ヒーリング講座

もう二年以上前からですが、午前中に仕事をするのをやめて、毎日スポーツクラブに行って運動をするようになりました。最初は三日坊主で終わるんじゃないかと懸念していたのが、意外にも今までずっと続いています。

運動と言っても10分程度泳いで、その後10分くらい深いジャグジーで全身をマッサージしてからサウナに入って、最後にお風呂で身体を洗って帰ってくるというものです。

運動というよりは、ほとんどスパとかレジャーランドに行ってる気分ですので、無理せずに決めた距離だけ泳いで楽して帰ってくるわけですから、継続してるのでしょうね。

ですから、オフィスに戻ってくるときはとても気分爽快で、心身ともにすっきりした感覚で仕事に向かうことができています。自分としては、生涯これは続くかもしれないなと思っていました。

ところが、最近は「奇跡のコース」を学んでいるおかげなのか、常に与えることを意識するようになっていて、それに照らして考えてみた時に、午前中のスポーツクラブ通いは与えているとは言えないなと思い出したのです。

おまけに気分爽快なのは自分一人のしかも身体の感覚だけのことです。勿論、それによっていい気分になれて、それがいい仕事に繋がるということは充分考えられるので、決して否定するつもりはないのです。

でも、どうも与えるということにはしっくり当てはまらないというのが本音となってしまっていました。

もし、午前中の自分の時間と場所と労力をすべて自分以外の誰かに開放したら、与えることができるのではないかという考えが浮かんできました。

今の自分にできることでみなさんになんらかの役に立って、自分も楽しめることをご提供しようという気持ちが出てきました。

まだ内容ははっきりと決められてないのですが、何かヒーリング講座のようなものを無料でみなさんにご提供してみようと思っています。聖霊に聞いたら、より多くの人に来てもらえるようにするために、料金は低ければ低いほうがいいよと言われました。

ご期待下さいね!

変わり者

昔知っていたある人の消息を探そうと思って、ネットで検索していたらどうしたことか名前の字画による占いサイトに行ってしまったことがありました。

そこで興味半分で自分の名前を占ってみたら、思ったとおりの結果が出てびっくりしました。。名前の漢字の各部分ごとの組み合わせによって、いくつか占いの結果が出るようになっているものでした。

結果全部を覚えてはいないのですが、確か「才能や能力はそこそこあるのにパッとしない人生」みたいな事だったと思います。何だかその言い回しがいや~な感じ。

そしてもう一つ、「簡単に言ってしまうと単なる変わり者」というのもあったと思います。いやあ、当たっているなあと思わず苦笑いをしてしまいました。

こういった占いの類は世の中に沢山あるわけですが、なぜそういうものが当たるのかということは、「神の使者」という本にほんの少し言及されてたと思います。

この本は、「奇跡のコース」を読む前に読んでおくと、比較的理解しやすくなりますという触れ込みの本なので、昨年二度ほど読みました。

確か、太陽系だか星の動きなどがなんちゃらかんちゃらといった内容だったと思いますが、正直よく分かりませんでした。

コースを勉強しているほかの人はそういうことはないと思うのですが、自分に関して言えば、やっぱりこういった種類の本に傾倒することはやや変人なのかもしれないと思うこともあります。

最近学生の時の仲間と飲む機会があって、久しぶりだったので一人ひとり今どんなことをやっているのかめいめいが話しをしました。

自分以外はみんな会社員であり、この社会にしっかり組み込まれてそれなりにお偉いさんになっている友人ばかりなのです。

その友人たちにさすがにコースの話しをそのままはできないとは思ったのですが、さわりだけをほんの少し話してみたら、お前は学生の時からそんなようなことを言ってたよな、と言われてしまいました。

全く記憶がなかったので、びっくりしたのですが、私が「奇跡のコース」にこれほど傾倒しているのは、きっと地なんですね。

与えることと与えられること

少し前のブログで与えることについてのお話をしたことがありました。心の平安を得て、満ち足りた心になるためには、与えることが大切だということでしたね。

自分自身に対しても、いつも忘れずにこのことを心に刻んで生活しているのですが、ふとしたときに、ああ、与えることを忘れて与えられることを期待している、と思う瞬間があることに気づかされます。

例えば、仲間とお酒を飲む時に、この気持ちのいい仲間の中で自分はとても楽しい時間を過ごせるのですが、気が付くと自分が楽しむことにばかりに気持ちが向いてしまっています。

自分がただ楽しむのは、みんなが作り出してくれたその雰囲気をただ与えてもらっているということですね。勿論それは決して悪いことではありません。自分が楽しむということも、巡り巡って与えることになってることもあるかもしれません。

きっと無意識的にでも自分も何らかのモノをみんなに与えられているのだろうとは思うのですが、与えることを選択することを忘れてしまうことが多いのです。

与えることに慣れていない自分は、すぐに与えてもらえることを期待してしまいます。習慣とは恐ろしいものですね。エゴは習慣を利用して自分を変えないようにするのです。

このエゴの習慣から抜け出すためには、どうしても意識的に選択するということが必要になります。与えるという選択をして、実践するとしても、何も物理的な行為に限ったことではありません。

