仮想現実もただの物語

私たち人間は、興味のあることなら何であれ体験したいと願っている生き物ですね。けれども、現実はそう簡単にはいかないのです。

実際に体験できない理由は山ほどあるからです。たとえば、やりたくても財政的に無理ということもあります。

あるいは時間的な余裕がないとか、体力がついて行かない、倫理的によろしくない、ほかにも危険過ぎてできない等々。

そういった諸々の制限を超えて、やった気にさせてくれるものがありますね。それがバーチャルリアリティの世界。

最近では、ゴーグルを着けてあたかも自分がその世界にいるような錯覚を与えてくれるくらいにリアルな体験ができるのです。

こう言ったことは今後も益々発展していく分野の一つなのでしょうね。最終的には、眠っている間に超リアルな夢を作り出してくれる装置が開発されると思います。

そうなると、そればかりに耽ってしまう人が続出してしまうかもしれません。アルコール中毒や薬物中毒よりも、もっと中毒性が強いかもしれません。

ただどんな世の中になったとしても、現実の人生物語であれ、仮想現実の中の物語であれ、それを観照する側でいることの大切さは変わらないのですね。

<無>という真の目的地

本来の目的地は、あなたが母親の子宮のなかで持っていた純真さだ。あるいはさらに深く進むと・・あなたがそこからやって来た<無>、それが本来の目的地だ。自然に生きることはそれを知るという意味だ。さもなければ、あなたはかならず、ある人為的な目的地を創りだすことになる。

by osho

私たちが人生の中で創り出す目的地、それを人為的な目的地と↑上で言っているのです。社会によって、社会に順応するように目的地が考案されるのです。

それは社会を作り出した自我によって編み出された目的地です。それがいいとか悪いということではありません。

そうした目的地というのは、思考によって作り出された物語には欠くことができないものなのです。つまり物語の目的地だと見抜くこと。

私たちの本質はその物語の中にいるのではないし、したがって物語の目的地へも向かっているわけではないということ。

自我にとって最も難しいのは、自然に生きることです。なぜなら、自然体、純粋無垢であるなら、それこそ自我は成立しなくなってしまうからです。

逆に言えば、自我が消えた時こそ真に自然に生きることになるのです。そのときに初めて、私たちは<無>という真の目的地へと戻ることになるのですね。

絶望が鍵

あなたは目覚めなければならない。目を覚ましているのは骨が折れる。なぜなら数知れぬ夢が打ち砕かれるからだ。しかも、これらの夢には、あなたのあらゆる喜び、いわゆる野心や成功のすべてがからんでいる。まさにあなたの自我全体がからんでいる。その自我がこなごなになる。

by osho

自分の人生を思い返してみると、野心とか成功ということと縁のない生き方だったかなと感じます。

実際、子供の頃から野心というものがありませんでした。人並みにあれが欲しい、これが欲しいというのはあったのですが、自分がどういう人物に成長していくかということに無頓着でした。

