体験せずとも理解できる

社会の中で生きていくためには、知識を蓄えることはとても必要なことですが、ただ知識というのは誰か他の人から聞いた情報でしかありません。

地球は丸いという情報は知っていても、普段は地面は平らだと感じているので、それを身を持って知ることはできません。

飛行機に乗って高度1万メートルくらいから地球を見れば、ある程度は確かに丸いかもと分かるのです。

一番いいのは宇宙旅行に出かけて、大気圏外から地球を見ることができれば、知識ではなく実体験として「丸い」が分かるのです。

体験することこそが、知識を超える唯一の方法だと思っても不思議ではありません。だとすると、生きている間にどれだけの体験を積めるかが重要になってきます。

けれども一生のうちに体験できることなど、たかが知れています。人類全体の体験が丸ごと自分の中に入ってきてくれるならいいのですが、そうはいきません。

となると、体験していなくとも自分のこれまでの体験などを使って、類推することができたらいいわけです。

たとえば、このブログで何度もお伝えしている、「自我は何を手に入れても満たされない」ということを知識としては知っていたとします。

でも本当の理解に至るには、自分で実体験するしかないのだとしたら、あらゆることを手に入れることは不可能なので、結局限られた人生という時間の中での理解も不可能ということになります。

でも賢い人であれば、何度かそれを体験することで推論することはできるのです。これまで繰り返し欲しいものを手にしてきたのに、思っていたような満足は得られなかった。

であれば、この先何を手に入れたとしても結局同じなのではないか、このような推論ができれば体験せずとも理解に至ることができるのです。

そしてさらに言うと、この推論を後押ししてくれるのがマインドについての理解です。マインドの仕組みを深く理解すれば、推論がより容易になるのです。

マインドの仕組みとして、真に満たされたならマインドはもたないということを深く理解することで、違った角度から体験なしの理解を得ることが可能なのですね。

どんな自分でも消えることはない

これはクライアントさんあるあるなのですが、癒しが進んでくるともう私は大丈夫、以前と同じ轍は踏まないと思うのです。

ところが、実は条件さえ整えばまたかつての自分が顔を出すことはいくらでもあるのです。

たとえば、もう平気だろうと思って久しぶりにあの辛い記憶のある実家に帰省してみるのです。そうすると場合によっては半日ももたない。

その理由は、あの頃辛い思いをして生きていたあの当時の自分が、実家のエネルギーや家族と対面することで、活性化してしまうからです。

そうなると、大人の自分は過去の自分の気持ちや感情に呑み込まれてしまうため、どうしようもなくなって、ほうほうの体で帰ってくることになるのです。

癒しが進んだからといって、かつての自分が消えてなくなってしまうわけではないということです。

それは確かに小さくなってはくれるのですが、確実に残っているのです。それを知らないでいると、なんだ癒しが進んでなかったと勘違いしてしまうことになるのです。

どんな自分でも消えてなくなるということはありません。顔を出さなくなったとしても、マインドの奥でひっそりと小さくなっているだけなのです。

癒されてくると、過去の自分を使わなくなっていくというだけなのだと理解することですね。

そしていつもマインドの中にいるあらゆる過去の自分の存在に気づいていてあげることが大事ですね。

ネット詐欺にご注意

連休最後の日をのんびりと過ごせるかなと思っていたところ、何とスマホのパスワードを盗まれて、変更されてしまうということが起きました。

ひょんなことからネット上で ID とパスワードを入力させられたところ、それを盗まれてしまったようなのです。注意が足りなかったですね。

パスワードを変更されてしまうと、もうこちらとしてはID やパスワードの変更もできなくなってしまうわけで…。

おまけにその ID はクレジットカードに紐付けされているので、犯人たちにいいようにカードを利用されてしまう可能性があるのです。

そんなこんなで、とんでもない状態に追い込まれてあれやこれやと対処している途中なのですが、不思議なことに怒りが湧いてこないのです。

ものすご〜く嫌な気持ちではあるのですが、犯人たちへの怒りがまだ湧いてこないのです。顔が見えないからなのか、あるいは何か別の理由があるのか。

やれることは一通りやって、あとはスマホの会社からの連絡待ちなのですが、自分を取り巻くエネルギーがあまりいい状態ではない感じがしますね。

こういう時こそ、深い瞑想の助けを借りようと思っています。そして、なんであれ、起きることは夢のようなもの。

それを見ている自分だけが実在であるということを、再確認している今です。皆さんも、こうしたネット詐欺には十分にご注意くださいね。

熱病的なマインド

私たちのマインド(自我)というのは、絶え間なく何かに従事していたいという欲望を持っています。

そんなことはない、休暇が取れたらリゾートに行ってバカンスを楽しみたいと思っているのだから、という人もいますね。

