愛を求めるとは?

大抵の人が、幼い頃から「愛が足りない!」という思いを強く抱きしめて生きてきたのではないでしょうか。それは、具体的には親への不満や恐れなどです。

そうした満たされない思いが、大人になって様々な形となって現れてきます。例えば、被害者的な意識が強いままになったり、依存状態から抜け出られなくなったり。

一言で言えば、常に愛を求めて、愛を探して、誰かにたっぷりと愛を与えてもらいたいと願っているということです。

ところで、愛を求める気持ちについて、もう少し厳密に見つめてみるとそれが本当はどういうことなのかが分かってきます。

それは、愛を求めて、愛を手に入れてどうしようと思っているのか、そのことを考えてみれば一目瞭然であると言えます。

「愛を求める」とは、実のところ誰かに自分を守って欲しいという気持ちに他ならないのです。愛を求めて、それを手に入れて、何をしたいということではなくて、安心させてもらいたいのです。

人は自分のことを自分で守ろうとするのですが、それを司っているのがエゴであるわけですが、そのエゴが自分だけでは足りなくて、誰かに自分を安全な状態に守って欲しいと訴えているだけなのです。

したがって、愛を求めているというのは本当は全くの出鱈目だったのです。愛など求めてはいません、そうではなくて安心を手に入れようと躍起になっていただけなのです。

愛のことが分からないのに、愛を求めるはずがありません。本来、愛とは求めることなどできないものです。愛は与えるためにのみ使うことの出来るものだからです。

自分を愛してくれる人を求めているという場合もありますが、これも本当は見当違いの表現です。実際には、自分の願いを叶えてくれる人を求めているに過ぎないからです。

愛を求めていると信じている人は、愛についてほとんど理解できていない可能性がありますね。勿論、真の愛は神の領域なので、誰にも本当には理解などできないものです。

しかし、その真実の愛を妨げているものを取り去る方法を学ぶことだけはできます。奇跡のコースで教えてくれているのは、まさにそのことなのです。

二重構造で生きる

クライアントさんとのセッションにおいて、幼い子供の頃のどうしようもない惨めな出来事や、いつ終わるとも分からない望みのないような毎日の生活などをご一緒に再体験させていただくことが多いのです。

そんなときに、ご本人の当時のことを想像すると、場合によってはクライアントさんご本人よりも客観視しているセラピストの私の方が辛くなったりすることさえあります。

つまりそこでは、基本的に思い切り子供の頃のクライアントさんの気持ちに寄り添って、共感することが自然とできるのです。

ところが、もう一方の心では、そうした苦悩や辛い毎日のことにOKを出している自分がいるのです。これはとても不思議なことですし、なかなか理解していただけるようなものでもないので、決して言葉に出すことはありません。

しかし、心の中ではとにかくこの部分では悪とか間違いとかが全くなくなってしまうのです。すべてのクライアントさんの経験にOKを感じてしまうのです。

こうした心の二重構造については、この仕事を始めた当初から分かっていました。ただ、自分としてはこれが一体どういう意味なのか、どうしてそうした二つの捉え方が同時にあるのかが不可解でした。

今ではその理由がよく分かるようになってきました。クライアントさんに深く共感する方の意識というのは、通常の人間としての当たり前の心の機能だと思っています。

しかし、何にでもOKを出す方というのは、きっと起きていることを裁く気持ちがとても少ないか、あるいは全くない心の部分を使っていると思うのです。

そしてその部分は、人生というものをとても肯定的に捉えていて、何があったとしてもそれは必ずご本人にとって必要なことだし、それを経験しようと思ってこの人生を開始されたのだということが分かっているのかもしれません。

だからこそ、計画通りにことを進められているんだなということを感じてしまうのです。だからこその、OKなのですね。この感覚は、自分自身の人生に対しても使うことができるので、とても便利です。

きっと誰の心の中にも同じような部分があるはずなので、みなさんもご興味があったら探してみてください。必ず、どこかに潜んでいるはずです。

ときにはセラピストも必要

一般的に、子供というものは親に育てられている間に、必ず何らかの不平不満を溜めていくものです。それはどれほどすばらしい親の元であったとしてもです。

なぜなら、親と子供との間では必ず住んでいる世界が違うし、感じ方も物事の興味もあらゆる分野で違うからです。

その違いというものは、親が想定できるレベルを遥かに超えていると言ってもいいと思います。したがって、必ず子供は親に対して満たされない思いを抱きながら成長します。

これは異常というわけではなくて、そういうものだと考えていいと思います。そういった満たされないで残されてしまった思いは、成長段階で他の人との関係の中で解決していこうとするものです。

