すべては完璧に推移している

「すべては完璧に推移している」という感覚が、ずっと以前から自分の中にあって、それがくるとそうだよなあと心静かになるのです。

けれども、それも束の間、日々の生活に追われているうちにあっという間に、またあの不安定な心の状態へと戻ってしまいます。

この繰り返しがずっと続いていました。今持ってそれに変わりはないのですが、それでも「すべては完璧に推移している」がやってくる時が増えてきたような。

神の意志というのか、宇宙の意志と言えばいいのか分かりませんが、ほんのちっぽけな自分ごときが奮闘努力することの馬鹿馬鹿しさ。

であるなら、ゆっくりと全体さんが物事を進めていく手腕というものを、物陰から見させて貰えばいいのですね。

私たち個人個人に自由意志が与えられているとは言っても、それは限定的なものだろうと思うのです。

放牧されている牛のように、自由気ままに草を食べることができるのですが、あくまでも牧場の枠内ということですから。

そして自分の本当の正体を忘れるという自由までは保証されているのです。そして一度忘れた正体を思い出す自由もあるはず。

でもその自由を行使した人は、残念ながらまだ少ないのですね。

楽しさや嬉しさを優先する

何をするにしても、基本的に私はその「内容」について良いとか悪いということはないと思っています。

勿論人がされて嫌だなと感じるようなことは、しないに越したことはありませんが、それでも良いも悪いも本当はないと思っています。

大切なことは、本人が楽しくやっているかどうか、気持ちよくやれているかどうか、その一点ではないかなと。

つまり主観的なことが何よりも大切なのだと考えているということです。そういうと、社会性に欠けると危惧される可能性があるかも知れません。

けれども、客観性というのはあくまでも個々の人々がその主観の中で楽しさや嬉しさなどを伴うことの次にくるものだと思うのです。

社会性を重んじるあまりに、最初に客観性を優先してしまうから、一番大切な個々人の気持ちが犠牲にされてしまうのです。

どれほど社会的に正しいこととされているとしても、それが個々人の負担になることだったり、そこに楽しさを見出すことができないのであれば、その正しさに意味はないのです。

日々の生活の中で、もっともっと一人ひとりが楽しさや嬉しさ、喜びといった感覚を大切にすることができたら、世の中はもっと居心地の良いものへと変わっていくでしょうね。

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良い気分を保つためのメソッド

自分の気分をなるべくいい状態に保っていたいという気持ちが強くなってから、心がけていることがいくつかあります。

今日はそのことについて、少し書いてみたいと思います。何にもしなくても、気分が常に良いなら何も問題はないのですが、そうは行かないのが人間ですね。

逆に何はなくても、朝起きた時からなんだか気分がよくないなんてこともザラにあるのですから、厄介なものです。

最近気に入ってなるべくやるようにしているのが瞑想です。瞑想をすると、その時々の状態にもよるのですが、一様に数段気分がよくなる気がします。

いい状態ならもっと良くなるし、悪い状態から始めてもそれなりに改善はされるのです。だから、瞑想はもう欠かせないものとなりつつあります。

それと、「お金の心配をしない」ということ。私の場合は、お金がどんどん消費されて激減していってしまうという恐れが常にどこかにあるようで。

それが何かのきっかけで発動してしまうと、気分はガタ落ちしてしまうのです。最近だと、家の解体で、予期していなかった諸々のアクシデントが発生したのです。

それで、もう三度目の見積もりのし直しが発生しました。その時に、お金で解決できることに感謝すると共に、お金の心配はしないというところに持っていくのです。

それで気分が晴れるのです。あるいは、気分的に窮地に追い詰められたような感じになった時には、「これもまた過ぎ去るだろう」をやるのです。

これは思っていた以上に効果てきめんです。そして最後にもう一つ、この自分は真の自己のごく一部であるという感覚を思い出すのです。

そうすると、次第に安心感が広がってきて、気分に関係なくこの感覚は常に忘れずにいたほうがいいなと思い返すのです。

こうしたことを駆使して、できる限り嫌な気分から早々に抜け出すという工夫をするようになったのです。

皆さんも、自分なりの方法を見つけてぜひ試してみて下さい。

善なるもの悪なるもの

次のoshoの言葉は非常に重要なことが記されていると思います。

『真の聖者はけっして罪人には出会わない。たとえ探してみたところで、罪人は見出だせない。それが真の聖者の定義だ。その人は存在にどんな醜いものも見出だせない。その人にとって全存在は変容されており、それに魅了されている。それは信じられないほどに美しい–完全な美しさ、まったき美だ。』

