怒りの奥にある惨めさを見る

毎日、お昼ご飯を事務所の近くで買っているのですが、その中で時々利用している有名なお弁当屋さんがあるのです。そのお店で最近メニューに追加された焼きそばを買って食べた時のことです。

作り立ての焼きそばがとても自分の口に合うので、その日もおいしい焼きそばを食べられると期待して、事務所で一口食べたときのことです。

ん?おいしくない!味が悪いというのではなくて、とにかく作り立ての感じが少しもしない。どうやら、作ってしばらく経ったものをあてがわれてしまったようなのです。

急に怒りが出てきて、(怒るのは好きなので)この怒りを明日徹底的にそのお店に行って、訴えてやろうと思ったのです。そして、次の日その店の店長に文句を言ったのです。

すると、予想に反してひどく丁重に謝ってもらうことができたので、もう二度と同じような間違いをしないで下さいねと釘をさして帰ったのでした。

それから、一週間ほどして、またそのお店に行くと、その店長さんが私の顔を覚えていたらしく、レジの仕事を別の人に頼んで、こちらまで出てきてくれて、これまた丁寧にどういう手違いがあったのかを丁寧に説明してくれたのです。

そうなると、今度は何となく自分が大したことでもないのに文句を言ってしまって、大人気なかったなとちょっと恥ずかしい気持ちにもなったのです。

それから、2、3日したあと近くのスーパーに買い物に行くと、その店長さんと偶然ばったり出くわしたのです。彼は、私が気づく前から私に気づいていたらしく、しっかりとこちらを向いて私と目が合うのを待っていたようでした。

若干の気まずさを感じながらも、少しの会話をしてその場は別れたのですが、今回のことでは彼の方が大人の対応をしてくれて、負けたなあというのが実感なのです。

文句を言うのは、楽しいものです。なぜなら、自分は何も悪くないというとても有利な立場にいるのですから。それを楽しんでいたというのもあるのですが、もうそろそろ卒業しようかなと思うようになりました。

私の場合は、自分が惨めな気持ちにさせられたというのがあると、それを隠すために怒りが出てくるということが分かっているのです。

その惨めさをしっかり感じてあげれば、怒る必要もなくなると分かっていながら、怒るのを楽しんでいたというのが本当のところなので、それももう終わりにしようと思い立ちました。

それもこれも、その店長さんのおかげなのでした。

対象を持たない欲望

誰であれ、ものすごく欲しかったものがやっと手に入ったときには、とても嬉しくて有頂天になりますね。それは、モノだけではなくて、人の場合だってあるはずです。

何にせよ、何かを欲するという欲望があって、それを満たすために頑張ったり努力したりして、ようやくそれをわが物にしたときの感動は、すばらしいものです。

けれども、その素晴らしい気持ちというのは、残念なことにいつも一過性のものだったのです。どれほど大喜びしたとしても、しばらくするとそれが当り前のことになり、また別の何かへの欲望が湧いてくるのです。

こうした繰り返しをもう何度も何度も続けてきて思うのは、外側には本当に自分を満たしてくれるものは何一つなかったということです。

もう十分過ぎるほど分かっているはずなのです。それでも、気が付くとまた別の何かを見つけてはそれを手に入れることで束の間の幸せを貪ろうとしてしまうのです。

そこで、さまざまな経典には、「あなたの苦しみの原因はその欲望にある、だからその欲望を手放しなさい。」と謳ってあるのです。

確かに欲望がなくなりさえすれば、誰もがそれを手に入れることができなくても苦しむことはなくなるはずです。でもどうやって、欲望を落とすことなどできるのか?