例えば、親に言えないような不満を同年代の友達に話すことで、それを受け止めてもらうことを体験するといったことです。

あるいは、大人になって好きな異性ができたときに、今まで誰にも言えなかった心の奥に潜ませていた本音をぶちまけたりするわけです。

そうやって、家庭環境では満たされなかった思いを外の世界で作った人間関係を通して満たそうとするのです。それがうまく行けばセラピストのところに行く必要はないかもしれません。

ところが、親との関係があまりにも抑圧的であったりすると、その生き方、あるいは人間関係が色濃く残ってしまうために、外の世界においてもそれを引きずってしまうことがあるのです。

そうすると、家庭以外の外の世界で出会った人たちとの間においても、幼い頃と同じような不満な毎日を過ごすことになってしまいます。

そういう場合には、自分一人ではそこから脱出することは難しくなってしまうかもしれません。そんな時には、気軽にセラピストのところに助けを求めてみることは、それほど悪いことではないと思います。

もしも、心当たりがあるかもしれないと感じる場合には、是非一度いらして下さい。じっくりと時間をかけて、あなたの満たされない思いに光を当てる作業をご一緒にやっていけるはずです。

何もないモノ

あるものを超越するということは、それを超えてその上に立つということではなくて、それをなくすということです。あるいは、それがないと気づくことです。

問題が起こったときに、我々はそれを頑張って乗り越えることによって解決することができると信じていますが、本当の解決はその問題が初めからないと気づくことなのです。

これは簡単なようでなかなか現実的には難しい感じがしてしまいます。しかし、私たちの本質とはそうした何もないものであると気づくことによって、難しいとの思いすら消えていきます。

「何もないこと」だけがあらゆることから超越しているのです。 あらゆるものを受け止められるのは、決して傷つかないでいられるものだけです。

絶対に傷つかないものとは、「何も無い」という状態であると分かります。つまり、傷つくなにものもないのですから、もっとも安全であり最強であるとも言えるのです。

対象となるもののありのままの色をそのまま見るためには、こちら側には色が「ない」ということが必要となるのです。

ありのままの形を把握するためには、こちら側には形が「ない」ことが前提となるのです。何らかの形があれば、それが邪魔をしてあるがままの形を受け取ることができなくなってしまいます。

この広大無限とも言える宇宙を丸ごと包含することができるものがあるとしたら、それは「ない」ものでしかあり得ません。何かがほんの少しでもあれば、不可能になってしまいます。

何も無い、空虚だということは、時間や空間をも超越しているのです。なぜなら、時間や空間がそこへ入り込む余地が全くないわけですから。

その「無」こそが、我々だと分かれば、そう気づいた自分こそ誰でもない何もないモノとして、この世界を完全に受容することができるということです。

今この瞬間を感じる

今この瞬間というのは、誰にでもいつでもどこでも原理的には感じることができるものです。それなのに、今この瞬間のことを私たちは大抵は忘れてしまっています。

忘れておいて何をしているかと言えば、何か別のことを思い巡らしていたりするわけです。昨日誰かに言われた一言だったり、明日の仕事の段取りだったり。

そんなことばかりの連続で、その日一日がただただ過ぎ去っていくのですね。でも待ってください。私たちはいつでも立ち止まることができるはずです。

街を歩いていても、何をしていても立ち止まることは可能です。そして自分についての今この瞬間という感覚を思い出すことができます。

できるだけしっかりと、自分の心を立ち止まらせて、今この瞬間を見るのです。そうすると、徐々にかもしれませんが、あると思っていたことが消えていくのを感じます。

例えば、自分が抱えている問題とか悩み事など、あるいは未来への不安や過去への悔やむ思いなど、そうしたものがあるというのが幻想だったと分かります。

今この瞬間には、実際何もありません。今この瞬間には、自分の記憶すら使うことがなくなるために、自分が作り上げてきた自己像すら薄れていきます。

そうすると、自分の身体もなくなり、自分の名前やその他もろもろ、いつも一緒に持っていると思っていたものがどんどん消えていってしまいます。そして自分が傷つくことがないと分かります。

最後には、なにものでもない自分、ただそう気づいている自分だけが残るのです。そこには、時間的な広がりがないだけではなくて、この世界と同化してそれを受け止めている自分だけになるのです。