その野心のなさがどこからくるのかは定かではありませんが、セラピストになったのはその部分と関連があるのかもしれません。

どんなものにも興味があまり続くことがなく、人並みに趣味をやってみたり、いろいろ自分なりに試したりしたのですが、ダメでした。

もしかしたら、幼い頃に心の奥の方で絶望していたのかなとも思うのです。絶望の理由は分かりませんが、とにかく将来の夢などというものが全くイメージできなかったのです。

ただ流されるがままに生きて、40代半ばまで来たときに絶望は絶望のままでいいじゃないかという方向へ舵を取ったのかもしれません。

絶望は自我からすると非常に困ったことですが、目覚めるためには必要なことだということが分かってきたのです。

ただ、目覚めるということを欲望として利用するなら、これほど馬鹿げたことはないですけど。

人生、絶望が鍵のような気がします。何かに絶望しているなら、目覚めるための大きなチャンスがやってきてるということですね。

トラウマは原因ではなく結果

現代人はトラウマという言葉をごく普通に使うようになりましたね。私が子供の頃は、まだ今ほどは一般的な言葉ではなかったと思います。

トラウマという言葉の語源は、単に「傷」を意味するギリシャ語だったのですが、もう100年も前にフロイトが精神的外傷を意味する言葉として使ったのが始まりでした。

過去に体験した強い心理的な傷(トラウマ)が、その後も精神的障害をもたらすことになるという、フロイトの理論が彼の精神分析入門に記されていたのです。

彼自身もこれほどまでに一般的に使われる言葉になるとは、想像もしていなかったでしょうね。

けれども、それくらい心の傷ということに誰もが敏感になったということなのだと思います。

ところで私自身は、セッションのなかでトラウマという言葉を使うことは滅多にありません。なぜならある勘違いをされる場合があるからです。

私のイメージでは、トラウマ体験というのは何か特定の体験だったり、個別の事象によって傷つくことを指すのです。

ある人に◯◯という言葉を言われて、それがトラウマになったという具合に使われることが多いのです。

そうだとするなら、トラウマ体験というのは実は結果でしかないのです。トラウマ体験は偶然にやってきたものではないということ。

その体験を引き寄せる大元の原因があるのです。それは一つの体験というよりも、マインドが作られていく初期の段階における環境全般なのです。

朝起きてから夜寝るまでに幼い子供が吸収する家のエネルギーとも言えるもの。よく、英語のシャワーを毎日浴びれば英語が話せるようになるといいますね。

あれと似たようなものだと思えばいいのです。毎日浴びるネガティブな思考のエネルギー、感情エネルギーが知らず知らずのうちに子供の心の奥へと浸透するのです。

そのエネルギーがそれ以降に起こるトラウマ体験を引きつける原因となるのです。その部分に気づいて、少しずつそのエネルギーから離れていくことこそが、癒しの根本なのですね。

死も生も恐れずに生きるには?

死は敵ではない。それがそう見えるのは、私たちが生にあまりにもしがみついているからだ。死の恐怖は、執着から湧き起こる。そしてこの執着ゆえに、私たちは死の何たるかを知ることができない。それだけではない、生の何たるかを知ることもできないのだ。

by osho

私たちにとって、自分の人生というのはまさに現実であるかのように見えるのですが、それは思考が作ったものなのです。

作り物ではないと信じているからこそ、生に執着してしまうのです。人生がすべてだと思い込むことで、それを亡き者とする死が敵に見えるのです。

死は自分と自分の人生からあらゆるものを奪い取るように感じてしまうのですが、本当は思考が作った夢から醒めるだけなのです。

勿論醒めてしまえば、夢は跡形もなく消えてしまうのですが、それは元々実在していなかったのですから本当は何一つ奪われてはいないのです。

ただあまりにも深く思考に絡め取られているために、死が訪れてもそのまま思考が作り出した次の惨めな人生へと受け継がれるのです。

本当の生は、思考とは無関係に実在するという気づきがあれば、死への恐怖がなくなるだけでなく、生を恐れずに生きることができるのでしょうね。

答えは無からやってくる

持ち歩いている解答をすべて落としなさい。ただ沈黙していなさい。すると、問いが起こってくるたびに、その沈黙のなかから答えが聞こえてくる。それこそ、答えのなかの答えだ。それはどこでもないところからやって来る。それは何でもないものからやって来る。それはあなたの内奥にある無から来る。

