終わりは始まりの第一歩

「終止符を打つことがはじまりであり、そのはじまりが第一歩であり、そしてその第一歩が唯一のステップなのである。」

というすばらしい言葉があります。「継続は力なり」という言葉もありますが、始めたことはいつか終わるということも真実ですね。

昨日は、第45回目の奇跡のコースの勉強会でした。残念ながら、参加はたったの6名と少なかったのですが、それでもいい時間を皆さんとご一緒に過ごせたと思っています。

この勉強会、今年いっぱいでひとまず終わりにしようと思っています。つまり、後3回で終わりを迎えることになりますね。

丸々4年間、一度も休まずに毎月一回のペースでよくも続いてきたものだと思います。始めたころは、本当に一心不乱にテキストを読み、毎日ワークを実践していました。

それが最近では、勉強会の直前に予定されているところを予習する程度になってしまい、自分の中でもうこれ以上続けても単なる惰性になった感じがしていたのです。

それで、今年いっぱいで終止符を打つことにしたのです。自分の中で一つの区切りを迎えることは、それなりに清々しい感じがします。

勿論、気が向いたときには、コースを読むことだってあるでしょうし、もしかしたら再度ワークをやり始める可能性だってあります。

コースによって今までに学んだことは、途方もなく貴重な財産になっています。そのことは、今後も変わらないでしょうね。

でも、もうそろそろ一旦はけじめをつけようと思うのです。あと、もう数回だけやりますが、残り少ない貴重な体験を、惜しみながらも別れを告げようと思うのです。

それが、新しい第一歩のはじまりだからです。そして、自己探求の日々は、今のところまだまだ続いていくのだろうと感じています。

宗教的な自分

自分が両親のDNAを半分ずつ受け継いでいることは間違いないのですが、最近自分と両親を比べて、あまりにも違いがあることに改めて驚いています。

確かに、肉体的な特徴だけでなく、気質の傾向なども似通っているところは沢山あるのです。父の根っこはのん気であり、母は心配性という互いに真反対の性質なのです。

私はそのどちらの要素も十分に併せ持っているという自覚がありますが、最近はのん気な面の方が大勢を占めているようです。

けれども、両親との違いを宗教的な観点で見てみると、まず父親は無神論者であり、母親はかつて日蓮宗の人を自宅に招いて、お経を上げていたことがありました。

私はそのどちらでもなく、現在知られている特定のどの宗教にも興味はなく、さりとて無神論者でもないのです。

最近では、自分のことを宗教的な人間であると、しっかりと自覚するようになっています。そのことが、両親との大きな違いであり、そのことが不思議な感じがしているのです。

先日、両親と何気ない話しをしているときに、私の宇宙観というか、本当の自己について少しだけ話しをしたのです。

自分の外側には何もないし、さりとて内側にもない。自分という人物がいると感じるのは、思考であって真実ではない等々…。

いつもはあまり聞こうとしない両親が、そのときにはそれほど抵抗するでもなく聞き耳を立てているようでした。

そして、なぜ自分たちの息子がそういうことに意識が向いているのかに、さかんに不思議がっていたのです。

宗教的な自分がそうでない両親より優れているとか、劣っているという思いはありませんが、この突然変異のような自分の志向が一体どこからやってきたのかは、本当に不思議なことです。

しかし、そういう自分として今があることには、本当に感謝しているし、幸運だなと心から思うようになりました。

私にとって、親との関係性においてとてもありがたいと感じていることは、自分がどんな考え方を持っても、決してそれを否定されることがなかったということです。

だからこそ、生まれながらにもっていた宗教的な探究心を、邪魔されずにそのまま育てていくことができたのだろうと思っています。

神を信じる必要はない

by osho

あなたは、神を信じていないかもしれない。
神を信じる必要はない。
信じる人は、宗教的な人ではあり得ない。

しかし、あなたの本質が完全に裸になったら、
あなたが全ての衣服を脱いだら、
あなたに与えられたものを全て落としたら、
学んだものから自分を切り離したら、
学んだもの全てから、教え込まれたものから、培ったものから、
自分を切り離したら、
突然あなたは、手つかずの明晰さ、生まれる前にあった明晰さの内にある。