罪人に出会うことができないというのは、罪というものは本質的には存在しないという気づきを体感した人のお話しですね。

醜いものも見出せないということは、美醜が消えてしまったということです。物事の善悪もなくなり、完全に非二元性の世界へと戻った人の話しなのでしょう。

私の自我は、この世の中には善も悪もあるし、罪もあり醜さも当たり前のようにあると信じ込んでいます。

けれども、それとは別のマインドの部分では、確かに真実には善悪も美醜も正不正も何も存在しないということに気づいているのです。

だからなのか、どれほど高尚な内容のお話しであったとしても、どんなに心温まる愛が溢れる内容のお話しであっても、そこに善と悪が出てくると意気消沈してしまうのです。

これからの地球、今後の人類にとってこれ以上大切な内容の話しはないだろうと思っても、善悪に触れられた瞬間、嫌になってしまうのです。

善悪は物語の中でのみ意味をなすものです。もちろん我々は人生という物語りの中で暮らしているので、善悪は重要な概念には違いないのですけどね。

このブログで、一度も触れたことのない内容があるとすると、きっとこれが善であれが悪だと言った事柄なのではないかと。

隣の大国がいずれ日本を植民地化するために、日本の土地を大量に買い漁っていることなどを聞いて憤慨するのです。

あるいは、小さな隣国が人工的に地震を起こす装置を開発していて、それを日本に向けて使って大きな津波を発生させようと企んでいることなどは、やはり極悪非道と感じます。

けれども、そう言ったことも全ては深い深いところで夢だという感覚があって、純粋な意識からは単なる現象が起きているという見方しかないのです。

さあそれで本当にいいのかどうか、まだ私には疑う心の余地が残されているように感じるのですが、みなさんはいかがですか?

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過去より未来に興味あり

歴史が好きという人は多いですよね。私はそういう要素が全くないのです。かつて父親の実家に武田信玄の家臣から始まる家系図があって、ちょっとだけ武田信玄の歴史小説は読みました。

