防衛は正しさを利用する

この世界を見るときの判断基準として、正しいか正しくないかを使ってしまう人がたくさんいるように思います。

その理由は比較的簡単で、自我が日々行い続けている自己防衛の策として、正しさを使うことが多いからです。

正しさというのは、自我にとっては非常に使い勝手が良くて、自分が正しくある限り他人から否定されることはないと信じているのです、

別の言い方をするなら、自分自身を深いところで正しさによって裁いているので、他人のこともそれと同じ目で裁いてしまうということですね。

要するに、物事の判断基準を正しいかどうかに置いている人は、それだけ自己防衛が強いということなのです。

逆に言えば、自己防衛で正しさをあまり使わない傾向になるなら、自分のことはもちろん、他人のことや周囲の出来事を正しさで判断しないということ。

癒しを進めて行って、防衛が小さくなっていくに従い、正しいかどうかということに興味を持たなくなっていくのです。

その代わりに、自分にとって好ましいかどうか、あるいは心地いいかどうかということがより重要な判断基準になるということですね。

自分の内面を見つめてみて、判断基準に正しさを多用しているとしたら、癒していく必要があると考えて間違いないと思います。

人類のレベルを直視する

人類の歴史を真っ直ぐな目で見ることができる人にとっては、それが断続的な戦争の歴史であったことに気づくのです。

正確に言えば、戦時中と休戦中の二つの状態を繰り返しているに過ぎないということですね。平和というのは休戦中であることを示しているに過ぎません。

過去の歴史を学べば、あまりにも残酷で非人道的な時代があったのだなとびっくりするのですが、実は今も変わりはありません。

もちろん表面的には、過去のどの時代よりも現代の方がはるかに文明的であって、それほど悲惨なことは起きていないと思うかもしれません。

ところがそれが単なる勘違いであることが、今回のロシアによるウクライナへの侵攻によって分かりました。

実は魔女狩りをやったり、ナチスが毒ガスで数100万人を惨殺した時代と変わってはいないのです。

中国による、ウイグル人への弾圧、臓器移植のためだけに罪もないウイグルの人々が殺されて焼却炉で始末されていく毎日があるのです。

残念ながら、人類のレベルは昔も今も変わりはないのです。大切なことは、起きることは全てがこの時空次元でのことだということ。

そして私たちの本質は、その上位の次元にあるということ。そこに気づくこと以外に救われる道はありませんね。

潜在意識は常に無意識的

もしも私たちがその日その日に感じたあらゆる感情を味わい尽くして生きてきているなら、夢を見ることはなかったはずなのです。

実際には知らず知らずのうちに未消化の感情が溜まっていって、それをなんとかして消化してもらいたくて、寝ている間に夢として現れるのです。

ちなみに私自身がよく見る夢があるのですが、それは学生の時に試験が間近に迫っているのに、勉強が間に合わなくて焦っているという夢が一つ。

もう一つは、社会人の時に転職して次の職が見つからなくて、こちらも焦っているという夢です。

どちらの夢も焦って困ってどうしようという思考がメインとなっていて、そうした不安が完全には消化できていないのだなということが分かります。

そうした夢の中から目覚める時に、現実の記憶との比較が起きてくるのですが、結果として理性が勝って、今はセラピストになっているということで安心するのです。

目が覚めてからもその不安の余韻が少しは残ることもたまにはあるのですが、それでもすぐに現実の世界の方が夢に勝ってくれるのです。

けれども、夢を生み出す過去のエネルギーがもっと強ければ、目覚めた後もしばらくはそれを引きずることになるはずです。

夢のエネルギーがさらに強大な場合には、夢の世界がいつまでも現実を覆ってしまい、何やらブツブツ言いながら歩いているような人になるのです。

健康な人との違いは、潜在意識に蓄積された感情と思考のエネルギーの強さが際立ってしまい、それに付随して無意識状態になってしまうということです。

夢の事例でも分かる通り、日頃からできるだけ意識的であるように心がけることで、潜在意識の力に負けずにいられるようになるのですね。

なぜなら、潜在意識の部分は完全に無意識状態であるからです。

理性で言動は変わらない

人は日々の自分の言動を思い返してみて、それを後悔したり反省したりするのですが、それがどこかで終わるわけではありません。

明日からもう決して怒らないぞ!と思ってみたり、もう冷たい態度は取らないように決意する!等々。

よりバランスの取れた自分になりたい、もっと成熟した大人の人格を持ちたいと思って、言動を修正していこうとするのですね。

そうやって人は成長していくものと考えられています。そこに水を差すわけではないのですが、本当にそうでしょうか?