考えると、欲望こそが悪者のような気さえしてきます。けれども、実は欲望そのものには何の悪意もありません。というよりも、それは私たち自身の本質であるとも言えるのです。

ただし、私たちが欲望という場合には、そこに必ず何等かの対象物が想定されているのです。外側の世界に存在する対象物への欲望こそが、我々を苦しめる原因であって、欲望それ自体ではないということに気づくことです。

では対象を持たない欲望とは何でしょうか?それ自身が拡張したいという強烈なエネルギーだと考えればいいのです。欲望はただのエネルギーであり、それこそがこの生を生み出しているとも言えるのです。

内側にあるエネルギーに欲望という呼び名は不適当な感じもしますが、それが外側の対象へと向かう時には、欲望という名前で呼ばれることになるのです。

自分の欲望から対象を落として内側に溜めるとき、きっと爆発が起きて全体へと帰ることになるのではないかと思うのです。

古いカルテの処分

2001年3月からスタートした沢山のクライアントさんとのセッションですが、自分がとんでもなく忘れっぽいという自覚があったために、セッションの記録、いわゆるカルテを残すようにしてきました。

そのカルテも、セッション数が7000回近くなったことで、結構かさばるものとなってきてしまいました。当然のことですが、どのカルテも例外なく全部保管してあるので、手狭な事務所には不釣り合いな量になってしまったのです。

それでふと、2009年1月以降にいらしてないクライアントさんのカルテについては、別にして保管するようにすれば、取扱いも便利になると思い立ったのです。

実際にやってみると、これがなかなか大変なのです。日付によって選り分ける作業をしているうちに、過去にいらした印象深いクライアントさんのことを思い返したりしながら、なかなか手間を食う難作業となりました。

私が個人的に残してきたカルテですので、どうしても保管しておかなければならないというモノでは当然ないのですが、何となく心情として処分していなかったのです。

けれども、こうして年代によって選り分けたことによって、どうせなら保管せずに処分してしまおうかという気持ちが持ち上がってきました。

クライアントさんによっては、そんな古い自分のセッションのログなど、早々に処分して欲しいと思ってる方だってきっといらっしゃるはずに違いありません。

きっと明日以降の空いている時間を利用して、シュレッダーにかけることになると思います。それをイメージすると、何となくすっきりした感覚にもなれるのです。

今思い返すと、2009年というのはこのブログを開始した年でもあり、また自己探求が始まったのもこのくらいの年だったと記憶しています。

ですから、それ以前のエネルギーを切り離すのは、自分にとってもいいことなのかもしれないです。処分大好きな私にしては、よくも全部丸ごととってあったなあと…。

これでまた新たな気持ちで、セッションに臨むことができるというものです。

丁寧に生きる

小学生の頃、先生や親によく言われたことの中に、「もっと丁寧に文字を書きなさい!」というのがありました。その頃の感覚としては、文字として認識できればそれでいいというのがあったのでしょう。

生まれながらのせっかちな性分なのか、自分ではとてものんびり屋だと思っていたりもしたのですが、どうやら相反する両方の性格をもっているみたいなのです。

長いこと生きてきて今感じているのは、のんびり屋の部分よりも圧倒的にせっかちな方が勝っているということです。そのせっかちさが災いしてなのか、物事を丁寧に行うということが不得意なのです。

食事に行っても、食べ終わったらすぐにお店から出たくなるため、ゆっくりそこでくつろぐということが苦手なのです。これをただの性分として済ましているのはどうなんだろうと考えて、その奥にあるものを見てみたのです。

すると、そこには時間に対する恐怖があると気づきました。時間というものをいつも気にしている心の部分があるのです。有限である時間を常に節約したいらしいのです。

だから一度書いて消してしまうようなホワイトボード上の文字などは、できるだけ早く書こうとしてしまうのです。急いで書いたところで、大した違いはないはずなのですが…。

さらに言えば、時間に対する恐怖とは、きっとこうしている間にも時間は刻々と過ぎて行き、それは一歩一歩死へと近づきつつあるということにも繋がるのです。

死が迫ってきているのに、のんびりとこんな体たらくなままに過ごしていてはいけないという、焦りのような感覚を持っているのかもしれません。

これでは未来への不安と共に生きている、と言われても仕方ありませんね。そのことに気づいたので、これからはなるべく意識して、何をするにも丁寧にしてみようと思うのです。

丁寧に呼吸する、丁寧に道を歩く、丁寧に運転する、丁寧に食事をする等々。すべてを丁寧にしようと心がけると、今という静寂さを感じることができそうですね。

それは、意識を内側へ向けている時とすごく近い感じがします。なぜなら、その場合にも自分の動作がゆっくりとしたものになるのを感じるからです。相通ずるものがあるのでしょう。