けれども、リゾートに1ヶ月いたらどうなるでしょうか?いずれは途方に暮れるマインドが表面化してくるのです。

何にもしない、沈黙でいる、といった自我にとってはどうしていいか分からないような状態というのは、長く続けることはできないのです。

嘘だと思ったら、お休みの日を一日中瞑想に当ててみればいいのです。イメージしただけで無理だと分かるはず。

マインドというのは、絶え間なく行動的であることを求めているし、それはオリジナルの自分からの逃避に他なりません。

極悪人を狭くて暗い独房に入れるのは、それがマインドにとって最も辛いことだからです。それが重い罰だと知っているのです。

何もすることがないくらいなら、地獄に行って悪者退治したり、理不尽な目に遭ってそれと戦っている方が充実しているのです。

自分のマインドの中にそうした熱病的な部分がでっかくあることを知ることです。ここをしっかり理解できれば、少しずつその部分から離れていくことができるのです。

息を吐いている状態

自我というのは常に不安を抱えているものなのですが、その不安を強く感じるか、少しだけ感じるかは人によって様々なのです。

もしもあなたが不安感によって面倒なことになっているなという自覚があるのでしたら、根本的な治癒ではないにせよ、呼吸に意識を向けることをお勧めします。

私自身もかつて、何となく緊張気味に生活していたという自覚があって、なんとかして平常心を保っていられるようになりたいという思いがありました。

そこで編み出した方法は、やはり呼吸だったのです。呼吸はとても重要なファクターなのだということに気づいたことがあったのです。

高校生の頃なのですが、毎晩寝床に着くと自分の脈拍を感じていたのですが、その鼓動のスピードが呼吸によって変化するということに気づいたのです。

今から思うと、若干心臓肥大気味だったからと思うのですが、それにしても鼓動のスピードを自分である程度コントロールできることに気づき、ちょっと嬉しかったのです。

そのおかげでいつも呼吸に意識を向けていられるようになったのでしょうね。そして、息を吐いている間は鼓動がゆっくりになるということを知りました。

つまりは呼吸を吐いている間、もしくは吐いた状態で止めている間は、リラックスしてより平常心でいられるということです。

そして現在でも気がつくと、吐いた状態で止まっているなということが分かるのです。生理的な現象なので、万人向きかどうかは分からないのですが、興味があったら是非試して見てください。

落ち着きたかったら、鼻から静かに息を吐くのです。そして、吐いた状態でしばらくそのままにしてみることをお勧めします。

引き裂かれたマインド

うつ症状が起きると、いつもは普通にできていたことがとても億劫に感じたりしてできなくなってしまうものです。

つまりは、意欲を削がれてしまう感じになるのでしょうね。その理由は非常にシンプルで、意欲が戻ってしまうとまたあの過酷な生き方をし出すと分かっているからです。

そもそもなぜうつ症状を起こすかといえば、それまでの生き方ではもうどうにも立ち行かない、もう無理だと叫んでいるマインドがいるからです。

それは突然やってきたようにも思えますが、実はずっと長い間かけて少しずつ「嫌だ」を蓄積してきた結果でしかないのです。

自分を守って安心させたいが強すぎて、どんな自己犠牲も厭わずに頑張ってきてしまったツケがまとめてやってきたのが、うつ症状なのです。

だからそれは自己治癒力が発動したと解釈すればいいのですが、それがまた難しいのです。

なぜならこれまでの生き方を先導してきた自分にとっては、意欲を削がれて何もできない自分など、どうにも価値がなさ過ぎて受け入れ難いからです。

身体も心も動かないような状態になっているにもかかわらず、ほんの少しだけ残っている「何とかしなければ」で焦り、悶え苦しむのです。

このどっちつかずの状態が一番の地獄かもしれません。頑張ろうとする自分と、もう何もさせたくない自分との間の綱引き状態で、マインドは引き裂かれた状態になるからですね。

うつ症状が起きたら、最も大切なことはこうしたマインドの有り様をしっかりと理解してあげること。

この引き裂かれたマインドをど真ん中から、ゆっくりと静観してあげることです。しばらくそれをしても決して死にはしないのですから。

そうしているうちに、これまで気づけなかったどちらでもない自分というものを発見するようになって、引き裂かれ状態は緩和していくはずですね。

目を閉じている時間

私たちの知覚の中で、一番多くの情報を担っているのは視覚だと言われていますが、きっとその通りなのでしょう。

だからいつも目を開いて周囲を見回しながら生活しているのです。そうなると、自然と見ている対象物に注意が向いてしまうのです。

これが意識的であることをすぐに忘れてしまう、大きな要因なのではないかと思っています。

ということは、意識的であり続けるためには目を閉じていることが有効だということになりますね。

実際、私自身はいつの頃からなのかは忘れましたが、日頃よく目を閉じている自覚があります。前を見る必要がない時には、大抵目を閉じている感じです。

皆さんの毎日のごく普通の生活の中で、目を閉じている時間がどれほどあるのか検証したことはあるでしょうか?

