他人の気持ちが分かるって本当?

敏感な人というのは、そうでない人に比べて、他人の気持ちが手にとるように分かってしまうと言うことが多いのです。

場合によっては、その人が気づかないようにしている裏の気持ちすら分かってしまうこともあるかもしれません。

だからこそ、他人のことを気にするあまりに自己犠牲がやってくるハメになったりもするわけです。

ここではっきりさせておいた方がいいのは、他人の気持ちが分かってしまうという感覚は、確かにそうなのでしょうね。

そして実際に当たっているかもしれません。けれども、違っている可能性も否定はできないということです。

なぜなら分かったつもりでも現実に相手に気持ちを確認したわけではないからです。つまりは、分かった気になっているだけの場合もあるかもしれないのです。

その可能性を否定するのはおかしなことです。だから一番現実的なのは、私はこのように感じているけれども、本当のところはどうだか分からない。これです。

なぜ分かった気になってしまうのかにも、理由はあるはずですね。それはきっと、他人の気持ちを分かることでリスクを回避できると思い込んでいるのでしょう。

分かればそれなりの対処をすることができるからです。分からないでいるなら、突然相手の気持ちをぶつけられて、ショックを受けることにもなりかねません。

つまりは、他人の気持ちが分かってしまうというのも、一つの自己防衛に過ぎないと言えるのです。

分かったとしても、それをなるべくそのままにしておくという方法を身につけることも、敏感さんが上手に生きるには必要なことだと思いますね。

思考に彩られた世界

私たちが暮らしているこの世界は、確かに存在はしているのですが、私たちが見て認識しているようには存在していないのです。

なぜなら、私たちの認識というのは基本的には思考を介在させているからです。思考があまりにも自然に溶け込んでしまっているので、それと気づかないだけ。

例えば、背の高い人がいれば低い人もいて、太っている人もいれば痩せている人もいる。これは事実ではなく、そのように見ているだけなのです。

どんな姿をした人も、ただそのように在るだけなのです。そこにどんな説明を加えたとしても、それは思考の世界なのです。思考が判断を生み出すのです。

私たちは一見何かの目的を持って生きているように感じていますが、それも思考によるもの、ただのイマジネーションに過ぎません。

思考の外には、どんな目的も意味も価値もありません。正確には、あることもないこともどちらもないのです。

思考の世界に棲んでいる私たちからしたら、思考のないあるがままの世界なんてあまりにも無味乾燥でつまらない。そう感じるはずです。

けれども、それは思考にまみれた自我の想いにすぎません。自我のない思考のない世界では、それがあるようにあるだけ。

その時には自他の区別すら消えてしまうことになるでしょう。なぜなら自他の区別も思考によるものだからです。

ただ在ること

科学というのは客観的な事実に基づくものです。理論を打ち出すだけでなく、それを様々な実験を通して客観的データに落とし込むのです。

それができて初めて、その理論が証明されたことになるわけです。それに対して、哲学というのは主観的なものです。

どんな実験も必要ではなく、すべてはマインドの思索によって証明しようとするものですね。

では、客観的なものと主観的なものを超えるものはあるのでしょうか?実はそれこそが真の宗教です。

間違って欲しくないのは、私たちが日常的に知っている身近な宗教はその限りではありません。

正しさを教えたり、倫理観や道徳観などを教義としているものは、残念ながら自我により作られたものです。

真の宗教には、教えと称するものはありません。それはただ在ることを標榜するのみだからです。

ただ自然であることで、私たちの本来の姿に戻るだけでいいと理解させてくれるのです。何も否定しないし、何も肯定もしません。

あらゆる思考から離れられた時に、それは自ずとやってきてくれるのです。いつかは誰もがそれを思い出すことになるでしょうね。

イマジネーションから離れる

この宇宙のバックには真理のみがあり、その真理の上にかりそめの現象界が広がっているのです。

かりそめと表現したのは、真理以外のすべては一時的なものでしかないからです。いずれは消失して真理へと戻っていくのです。

広大無辺の真理に想いを馳せてみると、私たちが暮らしているこの現実世界を思考によって作り上げていることがよく分かるのです。

日頃私たちが大切にしているもの、例えば「価値」や「意味」、あるいは「罪」や「正しさ」と言ったものが、すべて思考によるものだからです。