せっかちな自分にとっては、少々やっかいな感じもするのですが、できるだけ心がけて丁寧に生きるようにしてみようと思うのです。

瞑想したり、内側へ意識を向けることが苦手だという人は、しっかりと今にいる実感を得るためにも、この丁寧に行為するというのを実践してみるのもいいかもしれませんね。

新たなる決意

久しぶりに大学の時の友人たちと一緒の時間を過ごしたのですが、やっぱりこのブログで話しているようなことは全く通じないということが分かりました。

それは勿論残念なことには違いないのですが、実際自分が一番親しいと思っている家族と言えども理解してはもらえていないので、まあ仕方のないことだなと思うのです。

ただそうなると、人は一体全体何を拠り所として互いに繋がっているのだろうかと、ちょっと考えさせられてしまうのです。家族という血のつながりが大事なのか、数十年来の友人という関係が重要なのか。

今の自分に言えることは、こうした関係はとても残念なことですが表面的なつながりでしかないと感じるのです。自分にとって人生のすべてを捧げて探求しようとすることへの価値を分かち合える人、それこそがすべてだと感じるのです。

もう正直に言えば、表面的で軽薄な繋がりにはどんな興味も失せてきてしまったのを認めるしかありません。そんなものに時間を浪費している暇はないのです。

今までもものすごく我が儘に生きてきたという自覚があるのですが、今後はそれをもっと加速させていくことになると思うのです。

私は断言します。自分の本質に気づくこと以外には、どんなことにも興味を持つことはこの先もきっとないでしょう。つまり、外側の世界に何が起きようと、ただ無難に付き合っていくのみです。

そこには、どんな好奇心も、どれほどの価値も見出すことはできないと分かるからです。今日は、そんな決心を改めてするいいチャンスをもらえたと感謝しています。

存在との二重生活

私たちは、自分という存在は、一人のまとまりのある人格だと思い込んでいます。まとまりがあるということは、そのど真ん中に自分の中心となる部分を持っていると感じているのです。

その感覚がどれほど曖昧であろうと、中心がなければ自分はバラバラな無価値な何かに成り下がってしまうと思っているからです。

その中心らしきものは、言ってみれば自我(エゴ)の中心なのです。だからこそ、もしも自我がないなどということになったら不安と恐怖でどうしたらいいのか分からなくなって、パニックになってしまうかもしれません。

その一方で、自分の内側へと意識を向け続けていると、それまで中心だと思っていたものはそのままにして、まったく異質な別の中心を少しずつ感じることができるようになるのです。

それは、いわば存在の中心、全体性の中心なのです。この中心は、宇宙の中心であり、あなたの本質の中心でもある、すべての中心のことです。

そこへ意識が向かうと、当然のことながら肉体としての自分が移動していたとしても、その中心は微動だにしないということを実感することができます。

全体の中心が動くということは在り得ないからです。クルマの運転をしているときに、運よくその中心へと意識を向けることができると、クルマは走っているのですが存在の中心と一つになっている自分はまったく動いていないということが分かります。

それは歩いている時よりも、もっと容易にその感覚になることができます。きっと、運転中はシートに腰かけているだけで、身体のどの部分も動かしていないからなのでしょう。

以前、歩きながら何度もこの不動の感覚を味わいたいと思って、練習したこともあったのですが、今思えば運転中のほうが遥かに容易くそれを味わうことができると分かります。

ただし、私は覚醒しているわけではないので、自我の中心が完全に消え失せるということはなく、結果として両方の中心を同時に感じるという状態になっているのです。

この存在の中心と自我の中心の両方を同時に感じることを、あらゆる場面で継続することができるなら、これほどすばらしいことはないと今のところ思っています。

存在の中心と少しでも繋がっていると、その奥深い静寂さが、自我の方へも伝搬してくるらしく、運転中に腹を立てることが急に減ってしまうのです。

そしてその余韻は、しばらく続いてくれるのです。もっともっと存在との二重生活を満喫できるように、訓練することができるといいのですが…。

沈黙の空間を創る

私たちは、じっとして何もしないでいるということがほとんどありません。そして、誰かと一緒にいて、ただ黙っているということにも耐えられないものです。

常に何かをやっているし、誰かといれば必ず何かの会話をし出すのです。二人以上の人が一緒にいて、互いに何もせずに、尚且つ誰もが黙っているという状況を想像すると、ちょっと怖い感じがしますね。