検証するまでもなく、とても少ないのではないかと思います。なんなら、夜ベッドに入って寝る時以外は目を閉じることはないという人もいるはずです。

何かを見る必要がある時以外は、目を閉じている練習をしてみるといいと思います。目を閉じただけで、内的世界を感じていられるようになるからです。

外側からの情報を遮断して、内側に耳を澄ます練習です。瞑想をしようと決意するのではなく、もっと自然に目を閉じている時間を増やすだけ。

目を閉じて何するでもなく、ただそうしてそこにいるだけでいいのです。この無意味さが今この瞬間にいられるカギなのかもしれません。

慣れてきたらきっと気に入っていただけると思いますので、是非試してみてください。

現在に根ざして生きる

これまでも何度もこのブログで書いてきたことですが、世の中の不幸には二つの種類があるということ。

その一つは、望むものが手に入らなかった時の不幸。そして二つ目は、望むものが手に入ったのに満たされなかったと気づいた時の不幸。

どちらの不幸が決定的かは明らかですね。前者は手に入れることができたなら、きっと幸福になれたはずという希望を持っていられます。

それに対して、後者の方はもうそんな望みを持っていられなくなるのですから、それは本当に辛いのです。

けれども、多くの場合私たちは、別の望みをすぐさま作り出して今度こそは手に入れたなら絶対幸せになれるはずと思い込むのです。

そうやって、何度も何度も繰り返し望みを捨てずに生きていこうとするのです。それこそが多くの人々がやってきたことです。

未来を持っていないと自我は生きていけないからですね。でも外側から入手するものでは決して満足できないということを真正面から認めることです。

そうなったら生きるエネルギーをより現在へと向けることができるようになるはずです。そして現在の不満の正体を見れるようになるのです。

その不満は自我が根本的に持っているもので、それがなくなってしまうと自我は崩壊してしまうのです。

そんな自我に従って生き続けるのか、あるいはその自我を見守りつつ現在に根ざして生きるのか、しっかり見極めることだと思います。 

自我の非活性化

動物の世界にも群れがあったり、たとえばサルの世界にはボスザルがいたりと、それなりの秩序が保たれているようですね。

それが高度に発展したものが私たちの社会です。なぜ人間だけがこのような社会を作り出したかというと、人間だけが自我を持つようになったからです。

つまり、社会というのは自我の都合の良いように作られたものだと言えます。その結果として、社会にとって都合の良い自我を社会が優遇するということが起きました。

だから誰しも社会から認められるように頑張らなければならなくなったのです。社会に順応して、社会の中で生きていくことが必須だからです。

ただそのようにすればするほど、自我は強くなっていくのも事実ですね。自我と社会はそのような関係性にあるからです。

ということは、もしもあなたが自我の力を弱めたいと願うのなら、非社会的に過ごす時間を増やしていく必要があるということですね。

間違っても反社会的であることと混同しないように。社会的と反社会的というのは極端に聞こえるかもしれませんが、ある種同列なのです。

非社会的というのは、たとえば社会からしたらどんな価値も生み出さないこととか、なんの意味もないようなこと。

瞑想などはそうですね。あるいは、身体をブラブラ揺さぶりながら奇声を上げて、部屋の中を歩き回るなどは非社会的な言動と言えます。

そうした時間というのは、確実に自我は非活性化している状態になるので、時間が許す時にはそうしたバカバカしい無意味な言動をしてみるのもいいかもしれませんね。

できることの価値

できなかったことができるようになると、とても嬉しいものですね。特に子供の頃は、大人たちに囲まれているのでそれを強く感じるものです。

自分だけができないと思うととても惨めなので、それができるようになった時には、惨めさから解放されるのでとても誇らしい気持ちになるのです。

それが高じると、できないことは悪でできることが善みたいな感覚も育ってしまい、大人になってもそれが人生の目標のようになったりもします。

できる自分は凄いと言ったことです。できる自分こそ価値があるという感覚ですが、それを存在価値の代わりにしてしまうのだとすると、危険な匂いがします。

ところで、歳を重ねていくにつれてこれと反対のことが起きて来るようになるのです。つまりこれまで普通にできていたことが、できなくなるのです。

誇らしい気持ちの反対に、なんだかすごく悲しい気持ちになることもあるでしょう。高齢者になれば、当然体力も落ちてくるし頭の回転も遅くなるので仕方のないことです。

ここで気づいた方がいいのは、できることに価値を置けばそれだけ、できなくなったことのショックが大きくなるという事実です。

できてもできなくても、自分の存在価値とは無関係だという感覚が育っていることがとても大切なことだなと思うのです。