あなたの本来の顔がそこにある。

それは、早朝の朝露のように新鮮で、夜の星のように輝いている。
それは、花々や木々が持つ壮大さを全てもっており、
子供達や動物達や鳥たちが持つ無邪気さと無垢さを全て持っている。
その瞬間に、あなたはとても大きな喜びを感じる。
あなたはその喜びから、深く頭を垂れる。
覚えておきなさい。それは、神へではない。
神を信じる必要はない。

あなたは、単純に感謝から深く頭を垂れる。
あなたが頭を垂れることには、対象はない。
あなたは、単純に頭を垂れる、というのは・・・
何の理由もないのにあなたに降り注ぐ計り知れない歓喜を見て、
あなたは頭を垂れる。
しかも、あなたにその価値がないというのに、
それに値しないというのに、
あなたは、それを自分で稼ぎ取ったわけではなかったのに!

あなたは、存在への心からの感謝をしないでいることなどできないだろう。
あなたの頭は、深いお辞儀をする。
あなたは、自分を明け渡す。
あなたのハートは震え、至福に脈打ちながら、
あなたは、完全な沈黙のうちに、地面にひれ伏す。

あなたの呼吸は、そのために違うリズムを打ち、
そのために、違うメロディを奏でる。
あなたの全エネルギーがダンスし、流れている。
あなたは、存在との調和に落ちている。

これが、私が祈りと呼ぶものだ。
教会や寺院の中で行われているものは祈りではない。
それは、オウムのような物まねで、形だけのものだ。
それは、本当の祈りと何の関係もない。

そして、この祈りは、癒すことができる。
この祈りが本当のセラピーだ。

不満の原因を探る

もしも私たちが、うるさい思考を脇に追いやり、あるがままをできるだけそのままに受け入れることができるなら、不満という罠に陥らずに済むのです。

けれども、成長とともに、自分のことは自分で守らねばならないという自我の主張に飲み込まれるようになると、自我はひっきりなしに思考を使うようになるのです。

つまり、私たちは思考によって自分を防衛する作戦を編み出しては、それを実行するようになるのです。それが、不満を生み出すということです。

人間以外の動物は、単に生存本能による自己防衛をするだけなので、危機が去るとすぐに起きていることに順応することができます。

しかし、私たち人間は思考による過度の自己防衛に明け暮れているために、過去に防衛したがために生じた不満を現在にまで引きずってしまうのです。

思考とは過去なのです。多くの場合、過去の不満は心の奥深くに抑圧されて、本人には直接自覚することができなくなっています。

それは当然のごとく、形を変えて現在に影響を与えることになるのです。それは新たなる不満のネタがやってきて、本人を苦悩の渦の中に落としこみます。

そして、それと同時になんらかの依存症のような症状がやってくることがあります。勿論、それは不満を解消しようとする、抵抗することができない半強制的な言動となるのです。

多くの依存症、そして怒りがやまない不満の数々、こうしたことを人生から除去したいと誰もが思っているのですが、そのためには二つしか方法はありません。

一つは、冒頭に書いたように、過去から派生した思考をおとなしくする生き方を練習することです。これには、瞑想が役に立つかもしれません。

そしてもう一つは、抑圧されてしまっている過去の不満や怒りを、正面から見据えることです。人生の初期のころの不満をしっかり受け入れることができれば、それから派生した別の不満も、それを解消するための依存症も、ともに不要になっていくはずです。

事実は思考に依存する

竹島や尖閣諸島などの領土を巡って、毎日のように報道がなされています。日本人の領有権に対する感覚と、韓国人や中国人のそれとの温度差が異常に大きいということに、改めて驚かされますね。

