょうけれど、私は逆でした。

画用紙に絵の具を塗っていく作業をしているとき、この画用紙を全部絵の具で塗って、白い部分を無くさなければと思って、うんざりしてたことを覚えています。

そのことが若干のトラウマになっていたのか、大人になってぼーっと外の景色を眺めているときに、ふと思い出すのです。

あれ、どの景色を見ても塗り損ねた白い部分がないなと。随分と熱心にこの景色を塗り込んでいる誰かがいるんだなあと。

もちろん馬鹿馬鹿しい考えなので、ほとんど真に受けることはないのですが、それでもどこかで感心しているのです。

さらにそのままじーっと眺めていると、そのうちに距離感が壊れてきて、全てが本当に絵のように見えてくるのです。

眼球を動かしてしまうと、元の状態に戻ってしまうのですが、しばらくまた動かさずにいると、景色は一枚の絵になるのです。もちろん距離はなし。

ただ眺める自分にとって、距離というのは意味がないのだと分かるのです。そして外側の世界から距離が消えたとき、全体性がやってくるのです。

インナーチャイルドの仕業

心の癒しをするようになって、初めてインナーチャイルドと呼ばれる、不満を抱えた子供時代の自分が内側にいることを知ったのです。

それまでは大人の自分だけが自分として生きていると単純に思い込んでいたので、なるほどと思ったものです。

それで自分のことも他人のことも、腑に落ちることが沢山あるなあと分かるようになったのです。

例えば、夏の時期になると台所などに出没する黒い生き物がいますが、あれを異常に怖がる女性が沢山いますね。

黒い物の名前を直接書かないのも、この文章を読めなくなる人への配慮からです。ただ気持ち悪いくらいならまだしも、殺されるかもくらいの怯えた反応をしてしまうのです。

そうした異常な反応は、本人のインナーチャイルドが怖がっていると考えれば、納得することができるのです。

幼い頃に、親などの家族が怖がっていれば、その恐怖を丸ごと受け継いでしまうのです。逆にその経験が全くなければ、恐れないはずなのです。

北海道出身の人は、幼い頃にそうした経験がないので、大人になってから遭遇してもまず大丈夫なのです。インナーチャイルドが反応しないからですね。

誰であれ、理性では考えられないような言動をしてしまうときには、まず間違いなくインナーチャイルドの仕業だと思えばいいのです。

そのカラクリさえ理解してしまえば、無闇に自己否定することもなくなるし、他人を白い目で見て、安易に否定することもなくなるはずですね。

思い込みを外して素直に見る

自分以外の人がどのように感じているのかは分かりませんが、私の場合は自分は頭の中心あたりにいて、二つの目を通して外を見ていると感じるのです。

その感覚は自我のものですね。個人として生きている自我としては、それが一番都合の良い解釈だからです。

その一方で、自分本体が本当のところどこにいるのかは、やっぱり皆目分からないままなのです。

その自己矛盾をそのままにして生きているわけですが、それを解決してくれた本があったのです。

その本によると、私が頭の中心と思っていた場所を、どんな先入観もなしにしっかり見るようにと、促してくれたのです。

そこで見えたものとは、その場所には頭どころか私などの片鱗もない、全くの透明で形のない、いわゆる無が広がっていたのです。

しかもその何もなさの中には、自分の前方に広がっていると思い込んでいたものが、入っていたのです。

つまり、自我が自分の外側に広がっているように見ていたこの世界が、そのまますっぽりと頭の部分の中に包含されていたということです。

思い込みを全て一旦外した状態で、素直な気持ちでこの実験を繰り返してみれば、きっと誰もが同じような体験をするはずです。

マインドの中の様々な年齢の自分

夕飯前に時間がある時には、大抵母親の足をマッサージしているのですが、そのとき暇なので色々な質問をして遊んでいます。以下が今日のやりとりです。

私:お母さんは何歳になったんだっけ?

母:私?え〜と…、72歳?

私:息子が60代なのに?

母:ああそうか、でも90歳にはなってないよね?

私:なってるよ、それで何歳?

母:92歳かな?

私:正解

母:92歳とはねぇ、それじゃあ色々ガタがくるはずだね

私:あっという間に92歳になった感じ?