記憶にあるのはそのくらいで、日本の歴史はもちろん世界の歴史についてもほとんど無知を通してきました。

なぜだかわからないのですが、興味を持てないのですから仕方ないですよね。学生の時には、仕方なく試験の時だけ一夜漬けで勉強しましたが、その全てを忘れてしまいました。

今となっては、家系にも興味がなくなって、いわゆる自分のルーツというものへの関心も消えてしまいました。

今仮に、自分の本当の両親は別にいたと聞かされたとしても、驚きはするものの調べようともしないでしょうね。

つまり、過去に興味がないのです。過去への興味で唯一あるのは、今回生まれてからの自分の歴史のみです。

とはいえ、死んだ時に今生での自分の過去を見に行くことができたとしても、本当に行くかどうかは怪しいところです。

その反対に、未来については興味津々です。どんなものが発明されて、どんな住宅に住んで、どんな経済になっているのか等々、知りたいことばかりです。

だから私が死んだ直後にすることは、未来の地球がどうなっているのかを見に行くことです。それは今からちょっと楽しみにしています。

死ぬ時も清々しく

私は生まれた時から今に至るまでずっと、どんな宗教とも縁がありません。ところが、父親が亡くなった時に突然それはやってきました。

父親の実家の宗派を聞き、それに見合ったお坊さんを呼んでもらい、四十九日の法要をやってもらい、3回忌までやりましたね。

それが私が我慢できる限界でした。たまたま父親自身が、生前自分で戒名を作っていたので、それを葬儀屋さんに伝えたら、場合によってはお坊さんが嫌がることもあると。

その瞬間に、ああやっぱり大嫌いな世界だなあと思ったものです。法要の時に、お坊さんがどんな話しをされるのかと思って聞いていましたが、想像通りでした。

お寺のあらゆることが苦手です。代々の偉そうなお墓然り、お坊さんの袈裟や数珠や木魚の音、儀式というのは好きな人がやればいいのです。

興味がない人にとっては、洗脳された人がいかにも自分たちは正しいとばかりに強制してくる厄介なものでしかなく、勘弁して下さいなのです。

お寺、お坊さんの利益のためには今のシステムがとっても必要なのは理解できますが、それに踊らされている人の馬鹿馬鹿しさが透けて見えてしまいます。

故人を偲ぶのにどんなルールも必要ありません。どこへいく必要もないし、どんな格好をする必要もありません。

私が死んだ時には、残された家族たちがやりたいようにやればいいですが、私自身は一切の慣習を望んではいないということを明言しておこうと思っています。

そして今から断言しておきますが、死んだ瞬間にこの世界のことに興味を無くして、あっという間に別次元へと向かうと思います。

一ミリの執着も残さずに、清々しく広がって全体と一つになっていくといいなと思っていますね。

どちらでもなさに憩う

完全なるど真ん中というのは、次元が異なるのかも知れません。そこの一点のみが、二元性から非二元に変わる場所だからです。

心を静かにしばらくじっとしていると、いつも騒がしくしている思考が緩んで来るのが分かります。

そうすると、善なるものも悪なるものも消えて、過去も未来も同時に消えていってくれるのです。それが本当に心地いい。

そのどちらでもない地点にいられる安心感、実際両方とも思考が作り出していただけだったのだということの気づき。

それをただど真ん中と表現しているだけで、結局のところ二元性の世界というのは思考による作り物だったということ。

自我の癖でもあるのですが、自分自身の悪の部分をできるだけ善へと変えていきたいと願っているわけです。

ところが、その悪も善もともに幻想でしかなかったと分かるので、意味のない自己改善というものから解放されるのです。

そうなると、やるべきことがなくなっていくのですが、慣れないうちは困ったことになったと感じるかも知れません。

けれども、ただ楽しめばいいのだと、ただ戯れていればいいだけだと気づくのです。それが本当の意味での救いなのかも知れません。

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ユートピアに棲む方法

ユートピアという言葉で連想する世界ってどんな感じでしょうか?争いごとがなくて、貧困も差別もなく、誰もが幸せに生きられる世界ですかね?

そうだとすると、ユートピアはどこかにあるという場所ではないと気づきます。だってそうですよね、ある場所に行くと誰もが正直になって嘘をついたり、人を騙したりしなくなる。