それで変われるのはきっとほんの表面的な部分だけなのではないかと思います。結局、しばらく経つとまた以前の自分が顔を出すのです。

なぜならまた怒ってしまうのは、それなりの過去からの因縁があるからです。原因があるから、結果としての言動が湧いてくるわけです。

その原因をしっかり見つめて、溜まっているエネルギーを解放することで、自然と言動に変化がやってくるのです。それが癒しというものです。

力づくで、あるいは理性によって自分の言動を改善しようとしても、その努力が無駄に終わることになるのを、そろそろ理解することですね。

自分の選択の結果

今日は自我のレベルの話しになるのですが、幼い頃はともかく私たちは誰もが自分の選択の結果として、現在の人生を生きているのです。

幼い頃を例外として見るのは、環境を自分で選択する自由などないからですね。けれども、成長するにつれて最終的には自分自身が選んでいるのです。

誰かにそそのかされたり、強引にコントロールされたとしても、それもみんな自分の選択としてそういうことが起きたのです。

つまり、何で自分ばかりがこんな理不尽な目に遭うんだろうとか、誰も自分のことを構ってくれない等々。

けれどもそうした恨み節も、思うのは自由ですが結局は自分の選択がそれを招いたということに気づく必要があるのです。

自分の人生が今どうであろうと、それを誰かのせいにすることはできないということです。あなたがそれを選択した結果なのですから。

ただし、それを責める必要もありません。ただそうしたことに気づくことができた人から、人生を変えていくことができるということです。

以前会社員だった頃、会社や社長への不満を呑みの席で言い続ける人がたくさんいたのですが、嫌だったらやめれば?というのが私の立場でした。

普段愚痴の多い人ほど、なかなか会社を辞めないのをよく見てきた記憶があります。逆に私は病気をきっかけにしてあっさりと辞めてしまいました。

嫌な思いをしたり、理不尽なことをされたならそれに対して怒りを感じるのはごく普通のことですが、それが過ぎ去って冷静になれた時には、自分の選択の結果だということを思い出すことです。

それさえ忘れずにいられたなら、恨みつらみの重苦しい人生から解放されることになるはずですね。 

自我の自己存続の仕組み

このブログを読んでくださっている方であれば気づいてくださっていると思うのですが、ブログの文章中に一番頻出する単語はきっと「自我」でしょうね。

それはセラピストになって以来ずっと、私の探究対象が自我だったことを物語っているとも言えます。自我のことをより深く理解したくて、常にそれを見つめて来ました。

自我の仕組みはシンプルと言えばそうなのですが、それは非常に巧妙な仕掛けでできているのです。一度でっち上げられてしまうと、滅多なことでは崩壊しないのです。

例えばこれまで多くのチャレンジャーたちが、自我からの解放を目指して、難行苦行に明け暮れてきたのですが、その努力こそが自我を強固にしてしまうといった一面があるのです。