母:あっという間だね

こんな調子で毎日のように戯れているのですが、母親は70代の気分でいるようなのです。きっと最近の20年間くらいがぶっ飛んでいるのでしょうね。

年齢というのは確かに、自分の自覚とはかけ離れてしまっているもので、私も自分の中に19歳くらいの自分がしっかり残っています。

結局実年齢とは全く異なる年齢の自覚がマインドにはあるということですね。本当は、これまで生きていた全ての年齢の自分がいるのです。

それを見てあげるのも楽しいものですね。

自分自身は何処にもいない

私たちは、自分の肉体が何処にあるのかは分かっていますが、自分自身がどこにいるのかを知っている人はいません。

もしも知っていると言い張る人がいたら、その人は自分は自分の肉体の中あるいはその周辺にいるに違いないと信じている人です。

肉体から離れて、途方もない場所にいるなんて考えるのは、頭がおかしい人だということです。それは勿論そうですね。

けれども、その考え方というのはあくまでも自分という存在は個人だという思い込みの上にあるものです。

もしもそんなことを一切忘れて、さらに身体の中にいるという感覚も傍に置いてしまったら、やっぱり自分がどこにいるのかなんて分からないのです。

実はそれが真実であり、そのことを誰もが本当は知っているのです。自分の肉体以外の自分を見た人はいないのです。

自分の本質が全体性であるなら、それは場所というものがないので、どこにも見つけられないか、全部だということになるからです。

だからこそ、繰り返しになりますが、自分自身がどこにいるのかを知ることは元々不可能だったということですね。

この事実は、夢の中の自分がその夢をベッドの中で見ている自分を、夢の中に見つけられないのと似ています。

本当の自分はその夢の外側にいるからですね。ということは、私たちの本質も、この世界、この宇宙の外側に在るということになりそうですね。

思考と感情の関係性

思考と感情が違うものだということは、きっと多くの人がしっかり理解できていることだと思いますが、両者の関係はどうなっているのかという点については、もしかしたら曖昧かもしれません。

まずは、感情の多くは思考によって生み出されるということがあります。ただ理由もなく感情が作られることは、ゼロとは言えないにしてもごく少ないのです。

大抵の場合は、思考が働いて起きていることを判断し、そこから必要となる感情がやってくるのです。

例えば惨めだという思考は、悲しみを作り出します。自分は阻害されていると判断すれば、寂しさがやってくるという具合です。

だから思考は感情の生みの親と言ってもいいかもしれません。その一方で、実は思考は感情を味わうことを妨害する働きも持っています。

感情を純粋に味わうためには、思考がなければないほど良いのです。もしもあなたが、起きたことをああでもないこうでもないと思い出しながら、その時の感情を味わうのであれば、非常に効率が悪くなると知っておくべきです。

また思考によって、様々な理屈を使うことで、感情を抑圧するということもあります。命の恩人にセクハラされても、怒りが出ないなどはそういうことですね。

辛い感情から遠ざかろうとして、あらゆる思考をぐるぐる回転させて、考えが止まらなくなってしまうこともあるのです。

思考はマインドのものであり、感情はハートで感じるものです。両者のバランスがしっかり取れていることも大切なことなのですね。

自然→健康、不自然→不健康

もしもあなたの人生が、なんだかとても生きづらいなあと感じているのでしたら、それにはれっきとした原因があるのです。

よくわからない身体の病気や物理的な身体の不具合、そして鬱々とした感覚、晴々とした清々しい気持ちで生きたことがない。

こうした不健康さにはちゃんとした原因があるのです。それを一口で表現すると、不自然な生き方、不自然な考え方でやってきたからなのです。

それはきっと幼い頃からもうすでに始まっていて、本人としてはその自覚があまりないのです。自覚がないことは止めることは無理なのです。

自然であれば健康という結果がやってきて、不自然であれば不健康という結末がやってくるのです。

これほどシンプルで当たり前のこともありません。不自然な毎日を自然なものへと戻していくためには、次のことが必要です。

なるべく思考を使わずに、できるだけシンプルな生き方を心がけること。それは、したいことをして、したくないことはしない。

会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。言いたいことを言い、言いたくないことは言わない。こんな当たり前のことがきっとできていなかったのです。

そしてもう一つは、正しさに拘ってきたことに気づき、それを止めること。正しさよりも気持ちよさを優先する生き方に変えること。

さあ、今日から不自然な毎日をより自然なものに変えていくように生きていくことにしましょう!