これは、自我(エゴ)が創り出した罠に違いありません。私たちは、他人が怖いのです。その恐怖を少しでも避けるために、できるだけ会話をしようとするのです。

何気ない会話は、その場の雰囲気を和ませる力をもっていますので、感じていたはずの恐怖を気にせずにいられるようにしてくれるのです。

もしもチャンスがあったら、試して欲しいのですが、誰か気の合う仲間や家族と一緒に、一つの空間を共に過ごすのですが、互いに何もせずに何も会話をしないようにするのです。

互いを無視するでもなく、かといって意識し過ぎるでもないという状態をしばらく続けるのです。初めのうちは、慣れないために違和感を感じるでしょう。

けれども、その状況に慣れてくると、その場の静けさがとても心地いいものになるはずです。そして、その外側の静けさは、容易に自分の内側にある静寂さへと意識を繋げてくれるのです。

そして、その心地いい余韻は、その後独りになってからもしばらくは続くでしょう。その時、一体自分はどれほど無駄な会話という騒音の中で過ごしてきたのかを発見することになるのです。

家族や恋人と一緒に道を歩いている時も、しばしの間会話を中止するのです。そして、もしも道端に咲いている花を見つけても、「きれい~!」と言わないことです。

言葉にすれば、必ずそれは思考を伴ってしまうからです。せっかくの沈黙をそんなことで中断しないようにすることです。そうして、静寂を楽しむのです。

静けさは必ず、意識を内面へと向けてくれるのですから、それを利用しないという手はありません。こういった方法は、ときとして独りで瞑想するよりも効果があるかもしれません。

誰かと一緒にいて、完全に無防備でいられるということは、途方もなく味わい深い瞬間を創りだしてくれます。こうした一種のワークを理解してくれる仲間がいる人は、是非一度試してみて下さい。

非常識第二弾(人格を捨てる)

昨日のブログの内容(知識を捨てること)は、もしかしたら読者の反感を買うかもしれないなと思いながら書きました。それは、一般常識に反する内容を含んでいるからです。

なぜ常識に反すると拒絶や否定をされる可能性が出てくるかというと、私たちは常識というものを自分を守るために身に着けてきたからです。

その大切な防弾チョッキ、心の鎧をけなされてしまえば、それは危険なことなので抵抗する気持ちが顕われるのも当然のことなのですね。

けれども、アインシュタインの言葉に、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのこと」というのがあるように、常識というのもある種の知識のようなものに過ぎません。

防衛のために使われるいかなるモノも、醜いだけでなく、自分を不自由にすることになるのです。防衛の原動力は恐怖であり、そこには愛がないからです。

ということで、今日も非常識な内容を書いてみようと思います。以前ある人と話をしている時に、自分のアイデンティティなんていらないという内容のことを言ったときに、激しく抵抗を受けました。

相手は到底受け入れがたいという感じだったのですが、なかなかうまく説明できずに終わってしまった記憶があるのです。実は、その話しをする少し前に、私自身が自分は大澤富士夫ではないという感覚を強く持ったことがあったのです。

そのことをただ伝えたかったのですが、当り前ですが失敗したのですね。アイデンティティも人格も私たちの本質からみれば、周辺で起きていることなのです。

もしもあなたが自分の人格を大切だと信じているのでしたら、その奥には確実に不安が横たわっているはずなのです。なぜなら、人格とは砂上の楼閣だからです。気づいているかどうかは分かりませんが。

人格というのは、そもそも他人によって作られたものです。その上に自分の経験という断片を張りぼてのようにくっつけて、その繰り返しによってでっち上げられたものなのです。

