目的地に到達しなくても問題ない

A地点からB地点へ向かう旅の間を道中なんていう言葉で表現しますね。これは、プロセスと表現することもできます。

人生も同じようなものです。幼い子供から成熟した大人へと成長していくわけです。人生は成長のプロセスです。

このレベルであると、誰もが何もせずともそのプロセスを通過して大人になることができます。ここには、ほとんど価値を見出せません。

だからこそ、私たちはそれとは別の独自の目標を設定するのです。そしてそれに向かってまん進するのです。

そうなると、プロセスそのものよりもその目標を思い通りにクリアできるかどうかに価値を見出そうとします。

すると、到達することだけに価値があり、プロセスにはあまり価値を感じなくなってしまいます。逆にまだまだだなあといった印象すら感じるのです。

そして今この瞬間がおざなりになってしまうわけです。今を未来のために犠牲にしてしまうようになるわけです。

思い当たる面があるなという場合には、是非一度立ち止まって今だけが唯一のリアルであり、それはプロセスなんだと気づくことですね。

旅の道中が充実して楽しければ、目的地などもうどうでもいいという気持ちになるはずですね。つまり、目的地に到達しなくても問題ないということです。

ただ起きることが起きるだけ

愛車のガソリンが減ってきてしまったので、今日は給油をしようと思っていつものガソリンスタンドに行ったのですが。

スタンドの脇にあるガソリン価格の数字に目を疑ってしまいました。つい数日前まで160円/Lくらいだったものが、200円/L近くになっているじゃないですか。

いくらなんでもアメリカのイラン攻撃から、まだそれほど経っていないのにこれは絶対におかしいなと。

数ヵ月分くらいは必ず備蓄しているはずなのに。誰かがどこかで儲けようとしているのは明々白々なのです。

そうして今度は、便乗値上げが始まるわけです。石油の価格があらゆるものの価格にあっという間に影響を及ぼすのです。

この30年いったい政府は何をしていたのでしょうか?中国なんて、反対側のブラジルとかからも石油を輸入しているというのに。

国をあげてリスク回避をしておかなければならないはずなんですけどね。ツケが回ってくるのは、いつも末端の国民なわけです。

つい1ヵ月前までは電気自動車に乗っていたので、ガソリン価格には無頓着でいられたのですが、ガソリン車に変えた途端にこんなことに。

非常に意地悪だなあと。けれども、思い直してこれもまた受け止めようと。ただ起きることが起きるだけですからね。

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自分はいるけど個人ではない

非二元の探究は一旦終わった感じなのですが、いい具合に日々なんとなく思い出したり、自分なりの簡単なワークをやったりしています。

時間があるときには、瞑想をしっかりやらねばと思って自分に重圧をかけていた頃を思うと、だいぶ呑気な毎日になっています。

非二元のいいところは、普段の生活の中で工夫することで何も特別なことがなくても、それなりにワークができるところです。

頑張ってみたり、もっとこうならなければならないとか、今よりももうちょっと精神を落ち着かせなければ、等々が不要なのです。

というよりも、そういった普通とは違う自分を作り出そうとすること自体が、非二元から遠ざかってしまうのです。

今の感覚を試しに言葉にしてみると、自分はいるけれど個人ではないという感じ。これは気づきそのものだったんだなと。

これは朗報ですね。何も変える必要もないし、何もダメではないし、気づいている感覚がなくなることはないんだなと。

記憶を使わないことが普通になって、過去がないのだからそれは当然のことだし、今と全面的に関わっているこの感じがいいですね。

全ては意識の中に現れる現象

いくつかの条件が揃うと、誰でも知っている虹が空に現れますね。けれども、虹というなんらかの実体が存在するわけではありません。

雨が降って止んだ後に、空気中に水の微粒子が残っていて、それに太陽の光が当たることで起きるのです。

このような場合、私たちは「現象」という言葉を使います。虹という現象が空に現れているという具合です。

非二元の話をするときにも、この現象という言葉を良く使います。なぜなら、私たちが見たり聞いたり感じたりすることも現象だからです。

一般的には、そこに何かが存在するから見えるし、聞こえるし、触れられるし、感じることができると考えられています。

ところが、正直に検証することを通してそれが間違いだったと分かるのです。あらゆる感覚が現象として現れているに過ぎないのですね。

見たり聞いたり触れたりする対象は存在しないのです。虹が見えても虹という対象がないのと全く同じなのです。

全ては意識の中に現れる現象に過ぎないということですね。その現象の中には、この宇宙も地球も、この私も含まれているということです。

距離を感じることができない景色

最近7年以上乗っていた電気自動車を売却して、コテコテのエンジン車を購入したのです。これで、充電のことを気にせずに乗れることに。

ということで距離のことを考えずに遠出ができるようになったのですね。それで久々に近隣の県まで足を伸ばしたのです。

普段はあまり目にすることもないような景色を目の前にして、おお!となるかと思いきや、アレっとなってしまいました。

というのも、そういった美しい景色を見ても、それが平面の絵のように感じてしまうのです。その景色と自分との間に距離を感じないのです。

良く言えば非二元の感覚が定着してきたとも考えられるけれど、悪く言えば感動がほとんどないような感じです。

でももしかすると、子供の頃に本当はこれを感じていたのかもしれません。でも大人に言えずにいたのかも。

そのうちには、他のみんなと同じように眼前に広がる景色に深い奥行きを感じるようになっていったのかなと。

生活圏のものは、歩いてそこまで行ったり、触れたりすることで自ずと距離感を測っていたりするのでしょうね。

一方で対象物まで歩いて行けないほどの景色のところだと、距離感を作り出すことが難しいので、映像のように見えてしまうのかもしれないですね。