竹島も尖閣諸島も北方領土も、勿論日本の領土であるということは、歴史を調べても明らかであると認識できます。

けれども、その正しさというのは事実であって、真実ではありません。事実というものには、必ず思考が介入しているのですから、思考が違えば事実は変わってしまう可能性があるのです。

このことを人類が、本当には理解していないということは、戦争の歴史を見れば明らかです。自分の思考の中で認識される事実は、普遍的なものだと思い込んでいるのです。

だからこそ、相手の認識する事実が自分の認識する事実と異なるなどということはあり得ないと思っているのです。

つまり、自分は正直に事実を述べていると思っているときに、見解が異なるということは、相手は嘘をついているという結論に至るわけです。

百歩譲って、嘘をついているとは言わないまでも、なんらかの勘違い、事実誤認がそこにはあるのだと思って、どうにかして相手を説得しようとするのです。

当然のことながら、こうした説得、あるいは訴えは決して成功するものではありません。相手は自分と同じくらいに相手自身の事実認識に絶対の自信を持っているのですから。

事実は一意には決められないということ、事実に基づく正しさというものは、思考の内側にしか存在できないということを、私たちはしっかり理解することです。

絶対的真実はあるとしても、絶対的事実などないということです。他国の味方をしようとしているのではありませんが、事実ほどあてにならないことはないのです。

それぞれの国のリーダーたる人物が、互いにこのことを理解できるなら、領土問題は解決するのではなくて、知恵による協調のネタに使おうとするはずですが…。

真実と思考の間の深淵

個人としての私たち一人ひとりの正体とは、実は「思考」なのです。その思考とは、過去の集大成で出来上がっているものです。

その思考に、物事を起こすどんな力もあるはずがありません。私たちは、自らのことをそこらの石ころとは違う自律的な存在だと信じていますが、それは思考の中でのトリックに過ぎません。

石ころと違って私たちには立派な自由意志があると思いたいところですが、その自由意志とは思考の産物に過ぎないのです。

「思考」である我々には、真実を知ることは不可能なことです。思考は、どれほど背伸びをしたところで、真実に到達することはできないのです。

たとえば、何かをあるがままに表現しようとする試みは、決して成功しません。物事を表現したり、描写するということそれ自体がまさに思考だからです。

「物事のあるがまま」とは、真実と言ってもいいかもしれませんが、その真実とそれを表現しようとする「思考」の間には、無限の深淵が横たわっています。

それらが互いに交じり合うなどということは決してありません。真実が実体だとすれば、思考は影のようなものだからです。

影に価値があるとかないということではありません。影ができる最高レベルの思考は、真実にひれ伏すことです。真実を知ることはできないと、完全なる無知であると観念することです。

そのときに、本当の私たちは「思考」ではなかったという気づきがやってくることになるのです。影が実体のフリをするのをやめたときこそ、描写不可能な永遠の平安になるのでしょう。

執着という代替願望

癒しの中で一般的によく言われることに、「執着を手放す」というのがありますね。何かに強く執着していると、非常に苦悩することになるからです。

ではなぜ、執着というものがそもそも心の中に生まれるのかと言えば、それはもちろん自分を守るためです。

自分を守るために必要と思われるものを、何とかして手に入れたいという強い欲望、あるいはこれを喪失してしまったら自分を守れなくなると思うものを無くさないための執念を執着と呼ぶのです。

けれども、自分を守るために執着するはずが、結果としてそれが自分を苦しめているのですが、そのことにたとえ気づいたとしても簡単には執着を手放すことができないのも事実です。