そのことを決して忘れてはならないのです。価値も意味も、罪も正しさもどれもこれも実在しないもの、イマジネーションの世界のものだということ。

それなのに、私たちはそういうものを時には命を賭けても守ろうとするのですから、目を開ける必要がありますね。

目を開けるためには、真理を見ようとすることです。真理を見る目を養うことができたら、イマジネーションを実在とは思わずに済むのです。

思考がない状態では、どんなものであれ価値があるとかないとかが消えてしまうのです。意味も同様にしてあるでもないし、ないでもない。

罪深いなどというイマジネーションにダマされないこと。そして正しさを拠り所にして生きることから離れることですね。

身体の不調は、幼児期の訴えからくる

今から100年以上も前に、フロイトは人の心の中には潜在意識という部分があることを発見しました。そのころの常識からしたら、きっと画期的な発見なのでしょうね。

現代では、自覚できている部分と潜在していて自覚できない心の部分があることくらいは常識的に誰でも知っています。

けれどもどのようにして、自覚しているマインド(表面意識)と自覚していないマインド(潜在意識)とに分裂してしまったのかを詳細に理解している人は少ないのです。

もしも潜伏している部分が小さいのであれば、きっと問題は起きないのですが、マインドの実態はその逆なのです。

つまり、自覚できている部分は、潜伏している部分の1割程度しかないと言われているのです。だから時として、非常に面倒なことが起きてくるのです。

両者が正面切ってガチで綱引きしたら、当然潜伏している側の勝利になるのです。残念ながら、自覚している側は理性と共に負けてしまうのです。

もしもあなたが、自分は何であんなことをしてしまったのだろうと思うことがあったら、その時には潜伏側に負けたのだと理解することです。

しかも、潜伏している部分の最も奥深い部分は、実は身体と密接に繋がっていて、それが自分の身体をコントロールしていると言っても過言ではありません。

だから身体の不調などは全て、非常に幼い頃のマインドが残っていて、それが何らかの満たされない思いを身体を使って表現しているのです。

身体の声を聞くということは、幼い頃の自分の正直な訴えを聞いてあげることに繋がるということを理解することですね。

死は敵ではない

子供の頃や、10代20代の頃は死というのは他人のものでした。いつも誰かが死ぬのですが、それが自分にも該当することだという感覚は少なかったのです。

ところが、年齢を重ねてくると死が身近なものに感じられるようになり、自分の視野の中に入ってくるようになったのです。

身体が比較的健康な時であれ、不健康な時であれ変わることはありません。そしてそのことは、決して悪いことではないと思っています。

逆にとても大切な気づきだなと感じるのです。外側から手に入れたものは、いつか必ず消えていくものです。

それと同じように、自分の命もどこかの時点で消えていくのですが、それは当然のこととして受け入れる必要があるのですね。

無からやってきて幻のような短い人生が起きて、そしてそれは必ずや無の中へと戻っていくのです。

だから無と無の間にあるこの生も本当は無なのです。無の味わいを持って日々を生きるなら、死を歓迎できるような気がします。

そして本当に死を受容した瞬間、死はその効力を失ってしまうのです。あなたの本質である無は死後もずっと無であるからです。

本質への帰還の旅 補足

昨日のブログ記事の補足をしたいので、昨日のブログを読んでいない方はまずそちらの記事を読んでから、こちらを読んでください。

昨日のブログでは人生というのは、自我という不自然な自己を作って本質から離れることで、本質について気づくための旅だというお話しを書きました。

それも本質への帰還の旅の最終章なのです。ここまでやって来るまでにどれほどの章を超えてきたのかは分かりません。

ただ、人間になるまでには鉱物から生物への進化、そして単細胞生物から多細胞生物へと気が遠くなるような時間を費やしてきたのは事実です。

そして複雑な植物や動物へと進化を遂げてきたわけです。ただ人類に到達するまでは、進化は遂げたものの依然として自然のままだったのです。

だから、どれほど知性の高い動物であっても、全体性に気づくことはできないのです。自然のままでは、その中にある限りは気づけないのです。

自然から離れて、不自然の中へと入り込むことができたのは、人間が自我を生み出したおかげなのです。勿論幻想の中でということですが。

だからもう少しで、この旅は終わりを迎えることになるはずです。もう最終章のそのまた終わりに近いような気がします。