それが最も顕著なのが星かも。星を見ていても、全く距離を感じないですよね。あれは生活圏の体験が皆無だからです。 

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エネルギーも次元もない

非二元のモードに入っていくと、普段の生活とは全く異なる世界が見えてきます。それを世界と呼んでいいのかも分からないのですが…。

たとえば、エネルギーという言葉を多用してきた記憶があるのですが、それが使えなくなってしまうのですね。

あるいは、次元という言葉があります。エネルギーと同様にとても便利な言葉ですが、そんなものはないと気づいてしまうのです。

スピリチュアルでは、次元上昇とか次元が高い低いといったことがかなり重要なこととして説明されますね。

それはそれで何も問題ないし、私自身かなり納得できるのです。けれども、一度非二元に入ってしまえば、それも消えていくのです。

エネルギーも次元も便利な概念に過ぎなかったと分かるのです。こうしたことが無理なく、とても自然に気づくのです。

だからそういった言葉を非二元の説明の中に混ぜられてしまうと、おやッとなってしまうのです。

ただ、ここで書いていることも、実はこのような体験が起きているように見えるだけなんです。結局最後はそこに収束してしまいますね。

意識はあらゆる場所を成立させている土台

昨日のブログでは、自分の居場所なんてない、ということをお話ししました。実は、かなり回りくどい説明をしたのです。

本当はもっとシンプルなことなのです。目を閉じて静かにしていると、自分がどこかにいるというのが概念でしかないと分かるのです。

これはただただ繰り返し練習して慣れていくしかないのかもしれません。そして、そのままの状態で静かに目を開けるのです。

すると、視覚体験が復活するのですが、そこで自分はここにいるという感覚もやってくるのですが、それと同時にやはりそれは概念でしかないことに気づいていられるのです。

この体感を得られたことは、この人生の中でかなり大きなことのように思います。例えるなら、スクリーンに映っている映像を思い出してください。

その映像には、どこかの街が映されてるかもしれないし、誰かの部屋の中やあらゆる場所が映されるのです。

ところが、どんな場所が映されたとしてもスクリーンには場所という概念がありません。スクリーンという意識場が、あらゆる場所を成立させている土台だと気づけばいいのです。

だから、自分という意識の居場所なんてあるわけないというのも納得できますね。

自分の居場所などない

私たちは、いつも自分の目の前に広がっている景色によって、自分が今どこにいるのかを決定しています。

部屋の景色が見えれば、部屋の中にいると思うし、オフィスの景色が見えるならオフィスに今いると思うのです。

こうした習慣がしっかりついてしまっているので、今起きている視覚体験と自分の居場所を直結させていることにも気づかないくらい自然なのです。

ところが、できる限り正直ベースで見直してみると、実はそんなことはないということに気づくことになるかもしれません。

シンプルに考えて、今この瞬間に起きている視覚体験は、ただそれが起きているだけであって、それと自分の居場所は連動しないのです。

こうしたことの思考実験をしているうちに、そもそも自分の居場所って何だろう?というところに来てしまいます。

視覚体験、聴覚体験、体感覚体験、思考体験、あらゆる体験が同時に起きているように見えるのです。

そのことと、自分がどこにいるかということは全く無関係のはずです。そして、結局自分の居場所というのは概念でしかなかったということに気づくのですね。

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これは、何かが存在する世界ではない

昨日のブログでは、「存在とはイメージに過ぎない」という結論に至ってしまったということについて書きました。

これは普通の感覚では、とてもじゃないけれどどうやったって信じることなどできるわけがない。これが一般的な反応でしょう。

それは百も承知しているのですが、それでも突然こうした結論に達したわけではなく、探究による自然な流れの帰結なのです。

だから誰にも信じてもらえなくても構わないのです。これはもうどうしようもないことで、もう二度と元には戻れません。

あらゆる存在がイメージでしかなかったというのを具体的に言えば、宇宙という存在はなかった、地球という存在はなかったということ。

時間や空間は存在していなかった、私たち人間も存在していなかったということになってしまうのです。

これは何かが存在する世界ではないということです。ちょうど夢と同じ、何かが存在しているように見えるだけの世界。

つまりは現象が現れているだけだったのです。普通の夢は、その夢を見ている誰かが目覚めることで消えてしまいます。

この現象は、それとは真反対に熟睡の中に入っていくと完全に消滅してしまうのです。考えるとこれも不思議ですね。

存在とはイメージに過ぎない

非二元の気づきが最初にやってきたそのきっかけは、「ものには実体がない」というびっくりするような事実でした。

その後、実体がないというのはどういうことかを丁寧に見ていったところ、それは「存在というものがない」という気づきだったのです。

そうなんです、何かが存在するというのはイメージだったのです。これはにわかには理解できなくて当然なのですが、でも本当はそれほど難解なことでもなんでもないのです。

なぜなら、体験あるいは現象だけがある、ということを素直に認めてしまえば、結果としてそうなるからです。

このことをもっと簡単なことで実証することもできます。たとえば、目の前にリンゴが一つあるとします。

そのリンゴの属性として、丸い形、赤い色、重さ、大きさ、匂い、手触りなどを知ることができますね。

けれども、属性というのはそのもの自体ではないのは明白です。ではそのリンゴそのものをどうやったら知ることができるでしょうか?

つまりはそのリンゴの存在のことです。あらゆる属性を剥ぎ取った残りがそのリンゴの存在であるなら、それを知ることは不可能です。

それは存在というものがないからです。まるでそこにリンゴが実体を伴って存在しているようにイメージしているだけだったのですね。