あなたの本質は、あなたの人格とは縁もゆかりもありません。人格は架空の産物に違いありません。人格を持った人物としてのあなたなど、本当は実在しないのですから。

人格を周辺に押しやり、新たな中心として自分の純粋な意識を据えるのです。こう書くと、それを意識的に行うことのように誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

ある気づきとともに、それはやってくるものです。そのニュアンスが分かれば、きっとこの非常識さもただ愉快なものになるはずです。

知識を捨てること

自己防衛の中の一つに、知性化というのがあります。それは、知識をできるだけ溜め込むことで、ハートで感じることを遮り、観念の世界へと逃亡する方法です。

沢山の本を読み漁り、人よりも多くの知識を記憶して、心の鎧として使おうとすることです。一般的には、インテリ層の人がよく使う防衛のメカニズムですね。

知識というのは、自分以外の誰かから得た情報の集まりであって、そこには生き生きとした生を感じることがほとんどできないのです。

ただただ、知識を詰め込むことでいくばくかの安心を得ることができるというだけで、その一方で知識を増やせば増やすほど自分の本質から遠ざかっていくようなものなのです。

なぜなら、あなたの得た知識が自分はこれだけのことを知っているというように思わせるからです。それは知っているのではなくて、信じているだけだということに気づかなくなってしまうのです。

あなたが仕事などで使う必要のある知識、それは情報と言えばいいものですが、それは勿論必要なものです。けれども、単なる知識は害になるのです。

できるだけ、これまで得てきた知識を捨てることです。知識は百害あって一利なしですから。それよりも、少しはましなのが知恵ですね。

知恵は、人から聞いたものではなく自分で経験したことに基づいているため、知識ほど害にはなりません。ところが、この知恵も厳密な意味においては、本当に役立つものではないのです。

なぜなら、知恵の出どこはあなた自身が経験した過去の産物から得たものだからです。あなたの生は、一瞬の休みもなく絶えず流転して変化しているものです。

だから、あなたの知恵は今この瞬間にはもうすでに古くなってしまっているというのが本当のところなのです。本当に大切なのは、知識でも知恵でもなく、今この瞬間の認識なのです。

認識とは常に今であって、過去の蓄積とは全く異なるものです。認識は生と同じようにまさに生きているのです。それは常に生まれ変わって古くなることがありません。

瞬間瞬間の認識の中に生きることです。歴史や伝統の重さから解放されて、今この瞬間に全身全霊で入っていくのです。過去も未来もないこの今という永遠に生きるということです。

非本質的なことを落とす

osho の以下の言葉に、頭をガ~ンと叩かれたような気がしました。

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覚者になりたい者は、より多くのエネルギーが本質的なもののために利用できるように、非本質的なことをますます落とす必要がある。あなたの人生を見てごらん。

どれほど多くの非本質的なことをしているかーーそして何のために?また、どれほど長い間、あなたはそれをしてきたことかーーそしてあなたは何を得ただろう?

あなたは同じ愚かなパターンを、自分の全人生で繰り返すつもりなのだろうか?もう充分過ぎるだろう! ちょっと見てごらん、それに瞑想してごらん。

本質的なことだけを言いなさい。本質的なことだけをやりなさい。本質的なものだけを読みなさい。するととても多くの時間が節約され、とても多くのエネルギーが節約される。

そのエネルギーと時間のすべてを瞑想に向け、内的な成長へ向け、目撃することへと向け、簡単に注ぎ込むことができる。

私はいまだかつて、瞑想できないほど貧窮した人間を見たことがない。しかし人々は馬鹿げた事、全く馬鹿げた事に従事している。

彼らが愚かに見えないのは、他の人々もみんな同じことをしているからだ。しかし、探求者は注意深くなければならない。

自分がしていること、自分の人生でしていることにもっと注目しなさい。なぜなら覚醒のバラが成長するためには、多くのエネルギーが必要だからだ。

エネルギーの貯水池が必要とされる。あなたに余分なエネルギーがある時だけ、すべての大いなるものが来る。

もしあなたの全エネルギーが世俗的なものに浪費されているなら、神聖なものには決して接触しないだろう。

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