ずっと見つめているもの

あなたが死ぬとき、このことだけを考えなさい。死の前に、一つのことを解決するがいい。つまり、あなたは苦しんではいない、ということだ。それから、死に入っていくときには、問い続けることだ。 『この、苦しんでいない人とは誰なのか?』と。

by osho

この問い続けることは、実はいつでもどこでもできることであって、死ぬ時に特化したことではないということです。

いつだって、これは誰?これは何者?これは何?ということを問い続けることができるのです。

このずっと一緒に在るもの、激しく動き回ったりあらゆる反応を繰り返すマインドの後ろにずっとくっついて、静かにしている何か。

マインドの活動が盛んになると、すぐにその存在を忘れてしまうのですが、忘れようが思い出そうがそれがなくなったことはないのです。

私たちはマインドこそが自分自身だと思っているのですが、それならそのバックに控えている形容し難いこれは一体なんなのか?

嬉しい時に一緒に喜ぶわけでもないし、苦しい時、辛い時に一緒になって苦しんでくれるわけでもない。

ただただじっとそこにいて、いつも見つめているもの。本当はそっちが本来の自分なのだと分かるまで、それは辛抱強く待ち続けているのです。

何かの拍子に、そちらからマインドを見ている瞬間を感じるときが誰でもあるはずなのですが、マインドは巧妙にそれを忘れさせようとするのです。

それでもずっと在るもの、そこにすべてを委ねて見たら世界が違って見えてくるかもしれないですね。

マインドの中の一対の思い

もしもあなたに好きな人がいて、その人と結婚することになったら喜びも大きくなって、自分はなんて幸せなんだろうと思うでしょうね。

ところが、いざ結婚式を直前に控えて、急に何か不安や落ち込むような気持ちになったとしたら、それがいわゆるマリッジブルーというものですね。

なぜそういうことになるかというと、マインドの中には互いに反する一対の思いがあるからなのです。

つまり、結婚したいという気持ちがあれば、結婚したくないというマインドの部分もあるということ。通常、一対のうちのネガティブな方は隠されていて、気づきにくくなっています。

それでも、大抵の場合には結婚したい気持ちの方が強いために、無事結婚することになるのですが、場合によっては直前になって結婚を破棄することもあるでしょうね。それは結婚したくないという気持ちの方が大きかったからです。

初めから両方の気持ちがあるということにしっかりと気づいていられたら、いろいろなトラブルは事前に余裕を持って回避することができるはずです。

結婚に限らず、マインドの仕組みとしてこうしたことを日頃から理解しておくことは大切なことなのです。

もしもあなたが、やらねばならないことをギリギリまでやらずにいるとしたら、やりたくないという気持ちがあるということです。

そして、やらなければという気持ちが強ければ強いほど、やりたくないという方もそれに合わせるようにして強くなるのです。これがマインドの仕組み。

仕事で失敗してはいけないという思いが強ければ、それだけ失敗させてやるという隠された思いも強くなってしまうのです。

マインドの中に隠された一対の裏の部分の存在をいつも認めて、見てあげられるなら、それに乗っ取られずに済むはずなのです。

そしてさらに言えば、防衛からくる思い(上で言えばやらねばならない、失敗してはいけない等)を小さくすることができるなら、その一対の裏側の思いも小さくなるのです。

それを極めれば、中道を生きるという状態になるのです。その時、マインドは力を失うことになるでしょうね。

怒りは悪者ではない

幼い頃に、親などの激しい怒りに触れて、物凄くいやな思いを繰り返してしまうと、「怒り=忌み嫌うもの」という図式ができてしまいます。

それともう一つ、「怒り=怒りをぶつけること」という間違った思い込みをすることにもなるのです。

そうなると、怒りはもう完全に悪者であり、理不尽に激怒するあんな親のようには決してなるまいと決意するのです。

それでも思い余って拳を振り上げることがあれば、それこそ親に倍返しの目に遭わされて、それでもう完全に怒りを封印してしまうのです。

こうなると怒りを抑えるという自覚もできなくなります。自分は怒りがない人間なのだという身勝手で都合のいい解釈をしてしまうのです。

この社会では、怒る人よりも怒らない穏やかな人の方が良しとされるため、怒らない自分はいい人間なんだと勘違いもするかもしれません。

問題は、怒りを知らずに蓄積してしまうと、どうしても理不尽な怒りをぶつけられる羽目になってしまうことです。

そうして、怒りを抑える回路とそれを打ち破ろうとする自然の力がマインドの中で激しく闘うことになるのです。

こうなると地獄の毎日が繰り返されることになるでしょうね。はたから見れば、何であの人はあんなひどいことをされてるのに、文句も言わずにいるのだろうかと…。

怒りは単なる感情なので、怒りをぶつける、怒りを抑圧する、怒りを感じる、この三つの状態があるのですが、このことにまずは気づくこと。

そしてほんの少しの感情の揺れ、少しイライラする、あるいはちょっとムカッときた、といったチャンスを逃さずにそれを感じてあげる訓練をすることです。

そうして怒りは悪者ではなく、自分の大切な感情の一つなのだということに気づいていければ、自然な怒りを感じられるようになるはずです。

マインドの傍観者になる

東京では今ちょうど桜が満開を迎えていますね。今年は冬の気温が平年よりも低かった感じがしていたので、開花が遅れるものと思っていました。

けれども低温から急激に気温が上がるときには、かえって桜は急いで咲こうとするらしいので、逆に平年よりも早く開花したのでしょう。

もう随分前のことですが、花見で一番人出が予想される日に、井之頭公園に行ったことがあったのですが、人人人でごったがえして身動きが取れない状態で、すぐに帰ってきたことがありました。