2つの真逆な感覚

全体性という言葉を使うようになって、すでに10年は経っていると思うのですが、その感覚はもっと以前からあったものです。

というのも自我(個人)が目覚める以前の幼児期には、誰であれ全体性の感覚だけで生きていたからです。

それをうっすら覚えているか、あるいはすっかり忘れてしまったかの違いでしかないのです。要するに程度の差だけなのです。

ただ今の私にとってはとてもとても大切な感覚として戻りつつあるのです。それは「遍在」している感覚とも言えるのです。

一方で私たちは個人として存在していると信じているので、「偏在」しているという感覚があるのです。これは個別性(局所的)という意味です。

つまり字は似ているのですが、両者は全く真逆の意味を持っています。だからこそ不思議なのですね。

この両者の違いをもう少し具体的に表現するなら、個人(人間)としての私は、この小さな身体の内側にいるのです。

その外側に出ることは許されず、閉じ込められた状態であり、外側には広大な宇宙が広がっているという感覚。

一方の全体性(遍在)は、こちらから見える世界は奥行きがなく、代わりに内側が無限に広くて、実は自己の中に宇宙が包含されている感覚。

本当にどこをとっても真逆なのです。それが私の中で両立しているのだから不思議なことです。

残念ながら普段は個人側で生きてしまっているので、もっともっと遍在側で生きられるように練習する必要があるということですね。

あなたの本質は動けない

久しぶりにクルマを洗ってあげようと思いたって、少しでも楽をしようと考えて自動洗車機を使うことにしたのです。

この時期、外で待つのはしんどいなと思って洗車されてる間クルマの中で待つことにしたのです。

猛烈な勢いで水や洗浄水などが噴射される様を、内側から見ていられるのもちょっとした魅力だったからです。

もちろんクルマはずっと停車したままの状態でいて、周囲を取り囲んでいる洗車の機械が前方からゆっくり後方へと移動するのです。

その時に、クルマがゆっくりと前へ進んでいるとしか感じられない状態になったのです。何となくそんな気がするというレベルではなく、完全に自分が動いているとしか思えない。

一瞬、停止しているはずのクルマが動いて前方の壁にぶつかるのではないかと心配したほどです。

ああ、錯覚だと理解したのですが、まさかバックに進む感じはしないだろうと思っていたら、機械が後方から前方に移動してきた時には、やはりクルマがバックしているように感じたのです。

それもものすごくリアルに。周囲が動いていて、クルマは停止しているのに、その真逆に感じてしまうという錯覚が起きたということですね。

だとしたら、普段クルマを運転している時、自分が動いていて周囲の土地は不動だと思い込んでいるだけかもしれないのです。

実は自分は不動であって、周囲が移動していると。自分の本質が純粋な意識であれば、それは大きさも位置もないので移動するという概念が当てはまりません。

であれば、真実はあなたの周囲だけが動くということです。もしくは全体性というあなたの本質はあらゆるところに遍在しているということ。

やはり動きようがないのですね。

人生のしつこいパターン

もしもあなたが、幼い頃に両親や家族から何かと世話を焼いてもらっていたとしたら、大人になっても世話を焼いてくれる人が現れるはずです。

もしもあなたが、高圧的で正しさを押し付けるような両親に育てられたとしたら、学校であれ職場であれ、必ずや高圧的な先生や先輩、上司に出会うことになるのです。

もしもあなたが、非常に身勝手な親に育てられたなら、大人になっても身勝手極まりない人と縁ができるのです。

もしもあなたが、理不尽だなと感じてしまう家族に育てられたなら、それ以降の人生で何度でも理不尽な人たちに遭遇してしまうはずです。

このような繰り返しを人生のパターンと呼んでいます。そしてこういった不思議な出来事というのは、決して偶然ではないのです。

幼い頃に経験した人間関係は、それを癒さない限りはその後の人生の至る所で繰り返される運命になってしまうのです。

理由は非常に簡単。経験したエネルギーがそれと同じものを再び呼び寄せるからです。こうしたことは、大なり小なり誰でも身に覚えがあるはずですね。

この永久ループから抜け出したいのなら、最も初期の経験をしっかり見直して、その時の思いや感情を味わってあげることです。

自分1人では難しいと感じるのでしたら、プロのセッションを受けることをお勧めします。