それは、執着のメカニズムについて少し詳しく考察することで説明することができます。単にあれが欲しい、これが必要という程度の欲求では、執着とは呼びません。

そうした普通の欲求が執着へと変化するためには、まず初めに欲望を抑圧するという手順が必要なのです。

たとえば、幼いころに純粋に○○が欲しいとか、こうして欲しいといった欲望があったとして、それが何かの理由で絶対に叶うことがないと思い込んだとします。

そうすると、その欲望を自覚している限りその子は苦しむことになります。その苦しみから自分を守るために、その正直な気持ちを隠してしまうのです。

これで、一時的にはその苦しみから解放されることになります。確かに自己防衛は成功したかに見えるのです。

けれども、残念ながら、抑圧された欲望というのはその後何かの形となって表面化します。それは、違うものへの欲望として認識されます。

本人は以前抑圧したものが異なるターゲットに対して出てきたのだとは気づきません。それだけではなく、この新たな欲望も満たされることがありません。

なぜなら、それは抑圧された本当の願望の代替品だからです。そのため、いつまでもこの代替願望が満たされないままになるのです。

本人の自覚としては、求めても求めても満たされないという人生のパターンとして繰り返すことになるのです。

こうして、ただの欲望が強烈な欲望、つまり執着へと変化してしまうのです。したがって、執着を手放すためには、最も初期に抑圧した願望と対面する必要があるのです。

現在執着している代替品のことは一旦脇へ置いて、かつて本当に欲しいと願っていた本音を思い出し、本音とともに溜まっている感情をしっかり見てあげることです。

そうやって、心の奥で絡んでしまっていた欲望のロックを解除することができ、強烈な執着は次第に影を潜めていくことになるのです。

もしも、あなたが何かに執着を持っていると感じているのでしたら、それは一体どんな欲望の代替品なのか、じっくり過去を見つめてみるといいと思います。

自分改善計画を放棄せよ!

人生の目標というものが、明確になっている人はいいのですが、そうではないという人も沢山いるのではないでしょうか?

何を隠そう、私自身も何の目的も目標もなくただ淡々と生きてきたという思いが強いです。淡々とという表現を使えば聞こえはいいですが、悶々とという意味合いも多分に含まれていると思います。

それが生まれ持った性癖なのか、あるいは後天的な何かの影響によるものなのか、はたまた教育のせいなのか、あるいは別の何かの原因があるのかは定かではありません。

いずれにしても、あまりリアルに自分が生きているという生き生きとした感覚というものを持ってはいないということだけは確かです。

そうなると、何かしなくてはいけないのではないか、何もせずにボーっと過ごしている自分は人としてどうなのか、といった疑惑のようなものが出てきます。

だからといって、何か無理やりにでも目標のようなものをこしらせて、それを目指して頑張ったところで、すぐに当初のやる気が消えていってしまうのですから、仕方ありません。

こんなことを、何度も繰り返してきた結果、今となってはもう悪あがきはしないというスタンスで固まってきたように思います。

こういう人生があってもいいのだというような、ある種の達観したような感覚になってきたように感じています。これも、年齢というものの影響もあるんでしょうか。

そして、最近では、これも自分という人物の一つの特徴であって、それをどうにかしようなどと思う必要すらないのかもしれないと思えるようになりました。

人物としての自分の改造計画などは、きっぱりと放棄したほうがいいのです。たかだか80年くらいの人生の中で、自分をよりよいものに変えることなど不可能なことだと悟ることです。