あのどっと繰り出すのがとても苦手なのです。だから、一番いい時期に桜の名所を楽しむことができない性分なのです。

人酔いするという言葉があるように、人がたくさん集まるとごちゃっとしたエネルギーが渦巻いている感じがして、息苦しくなるのです。

クライアントさんには、そういった敏感なタイプの人がたくさんいるようですね。繊細だからこそ、いろいろ生きづらいことが出てくるのでしょうから当然と言えば当然ですが…。

実のところ、敏感か鈍感かということが問題なのではなく、本当はどうマインドが反応するのかということ。

そしてその反応に巻き込まれずにいて、それをただ見ているマインドの傍観者になることができればいいだけなのですね。

受け容れも拒絶もしない

受け容れもしない
拒絶もしない
実際、やるべきことなど何もないのだ
あなたは何をやるのを要求されているわけでもない
あなたに求められているのは
ただ単にゆったりと自然にあなた自身でいて
ものごとの起こるのを許すことだけだ

by osho

私たちにとって、もっとも自然なこととは「ただ見る」ことなのです。見るというと、何か能動的なことのように思いがちですがそうではありません。

見るというのは、ただ気づいている状態ということで、これが本来の覚醒している意識のあり様なのです。

けれども、マインドが自己防衛のために否定や拒絶を普通に繰り返しているために、最初はその真逆に行こうとしてしまうのです。

それが、肯定だったり受容ということになるのです。本来、どちらでもないど真ん中というのは受け容れるということもしないのです。

↑で言っているようなことは、あまりにもシンプル過ぎてマインドには不可能なことなのです。マインドは何かするべきことがなければもたないからです。

だからこそ、ただ単にゆったりと自然に身を任すとか、ものごとの起こるのを許すということが一番難しいことと感じてしまうのです。

ここで書いていることは、私たちがマインドと同化している限りは不可能なことです。要するに、マインドから離れることでしか自然ではいられないと気づくことですね。

成すことよりも在ること

世の中には、超一流と言われる人たちがいますね。超一流の芸術家、超一流のスポーツ選手、超一流の料理家、建築家、学者、政治家、作家、文化人、その他諸々。

一般人から見ると、そういう人たちはどこか出来が違うと思われがちですが、同じマインドを持っていることに違いはありません。

ピカピカなマインドというものがないのと同じように、汚れたマインドというものもないのです。

ということは、超一流の人たちも凡人と同じように、苦しんだり喜んだりして、結局同じような人生を送っているということですね。

たとえば、オリンピックで金メダルを獲るような超一流のアスリートだからといって、マインドが病んでいないということはないということ。

かえって過酷な幼少期を送ってきたことをバネにしているかもしれないし、選手生命が終わってしまった時に、マインドが悲鳴をあげる場合だってあるのです。

人生において大切なことは、なにを成し遂げたのかということではなく、マインドとの同化に気づいていること。

マインドからはずれて真実に気づくことだと思うのです。偉業は一過性のことであって、それは物語の中に埋もれてしまうものです。

成すことよりも、在ることに意識を向けていられるといいのでしょうね。

マインドを改善するのではなく、見守ること

強欲を見守りなさい
怒りを見守りなさい
性欲を見守りなさい
所有欲を
嫉妬を–
ひとつだけ覚えておかれねばならないこと
同化されてしまわない
ただ見守るだけでいい