それこそが本当の自分なのですね。これは堅苦しい瞑想などせずとも、慣れてくればあっという間にやってきてくれます。

そこに残るのは、深い静寂と、なにものでもない、何一つ残っていない完全なる無である自分だけです。

並べない人の心理

先日ちょっと外出したときに、夏休みの割りには人が少なくて快適だなあと思っていた矢先、ある場所で急に人の列ができているところに遭遇してしまいました。

せっかくいい気分だったのが、台無しだと思ったのですが、それも大人気ないし気分が悪くなるのは自分が損してしまうと思って何とか心静かに待とうと思いました。

ところが、その列の一番先頭の人たちがのんびりと写メを撮っていたり、とにかくさっさと行動しないのを見て、どんどん気持ちが悪化していくのを感じてしまいました。

並ぶということが元々苦手だったこともあって、相当に嫌気な刺して何だかすべてがパーになってしまった残念な思いになってしまったのです。

なぜこれほどまでに、並ぶということができないのか、またどうして他の人たちは素直に気持ちよく順番待ちをすることができるのか。

一体どれだけ自分は了見が狭い人間なんだろうと思わずにいられません。この体質は、ずっと子供の頃から知っていて自分なりに馴染んではいるのですが、並ばねばならない事態がやってくる度に、ひどい気持ちになるのです。

並ぶことも楽しみの一つだということを聞いたことがあるのですが、これほど心の余裕が表現された言葉もないかもしれません。

有名なアミューズメントパークなどでは、並ぶのが普通のことらしいし、家族で楽しそうに並んで順番待ちをしている姿を見ると、本当に感心してしまうのです。

いつも不思議に思うのですが、このおとなしく並んでいられない心の状態とはどういうものなのか、是非解明したいものです。

もしかしたら、渋滞を嫌う心理とも通じるものがあるのかもしれませんね。ということは、自分の思うように行動できないことへの反発があるということかもしれないです。

思ったこと、自分の意思を妨害されることへの危機感が異常に強いという言い方もできるかもしれません。

それと、時間を自分の意思とは別の理由で浪費されることへの恐れも含まれているかもしれません。いずれにしても、恐れと直結していることは間違いないようです。

みなさんは、おとなしく並んでいることができる人ですか?もしも、そうならイライラしないコツを教えていただきたいものです。

頭の中心のワーク

時々ですが、クライアントさんと頭の中心についてのセッションをすることがあります。頭の中心に、とてもプライベートな自分だけの空間があることをイメージしていただくのです。

どんな空間でもいいので、自由にイメージを作っていただき、それが広いのか狭いのか、きれいな部屋なのか、汚いのか、そうしたことを見てもらうのです。

その空間の中にどんな自分が陣取っているのか、こうしたイメージというものでそのクライアントさんが自我をどのように作ってきたのかということをある程度知る手がかりとなります。

侵略的な親に育てられると、部屋がとても狭くなってしまっていたり、部屋とは言えないくらいのご自身の身体にぺったりとくっついているようなこともあります。

また、広さはある程度あっても、その中に自分以外の何者かがいたり、いらないようなガラクタが置いてあったりすることもあります。

こうしたものは、すべてその空間から外に出すことが是非とも必要です。それは自覚のあるなしに拘わらず、誰かによって強引に自我の空間を侵略されたことを意味するからです。

自分の心が我に帰ったいい状態のときには、広さも明るさも心地のよい空間としてイメージすることができるようになるものです。

一度そうした状態になれたとしても、また我を忘れてしまうと邪魔なものに乗っ取られることになる可能性もあります。

いつも折りに触れて、その自分だけの空間が居心地のよい、そして外敵から苦労することなく自分を守れるようになっているかどうか、チェックしてみるといいと思います。

そしてなるべくなら、ど真ん中にどっしりと、自分が立派な椅子に腰掛けているイメージを持てるようになることです。

そうしたイメージが固定化されていくにつれて、不安な心も次第に落ち着きを取り戻していくことができます。そしてその後は、きっと空間が広がって無限の広がりそのものが自分だったと気づけるようになると思います。

怠け者の自分

一日の平均睡眠時間が2時間くらいで、猛烈に仕事をこなしていて、ある意味日本を守るため、日本の国民のために生きてらっしゃる方がいます。

私は実際にお会いしたことは一度もないのですが、何ともバイタリティのある人だなあといつも感服しているのですが、その人がとても意外なことを話しているのを聞きました。

それは、自分は仕事には厳しいけれど、プライベートはグダグダだと言うのです。きちっとしていないし、立派でもないと。

寝る時間を削っても仕事はするけれど、寝る前に歯ブラシをしようと思ってもなかなかできないと。それで、日本では誰もまだ使っていない頃から電動歯ブラシを使うことを覚えたとのこと。

ただ持って歯に当てがっていればいいだけなので、怠け者の自分でもできると言うのです。それには、本当にびっくりしてしまいました。

ご本人はお世辞を言ったり自分のことを謙遜するようなことのない人なので、自分のことを怠け者だと思っているのは、きっと本当のことなのでしょう。

他人のことは分からないものですね。私は2年以上前からこのブログとミクシーの日記を毎日欠かさずに書くようになりました。

それを読んで下さった方から、時々すごいですね、よく続きますねと言われるのですが、その時に自分の本音としては努力はほとんどしてないんだけどなと思っているのです。

実際、自分ではかなりの怠け者だと思っているので、そうお伝えするのですが、すぐには信じてはもらえないようなこともあります。

私の場合には、少なくとも6時間は寝ないと機嫌が悪くなります。その人その人で、向き不向きがあって、人から見たらすごいなと思うことでも本人としてはそうでもなかったりするのですね。