その代わりに、本当の自分、人物でも人でもない究極の自己へと意識を向けることによって、一瞬にしてあらゆることを飛び越えることができます。

これは、とても小気味いいことなのです。あらゆる不都合が吹っ飛んでしまいます。悩ましい夢から覚めたときと同じような感覚かもしれません。

この世界で起こるありとあらゆることを貫いて静寂でいる自己に、心ゆくまで寛ぐことができることは、深い静かな喜びなのですね。

何かを欲しがる気持ち

91歳になる父親が、自分もケータイが欲しいと言い出だしたときに、家族から絶対に使わないのに、といって笑われてる現場を何度か見ました。

家族の誰もがケータイを持ってると、自分も持ってみたいという気持ちになるのは、分からないでもありません。

人間とは、そういうものですね。私自身も、実は今ケータイを持っていない状態なのです。今年の7月に電波の周波数帯が変わるとかで、強制的に使えなくなったのです。

それを期に、新規契約するのをやめてしまったのです。それは、これまでほとんどケータイを使うことがないままに、毎月使用料を取られているのがいやになったからです。

それなのに、昨日から iphone 5 が発売になったことで、また欲しがる気持ちがムクムクと出だしてきたのです。

私は普段ほとんど外出することがないので、実際ケータイを使うチャンスがないのです。常に、電話は固定電話で、メールはパソコンで用が足りるのですから。

この使いもしないのに、ただ欲しがるという子供じみた気持ちは、自分としては非常に馴染み深いものなのです。

以前、ネットですばらしい天体望遠鏡があるというのを知って、その記事を貪るように読んでいるうちに、どうしても欲しくなって購入したことがありました。

その後、たいして使わないままに、押入れの奥にしまいこんでいたものを、専門店に買い取ってもらおうとして、再度情報を得るためにネットの記事を読んでいたら、不思議なことが起きました。

それは、売ろうとしている望遠鏡の記事を読んでいるうちに、その望遠鏡がすばらしいものに思えてきて、入手したいという気持ちがやってきたのです。

今売ろうとしているというのにです!これには、笑いました。結局、何かを欲しがる気持ちというのは、都合の悪いことを忘れさせてくれる魔法のような力があるのですね。

何かを欲しがっているときに、自分は一体何を忘れようとしているのか、一度落ち着いてそのことに目を向けてみるのもいいかもしれません。

政治家に対する気持ち

私は、子供のころから政治家を目指すような人は、信用できないと勝手に思い込んでいました。自分でもなぜだか分からないのに、とにかく政治家の人たちを大人の中では一番信用できない人たちだと決め付けていたのです。

その理由が、つい最近になってはっきりと分かりました。それは、子供心にも本音を決して言わない人たちだということに気づいていたからです。

そのせいにするのは、いささか気が引けるのですが、ずっと長い間政治というものに興味を示すこともできずにきてしまいました。

信用できない人たちがうじゃうじゃいる政界というものが、自分にとってはもっとも遠い世界に違いないと感じていたのも事実です。

なぜ政治家は、特別な言葉づかいをするのでしょうか?それは、国を背負って立つ立場だから、友達に話かけるように話すことは難しいだろうと誰でもが思うわけです。

だから、「誠に遺憾に思います…」とか、「真摯に受け止めて…」、「毅然とした態度で…」などのいかにも公式の言い方をするのでしょう。それも分からなくはありません。

けれども、最近橋下大阪市長の発言を聞いていて、この人の言葉づかいには、違和感を感じないということに気づいたのです。ごく普通の言葉で、物事を表現してくれるので、とても聞きやすいのです。

誰かが、理不尽なことを言えば、「それ、おかしいでしょう!」と何のてらいもなく言ってくれます。「遺憾に思う」などといういかにも隙を見せないような表現を使わないのです。

自分が長い間持ち続けてきた、政治家全般に対するあの気持ち悪さをまったく感じなくて済むのですから、一気にファンになってしまいました。

従来の政治家さんとの根本的な違いは何なのでしょうか?それは、言葉づかいや表現の違いだけではないはずです。もっとも本質的な違いは、自己防衛の大きさなのだと思うのです。

誰からもなるべく非難されないようにと配慮すると、堅苦しいうわべだけの表現方法になってしまうのです。橋下市長のあの自然体は、自分を守ろうとしない心の表れなのでしょうね。

昔から、私利私欲に走らないすばらしい人は、たくさんいます。けれども、それに加えて頭脳明晰であって、なおかつ実行力が伴う三拍子揃った人は、そうそういないものです。

彼は、その三つともが揃っている類まれな人物ですね。日本が大きな変換点に差し掛かっている今、彼のような稀有な存在が現れてきたことは、必然なのかもしれません。