by osho

マインドというのは、常に何か問題があると思えばそれに対処しようとしてしまうのです。

自分の中にある強欲さを見つけてしまうと、それはいけないとして何とかその強欲さを捨て去ろうとするのです。

怒りを感じた途端に、あるいはそれを感じる一瞬前に、怒りは悪者だと判断してそれを押さえつけようとするのです。

性欲が襲ってきたら、どうにかして我慢しようとするのです。嫉妬に苦しむときには、嫉妬をしない穏やかな人格になれたらと思うのです。

けれども、こうしたものはすべてマインドのシステムの中に組み込まれているものであって、それらを失ったマインドというものはないのです。

そのことを深く理解した上で、覚えておくべきことはただマインドを見守るということ。

見守り続けることができたなら、必ずマインドとの間に距離ができてくるのです。そうなったら、マインドとの同化ははずれてくるのです。

自分のマインドがどうであれ、それは所詮ただのマインドなのです。マインドをどれほど磨いてもマインドの同化がはずれるどころか、それはマインドとの同化を深めるだけ。

マインドを改善しようとせずに、ただ見守ることですね。

欲と執着は一心同体

先日大相撲の放送を見ていたら、解説の人がある力士についてコメントを述べている時に、この力士は「欲がない」というようなことを言っていたのです。

それでびっくりしたと同時に、相撲の力士にとって欲がないというのは致命傷なのではないかと反応したのです。

何が何でも勝ちたいという強い思いがあって初めて、過酷な格闘の世界で頭角を表すことができるわけなので。

勝ちにこだわる強い意志がなければ、すべての力を出しきるのは難しいのではないかと感じるわけです。

その力士の番付が何だったかは覚えていないのですが、そこそこ上の方の人だったように記憶しているのですが、欲がなくてもそこまで上がってきたのは、生まれながらの才能なのかもしれませんが。

この社会においては、「欲がない」というのはネガティブなこととして受け取られるのでしょうね。

働き盛りの人に欲がなければ、隠居の老人のような印象になってしまうかもしれません。これでは、社会で成功者にはなれないのです。

私自身、幼い頃から「欲がない」ということを言われてきた記憶があって、そのことにある種の自己否定的な感覚を持っていたのです。

ある程度の年齢になってからは、欲がないことは一概に悪いことだとも言えないという反論ができるようになって、楽になりました。

欲がないと、いわゆる成功者にはなれない可能性が大なのですが、その分執着心が小さいというメリットもあるということに気づいたからです。

今では、欲が小さくなればなるほどマインドのエネルギーも小さくなるということが分かっています。欲と執着は一心同体のようなものです。

世界でどれほど成功しても、マインド(エゴ)が強ければ、それだけ不満が大きいということも確かなことです。

それでも多くの人々にとっては、マインドの力を小さくするなどということには興味はないのでしょうね…。

人生はつまらないと思っている人へ

なんて言うのか、私の場合なのですが、人生が充実していると感じたことがほとんどないのが実情なのです。

人生だから、いい時も悪いときもあっていいし、確かに今日は楽しかったとか、仕事が充実していると感じたこともあったと思います。

けれども、それが長く続くことがないのですね。何かをやり遂げても、達成感はほとんど一瞬にして消えていってしまうし。

全体としては、うまくいっているのではないかと思ったりもすることがあって、それでもすぐにそれも消えて、普通の状態に戻るのです。

この世の春を謳歌する…なんて言葉がありますが、そんなことはただの一度も経験できたことはありませんでした。

これさえ手に入れば、これが実現したら本当に満ち足りるはずだと思っても、そうはならないということを原理的に理解してしまったのです。

だから、どうやって生きてるかというと、希望という希望もない代わりに、絶望もないという感じですね。

最近では、苦悩のすべてがマインドからやってくることが分かったので、マインドのエネルギーが小さくなることこそ、救いへの道だと思うようになったのです。

そうなると、退屈を感じたり、つまらなさを感じたときには、ただマインドが困っているだけだと捉えるようになったのです。

そのおかげで、マインドが沈んでいるときや、否定的な感覚に丸め込まれていても、そのことを悪くは思わないでいられるようになりました。

マインドとして生きる代わりに、マインドをただ見守るようになれば、もっともっとマインドは小さくなっていくようですね。

信頼を学ぶとは?

もしあなたが惨めならば
ほかに救いは何もない
信頼を学ぶことだ
もしあなたが人生に何の意味も見出せず
虚無感を抱いているとしたら
ほかに救いは何もない
信頼を学ぶことだ
信頼が意味を与えてくれる
なぜならば、信頼はあなたをして
全体があなたに降臨することを可能にしてくれるからだ

by osho

マインドの仕組みを調べてみれば分かるのですが、どのマインドであれ惨めさの上に立って生きているようなものなのです。

特に幼い頃は、惨めさが凝縮しているのです。惨めさとは、期待値と現実とのギャップの大きさに比例するのです。

そして、誰もがその惨めさから脱出しようとして奮闘努力をするわけです。自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとして頑張るのです。

それを人生と呼ぶわけです。どんな方法を使って惨めさを解消しようとしても、それが救いになったことはないと言っているのですね。

結局はその努力そのものが惨めさを証明しているようなものだからです。どんな喜ばしい結果が手に入ろうと、それも一時的なものでしかないのですから。

人生において、なにを手に入れようとも、また惨めさがジワジワ迫ってくるのをどこかで感じなければならないのです。

だからこそ信頼を学ぶ以外には、本質的にはどんな救いもないと言っているのですが、実際に信頼を学ぶとはどういうことなのでしょうか?

信頼とは、思考のないところで起こるものです。つまり、それはマインドの内側にはないということです。

マインドとの間に隙間ができれば、自然とそれが信頼を感じられるようになるのです。だから、常にマインドを見守ることが必要なのですね。