そんな場所などないのですから。ユートピアとは、場所のことではなくてそこに棲む人々の心の状態にかかっていると言うことです。

もしもあなたが考えたことや感じたことが、他人に筒抜けだとしたらどうでしょう?つまり、隠し事ができない状態です。

隠せないのですから、あるがままでいるしか方法がないのです。それがどれほど、心を安らかな状態にしてくれるか、イメージしてみて下さい。

人はなぜ隠し事をするようになるのかを考えてみると、自分の否定的なところを気付かれて否定されるのが怖い。

あるいは、相手を傷つけたり、落胆させたり。相手の怒りや悲しみを誘発させて、罪悪感を感じてしまうのが怖い。こんなところでしょう。

もしも自分自身でいようと志すなら、こうした恐怖に負けずにいる必要がありますね。そして隠し事をせずにいられたら、あるがままの自分で生きることができるのです。

そういう人が一人でも増えれば、この世界は一歩一歩ユートピアへと近づいていくことになるのでしょう。

もしくは、私たちの深いところでは、他人と互いに繋がり合っているということに気づいて、それを体感することができたなら、その瞬間から隠し事が不可能となるのです。

そうなった人にとっては、その人がどこで暮らそうとその場所が全部ユートピアとなるのでしょうね。

底辺をウロウロする人生

20数年前にこの仕事を始めてまだ間がない頃、とある霊能力者のところでいろいろ学んでいたことがありました。

と言ってもその人とのご縁は数ヶ月で終わってしまったのですが…。その人が言うには、私は1万年くらいまえに地球に来たのだとか。

だから地球では非常に古い魂なんだとか。急にそう言われても、ああそうですかと納得できることでもなかったのですが、だからと言って絶対違うとも言えず。

ただ1万年もの長期に渡り、何度も何度も生まれ変わってきたとしたら、ちょっと考えれば相当に学べているはずですが。

ところが少しも人格者になってはいないですし、宇宙の真理に近づいたという気配もありません。この世界の底辺あたりをウロウロしている感じです。

ところが、この底辺をウロウロしていると言うことに関して、これまでとちょっと違った見方をするようになったのです。

それはどう言うことかというと、この世界の支配層の人々というのは、私が思うにきっと悪のエネルギーによって洗脳されてきたのではないかと。

権力を持ってしまうと人間は欲深くなり、人を不当に支配したり、自分に都合のいいように他人を搾取したりを繰り返してきた歴史があります。

でも本当に権力を持つと、そう言うことをしたくなるものなのかどうか。そういう立場になったことがないので、想像でしか言えないのですが。

私が権力を持っても、人を支配したくはならないだろうと容易に想像できるのです。それは他の人も同じなのではないかと。

つまり、権力を持ってしまった人もそのままであれば、悪の道に行くはずもなかったのに、地球全体を陥れようとする悪のエネルギーに洗脳されただけなのかなと。

私も間違って支配層の人間になっていたなら、洗脳されていたかも知れないと思うと、ああよかったと思うのです。

底辺をウロウロしている人間を洗脳しても、地球レベルで見たらなんのメリットもないですからね。だから悪のエネルギーのターゲットにならずに済んだのかなと。

今日の話は私の他愛のない独り言だと思ってスルーして下さいね。

この身体は借り物、大切にしないと

以前にも書いたことがあるのですが、中学生くらいの時にすごく気に入ったLP盤のレコードを持っていたのですが、姉が貸して欲しいと言ってきたので貸したのです。

しばらくして返してもらった時に、レコード面を見て愕然としてしまったのですが、大切にしていたのに、ガジガジにキズが付けられていたからです。

悲しいやら怒りやらで苦しくて、もう2度と貸さないと誓ったのを覚えています。どうやったら、あんなにひどい傷をつけて返せるのだろうと。

今でも不思議に思うのです。誰だって、人から借りたものは普通以上に気を遣って丁寧に取り扱うのが当たり前ですから。

図書館で借りた本や人から借りた本を読んでいる場合も、自分の本を読む場合に比べて少し丁重に扱うものだなと。

そして借りたものはなるべく早めに返したい衝動が起きてくるのです。なぜなら、借りている間に損傷でもしたら嫌だし、無傷で返したいからでしょうね。

じゃあこの人生が始まった時から、気付かぬうちにお借りすることになったこの身体に対しては、どうなのだろうかと。

私たちはこの身体を自分の一部だと思い込んでしまっているので、借りているものだという感覚を無くしてしまったのですね。

だから、食べ過ぎたり飲み過ぎたり、あるいは運動不足になってしまったりして、身体が嫌がることを平気でやってしまうのです。

本来の自分自身でいるというところから、離れてしまえばしまうほど身体に対してもそのストレスの影響がおよび、身体は悲鳴をあげるのです。

大切な借り物を傷つけてしまったという意識がないというのは、恐ろしいことですね。死ぬときに綺麗な状態のまま返す必要があると思ってないから、雑に扱ってしまうのかも知れません。

自分の身体を借り物だという目で今一度見つめてみると、かなり謝罪しなければならないことがあるように感じます。

身体に対する謝罪とそして感謝、そうした素直な思いをたとえ少しの時間でも身体へ伝えるようにしたいなと思うのですね。

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