だからこそ覚醒して光明を得ることがほとんど不可能なことになってしまうのです。あるいは自我に付いてまわる「不安」も自我の継続に一役かっているのです。

自我の土台は「分離」という思考でできています。そのため「不安」が消えることはありません。そしてその不安と戦い続けることで、生き続けられるのです。

つまりはそれが自我の自己存続のメカニズムなのです。誰の創作なのかは知りませんが、これが如何に巧妙なものかを思い知らされるようになりました。

存続するために、自分以外に全く何も必要としないのですから、まったく驚くべきことです。なぜこんな芸当ができるのか?それは元々実在しないものだからですね。

感謝など期待しない

世間でよく言われることですが、感謝が大切だということ。感謝ができない人は心の貧しい人だということです。

確かに感謝というのは、愛の一つの形だと言ってもいいからですね。だからと言って、感謝をしろ!と強制するのはまた違う感じがします。

私自身は、長い間感謝を感じない人間でした。今も一般的な人と比べると感謝が少ないのかもしれませんが、以前よりは感謝ができるようにもなりました。

ところで、感謝の気持ちを感じることの反対に、感謝をされたいと願う気持ちというのもあるようですね。

誰かのために一生懸命何かをしたら、やはり感謝をされたいと思うわけですが、そのことについての格言のようなものはあまり聞きませんね。

私は感謝の気持ちになることが少ないのですが、その一方で感謝をされたいという気持ちもほとんどありません。

感謝をされてもことさら嬉しくもありませんし、それはきっと相手にとって都合のいいことをした時に感謝されるから、という思いがあるからです。

感謝されるよりも、存在を認めてもらうことの方が嬉しい気がします。なぜならそれは私の言動とは無関係に、自分の存在自体に根ざしたものだからです。

感謝を期待すると、場合によっては理不尽さを感じて怒りが出てくることになるかもしれませんね。それは本当にバカバカしい限りです。

癖を見守る

人生の大半を戦ってきた人にとって、癒していく中で戦うのをやめましょうと言われても、それを止めるのは至難の業なのです。

なぜなら染みついてしまった自我の癖というのは、それを履行することで自我が生きていけるという相互作用が働くようになってしまうからです。

それは例えば、タバコを吸う習慣がついてしまった人が、禁煙するということに似ていますが、それよりもはるかに困難なのです。

タバコの代わりになるものは、意外と簡単に見つけることができるのですが、戦うことの代替え品を探すのは大変だからなのですね。

「無くて七癖」と言われるように、私たちはそれこそ千差万別の癖を持ってしまっています。

その癖の中身に何か問題があるということではなくて、癖を利用して生きることそのものに問題が内在しているのです。

その一番の悪影響とはなんでしょうか?それは無意識にさせられてしまう傾向が強いということです。

瞬間瞬間意識的で無くても、勝手に癖が決まったパターンを実行させてくれるからです。便利であると同時に、無意識になってしまうということです。

癖を持ってしまっていることを後悔する必要はなく、代わりにその癖を実行しようとする瞬間を意識的に見守ることができればいいのですね。

怒りから解放されるために

もしもあなたが、自分は何だかいつもイライラしていることが多いなと感じているのでしたら、それはシンプルに怒りを溜め込んでいるということを表しています。

その怒りの蓄積はほぼ間違いなく幼い頃からであって、昨日今日溜め出したわけではないのです。

怒りをたくさん溜めてしまうと、その怒りのエネルギーが理不尽さを引き寄せてしまうので、嫌な目に遭うことが多くなります。

またいつもイライラしている自覚があるので、気分がすぐれなくて自分のことを好きになれずにいることもあるかもしれません。

まずは怒りは数ある感情のうちの一つであるというだけで、それ自体にいいも悪いもないことに気づくと共に、感情の目的を理解することです。

感情というのは、その時々のマインドの痛みを最短で取り除いて穏やかな状態に戻してくれる特効薬のようなものなのです。

その解毒剤を服用することで、心は健康状態に戻れるのですが、実際の薬と違うのは服用する代わりに味わう必要があるということです。

怒りを独りの環境でしっかり味わい尽くすことができれば、イライラする毎日からは解放されることになるはずです。

原理は至ってシンプル。長年の便秘が解消すればスッキリ気持ち良くなるのと変わりはありません。

ただし、味わう時にはちょっとしたコツがあるのですが、それはできる限り言葉を使わずに感情そのものを感じてあげること。

言葉は思考なので、感情を味わうことを妨害する働きがあるのです。言葉を無くして、唸るようにして怒りを全身で味わう練習をしてみてください。

それが上手にできるようになれば、あなたは怒りをもうこれ以上持て余すバカバカしい人生から解放されるはずですね。

自我=不安&孤独

繰り返しお伝えしていることですが、私たち人間にとって、不安と孤独は避ける事のできないものなのですね。

その理由は非常に明確なのですが、それを理解するためには我々がこれが自分だと思っている自我のことについて、知る必要があるのです。

自我は個人だと思い込んでいるので、自分とそれ以外の外の世界、あるいは他人とは分離していると信じているのです。

全く未知の世界にポツンと独り産み落とされたと思っているのですから、もう原理的に不安と孤独と共にあるのは当然のことなのです。

ただし、それをなんとか誤魔化して感じないようにする仕掛けが沢山あるのです。幼い頃なら両親や兄弟に囲まれて、成長すれば友達や好きな人ができ、安心させてもらえるのです。

けれども自我の根っこにある不安と孤独が消えてしまうことはありません。人によってその感覚が違うのは、単に誤魔化し方の上手下手の違いでしかないのです。

もしもあなたが人一倍不安や孤独が強いと感じているなら、まずはそれは誰にとっても同じことだと気づくこと。自分は特別ではないということ。

その上で不安と孤独の原因である自我についての理解を深めていくことで、自我との距離をとる方法を体得することです。

そうすることで、あなたの本質である意識には、不安も孤独も何もないということにいずれは気づいて行けるようになるはずですね。