by osho

ただ沈黙していなさいというのは、ただ黙っているということでは勿論ありません。沈黙とは無思考であるということです。

私たちはできるだけ多くの答えをあらかじめ用意して持っていようとするのです。なぜなら、事が起きた時になるべく困らないでいられるために。

答えが見つけられなければ、困ることになり、それは不安になるということを意味するからです。結局不安がいやなのですね。

だからたくさん答えを持っている人を私たちは尊敬するのです。けれども、それはエゴの答えであり、思考によって作り出したありきたりのものなのです。

答えのなかの答えは無からやってくると↑上で言っています。それは、真の答えとはその瞬間にやってくるものだからです。

あらかじめ用意された思考による答えのような既製品ではありません。本当に大切な答えは、思考ではなく無からやってくるということを覚えておくといいですね。

瞑想するエゴを見守る

あなたが身体でも心でもなく、ただ純粋な意識、看る者だったときの本来の顔を思いだし、自覚すること。それこそが、あらゆる瞑想の目指すものだ。

by osho

今日の osho の文章はとてもシンプルで本質的なものですね。瞑想は目指すものではないけれど、これも一つの方便です。

初めはエゴが瞑想を始めるのです。エゴ自体がエゴから離れようとする自己矛盾の中で瞑想が開始されるわけです。

この時二つのことが同時に起きます。一つは、エゴがこっそりと瞑想を通して価値ある自分になろうとし、もう一つは本当にエゴが弱体化していくということ。

この相反する二つのことが同時に起きようとするのですから、なんとも面白いものだと思います。

そして多くの場合、エゴは瞑想を通してより賢く振る舞うことができるようになります。自分は精神的に高度なところに来ていると思うわけです。

気づかぬうちに、瞑想しない人々を見下すようにもなるかもしれません。というよりも、そういったことはほぼ間違いなく起こることです。

大切なことは、そういうエゴをそのままに見守り続けるということです。そういう瞑想こそが、いずれはエゴが薄れていくことを促す結果となるのでしょうね。

もっともっと注意深くなれ

真の友人とは、あなたにアドバイスをするのではなく、あなたが生に対して─その問題、そのチャレンジ、その神秘に対して─もっと注意深くなり、もっと気づき、もっと意識的になるのを助ける人だ。

by osho

真の友人かどうかは別にして、セラピストというのは人生の中で起きている事柄の一つひとつに対する助言をするわけではありません。

そういうことは、下町の気のいい相談おじさん、世話焼きおばさんに任せておけばいいのです。勿論そういう人の存在も大切です。

けれども、個々の案件ごとに行われるアドバイスというのは、本人にとっての一過性のものに終わるのです。

なぜなら、次の案件が持ち上がった時には、また次のアドバイスを求めなくてはならないからです。

最も重要なことは、案件に対してどう対処すべきかではなく、それを注意深く見守ることを覚えることなのです。

自我の仕事は問題を見つけてはそれに対処すること。これを一生やり続けるのが自我なのです。

その自我を常に意識的に見守ることができるなら、もうどんなアドバイスも不要になってしまうはずなのです。

私自身についても、そしてクライアントさんにとっても目指しているのはその一点だけなのですね。

決してどんなものにもならない

あなたが自分は善人やあるいは悪人に

罪人やあるいは賢者になったと思ったとしても

それはただの考えにすぎない

なぜなら、あなたの内なる空は

決してどんなものにもなりはしないのだから

それは<在るということ>なのだ

それは決してどんなものにもなりはしない

by osho

私たちの自我というのは、とにかく何かにならなければならないと思い込んでいるのです。それはもう脅迫神経的にまでなっています。

社会的に言えば、ひとかどの人物になるといった抽象的なものから、より具体的な職業がその人のなるものの場合もあります。

たとえば俳優だとかミュージシャンだとか、医者や教師。私の場合で言えばセラピストなのです。

けれども、あなたは誰ですか?と言われてすぐさま思いつくのは、決してセラピストではありません。

勿論善人でも悪人でもなく、賢者や修行者でもありません。何かになるというのは、自我の妄想なのです。

あなたが何かになるというのはほんの表層のことであって、本当のあなたは何かでも誰かでもなく、ただ在るのです。

自我の妄想である、「何かになる、誰かである」というのをただ見ていてあげることです。

そうすれば、あなたは決してどんなものでもないということを忘れることはないはずですね。

生まれも消えもしない

ただ純粋な意識

どんな名前も

どんな形も持たないただの純粋性

ただの無形性と無名性

ただ醒めてあるという、まさにその現象そのもの

ただそれだけが踏みとどまる

by osho

それはそうなんでしょうね。なぜなら、何かであればそれはいつか必ず消える運命にあるからです。

何でもなさ、何者でもなさ、その純粋性のみが永続的であるわけですから、それだけが踏みとどまるのは当然です。

ところが、自我というのは何者かであることを強く欲しているのです。というよりも、自我の生い立ちを見れば明らかですが、何者かであるという思い込みこそが自我の正体なのです。

だからその思い込みを真実であると証明するために、人生を浪費するのです。勿論自我はそれを浪費とは思ってはいませんが。

ただこのことは覚えておく必要があります。つまり、何かを証明しようとし続けて何百万年も経つのなら、そもそもが間違っていると理解すべきだということ。

生まれることのないものは消えることもありません。それは時間の介入すら許さないからです。実際自我が消えれば時間も消滅するのです。

無というのは空っぽということではなく、何もなさで満ち満ちているということ。一見空虚に見えるのですが、そこに虚しさはなく満ちているのですね。