人は自分以外の人の表面的な分かりやすい部分だけを見がちですが、見えないところは予想とは裏腹なことも沢山あるはずです。

他人は優れているように見えるものなのかもしれませんが、人は人だし自分は自分、自分にできることを淡々とこなすことが一番ですね。

計画を立てる

私は計画を立てるのがあまり得意ではありません。計画を立てるだけではなくて、もっと分かりやすく言えば、何かを計画してそれを遂行することが苦手だということです。

だから、なるべく計画のない毎日を過ごしたいと考えるようになってしまいました。そして、それは会社員を辞めてから、現実となってきているようです。

でも何で計画を作ってそれを実行するという、ただそれだけのことを毛嫌いするのかと考えてみると、そこには明確な理由がありそうです。

一つには、一度計画をしてしまうと、そこには他人との間での何らかの約束事などが発生したりするわけで、その約束を破ってしまうことへの恐れがあるということです。

自分がそうしたいと思って決めた計画のはずなのですが、少しずつその期日が近づいてくるにつれて、何となく憂鬱な気持ちがやってくるのです。

それは間違いなく、約束を破ってはいけないというある種の義務感のようなものが迫ってくるのです。その義務感が自分には重く感じるということなのかもしれません。

ただ単にそうしたいと思っていることを計画通りに遂行するということだけだと、はっきり分かればそこには義務感は起きてこないはずです。

ところが、仮に自分一人だけで決めた計画の遂行であったとしても、やはり自分との約束を守らねばというような強迫観念のようなものがやってきます。

結局、誰かとの約束があろうがなかろうが、一度決めてしまった未来の計画には、ある種の自分を束縛するような力があると感じているんだろうなと思うのです。

最近ようやく、そうしたことから幾分か開放されつつあるのは、コースの勉強会やヒーリングセミナーの会場の予約をするときに、何も感じなくなったからです。

そうした予約というのは、会場の都合で半年以上前に予約をしなければならないのです。かつての自分だったら、それほど長い間に予定が組み込まれていることに耐えられなかったはずです。

ですから、本当にそうした予約をすることはできませんでした。今では慣れも手伝ってか、それほどいやな感じがしなくなりました。

誰かとの約束があっても、罪悪感なしにキャンセルすることができるようになって、責任や義務感からもある程度は開放されてきていると思えるようになりました。

みなさんはどうですか?計画を立てることと、それを計画通り遂行することをミックスして考えないことです。

計画は計画、でもそれを実行するかどうかは、その時の自分が決めればいいことです。そんなふうに捉えられるようになることで、かなり重荷を手放すことができるはずです。

無価値感の払拭

自分の存在価値が分からない、つまり無価値感を携えながら生きていくことは相当に苦しいものに違いありません。

だから存在価値の代わりになるものを人は必死に捜し求めようとします。それが、存在意義であり、それは他人からの評価によって手に入れることができるものです。

それは、誰の目からも見えるもの、何かの成果であったり結果であるわけです。子供であれば、テストの点数だったり、通知表などの成績であるのです。

そうした客観的に評価されるもので、高得点を得ることができたら、その時には自分は何とか生きていていいんだと安心することができます。

しかし、そういった存在意義というものはいつも一過性のものであるために、明日もしも悪い点数をとってしまったら、完全になかったことになってしまうのです。

だからこそ、存在価値の代わりに存在意義で生きていこうとする人は、毎日が必死であり、人一倍の努力と頑張りを継続することが要求されるのです。

また、存在価値が分からないことの弊害は他にも現れてきます。例えば、自分を何とかまっとうな人物だと証明したいがために、何か間違いを犯したときにひどい罪悪感を味わおうとします。

つまり、悪いことをしてしまったら、そのことを誰に言われるまでもなく悪いことだと後悔できる自分、それを証明するために罪悪感で悩むという作戦を使うのです。

そのことによって、自分の正しさはまともであり、正気であるということを自分に証明しようとするのです。だからこそ、無価値感の強い人は罪悪感も多く持っていると言えるのです。

こうしたことをいくら続けても、根本的な解決を手に入れることは不可能です。なによりも、自分の存在価値について、ある程度の肯定感で覆うことが必要になります。

存在価値は、幼い自分独りでは気づくことができません。それは、幼い頃に両親などから十分に受け入れてもらえたという実績によって、おのずと分かっていくものです。

大人になった自分が、幼いころの共感してもらえていない自分のことを思い出して、できる限り受け止めてあげることによって、徐々に無価値感を払拭していくことができるのです。