誰が旅のどのあたりにいるかなどというレベルではないのです。旅全体を見渡して見たら、誰もが同時に帰還することになるのでしょうね。

本質への帰還の旅

私は高校を卒業するまでの間、ずっと親元で生活を一緒にしていました。家族とはたまには会わない時があるものの、ほとんどは毎日顔を会わす生活でした。

それが大学に入ってすぐに、アパートでの一人暮らしが始まったのです。学校が少し家から遠かったためと、一人暮らしに憧れていたからです。

家族から離れて日々が過ぎて行く時に、何となく家族はどうしてるかな?大丈夫かな?という少し気遣うような感覚がやってきたことがあったのです。

生まれて初めて味わう感覚だったので、少しびっくりしたのを覚えていますが、自分も少しは大人になったのかなと思ったものです。

けれどもそれは大人になった証などではなく、離れたことによって初めて気付く感覚なのだと今なら分かるのです。

「失くして初めて分かる◯◯のありがたさ」のような言葉がある通り、ずっと身近にあるものは、それが当たり前になってしまうということです。

で、ここからが今日の本題になるのですが、私は時々なぜ自我のような面倒臭くて辛く苦しいものと自己同一化してしまったのだろうと考えることがありました。

それは、一旦自我となって自己の本質から離れる(離れたと思い込む)ことで、本質を深く知るためなのではないかということです。

私たちの本質である全体性には、欠けるものがありません。それは全てだからです。そこには孤独も不足も不安も何もないのです。

けれども、そのことを深く知るためには一度本質と対極になったふりをすることが必要なのです。

全体性という自然から離れて、個別性という不自然な体験をすることで、全体性への渇望を通して、帰還しようとする衝動がいずれはやってくるのです。

自我の人生とは不自然なことばかりで成り立っているのです。そして行き着くところまで行った後、今度は自然が恋しくなるのです。

その先には覚醒という本質を思い出す瞬間が必ずやってくることになるのでしょうね。だから、それまでは大いに自我の不自然人生を楽しめばいいのです。

ワガママという自覚は怪しい

クライアントさんの中には、ご自身のことをワガママだと思っている方が時々いらっしゃいます。

それをお聴きするたびに違和感を感じつつ、どういったことでワガママと感じるのかを確認します。

そうすると案の定、これと言って大したこともないのに、ご本人はワガママだと決めつけてしまっているのが分かるのです。

客観的に本当にワガママな人というのは、案外ワガママである自覚を持っていない場合が多いのではないかと思います。

ではなぜ自分のことをワガママだと思い込んでしまうのか?その理由は大きく2つあると思っています。

その一つ目は、親にお前はワガママだと繰り返し言われて育った場合です。子供はそれを真に受けてしまうのです。

それが大人になっても、根強く残ってしまってまるで信念のようになってしまっているということなのです。

そして二つ目の理由は、普段からいい人を演じてしまっている場合、その自己犠牲が裏で怒りを溜めることになるのです。

その結果、怒りに任せた言動を出してしまう事があると、いい人の自分からはワガママであるように感じられると言う事です。

もしもあなたが自分はワガママだと思っているのでしたら、上記のような事に該当しないか、一度しっかりと見つめてみるといいかも知れませんね。

真理は非論理的

よく言われることですが、男性は論理的であって女性は非論理的だと。一般論なので、正確さには欠けるもののそこそこ外れてはいないなと感じます。

だとすると、男性に比べて女性の方が遥かに真理に近いということになるのです。そしてそれは本当なのです。

論理とは思考であり、思考は理解することでそれを支配できたと思い込むのです。論理によって理解してしまえば、怖くなくなるのです。

ところが非論理的な事柄というのは、思考によっては理解することが難しいのです。だから男性は怖がるし、それに対して攻撃的にもなるわけです。

論理は思考の塊であるマインドのものであり、非論理はハートのもの。つまりは、男性よりも女性の方が多くハートを用いて生きているということです。

ハートは全く論理では歯が立ちません。マインドは論理で理解できないものを得体の知れないもの、あるいは神秘的なものと捉えるのです。

女性はハートからやってくる知らせに気づくことができますが、男性はハートからの声を聞くことができないのです。

ハートは静かに囁くだけですが、マインドは暴力的な大声で人を支配しようとするからです。

男性の多くが、女性のようにハート優位に生きるようになれたら、人類の波動が変化することになるでしょうね。