心の中でも充分に与えることはできます。例えば、自分が楽しい時間を与えられていることを感謝するということだけでも、その感謝を自分の心から相手に贈ればいいのです。

感謝するのは何となく受身のような気もしますが、実は愛を送ることになると思います。充分に深く感謝の念を抱いて、それをエネルギーとして相手に贈るイメージを持つだけでもいいのです。

自分のお金、自分の時間、自分の労力、そういったものを愛で包んで相手に贈るのも与えるという行為になりますね。毎日、自分は一体どのようにしたら、愛を与えることに繋がるのだろうか、考えてみて下さい。

そして、無理のない方法で実践することです。愛を与えることができた場合には、必ず同じだけの愛を与えられるはずです。これが愛の法則ですね。

隣の騒音

私たちは一般的に騒音と聞くと、あまり好ましくない、どちらかというと悩みの種であると感じていると思います。場合によっては適度な騒音があった方が安心するということもあるかもしれませんが。

心穏やかに大好きな本を静かに読んでいるときに、隣の部屋あるいは家から騒音がしてきたら、きっといやだなと思うはずですね。夜寝ようとしているときにだって、騒音が聞こえてきたら困ったなと思います。

しかし、気が付いたら騒音のことを忘れて本を読み続けていたということや、うるさいなあと思いながらも寝入ってしまったということがあるはずです。

また逆に、どうしてもその騒音が気になって読んでいた本を置いて、この騒音を何とかやめさせたいと思ったり、とても寝れなくなってしまい、怒りが湧いてきてしまうという場合もあるはずです。

このように、気にしないでいられる場合と、そうでない場合の違いは何なのでしょうか?一つはその時の自分の精神状態がとてもいい場合、心が寛大になっていてこの程度の騒音なら受け流せるということがありますね。

この場合は、自分の心の中のエゴの活動が小さくなっている状態であるために、ネガティブな反応があまり出ないということなのでしょう。

そして、もう一つには騒音のレベルというものが影響するでしょう。どんなに心がいい状態であっても、あまりにも大きな騒音であればやはり拒絶的な反応をしてしまうのも当然と言えます。

この隣からの騒音を仮に自分の心の中のエゴだと思ってみて下さい。そして、エゴが激しく活動するというのは、この騒音の音のレベルが大きくなるということを意味します。勿論これは比喩ですが。

騒音が激しくなるに従い、私たちは冷静さを失っていくことになりますね。これを解決する方法は二つです。一つは、騒音の元となるところに出向いて行って、それを静かにさせるというやり方。もう一つは、何とかして自分を平静な状態に保つように心がけて、騒音の誘いに乗らないようにする。

前者の方法が、通常のセラピーのやり方です。後者が「奇跡のコース」の教えの方法なのです。前者の方法は、騒音つまり問題の箇所を真っ直ぐに見据えて、それと対峙することによって、解決しようとするやり方です。

心の中に過去の怒りなどの感情が渦巻いていたら、そこから逃げずに対峙してその感情を開放していくわけです。そうすることによって、騒音のレベルが下がっていくということを期待することができます。

ただ、人間である以上感情がなくなるということはありませんので、騒音は少しずつ小さくはなりますが決して騒音自体が聴こえなくなるということはないのです。

一方、後者の方法は騒音は錯覚だとして赦していくということです。この方法は一見突拍子もないやり方のように感じますが、訓練していくうちに次第に身についていくようです。

聴こえるものはどう考えたって聴こえるじゃないかと思うのは当然ですね。ですが、その騒音も実は自分の投影なのだということです。自分の投影だと思えば赦しやすくなりますね。

また本当に集中すると、かなりの騒音でも聴こえなくなるという経験をしたことはありませんか?

以前サラリーマンをしていた頃、仕事に集中しているときに誰かに声をかけられてビクッとしたことが何度もありました。誰かが自分のところに近づいてくる気配や音が聞こえない状態になっていたのだろうと思います。

騒音を気にしなくする上記の二つの方法のどちらが自分に合っているのか考えてみて下さい。私は個人的に、それぞれの方法を併用してみるのが効果的ではないかと思っています。

ただ、前者の方法をいつまでも繰り返すことはお勧めできません。それは、実は騒音はあるということを前提としているからです。これはエゴの作戦に乗ってしまっているということになりますね。

最終的には、投影だとして赦すことが完全に騒音から自由になる唯一の方法だということを覚えておいて欲しいと思います。

ヒーリング

私にとって、毎日の生活の中でエゴの代わりに愛を選択できる時というのは、プライベートな時間よりも実は仕事中なのです。つまり、クライアントさんを相手にセッションをしている時なのです。

勿論完全にエゴを停止しているわけではなく、ある一定レベルにセッションを保つためにエゴを使ってはいるのですが、それ以上にエゴが大きくなることはなく、一方で愛を発動しています。

その体験が自分にとってはとても心地いい状態なわけです。勿論カウンセリングでも催眠療法でも、会話をするという行為ですので、左脳による言語を使うわけですから、その分当然多少はエゴも発動してはいます。

その中でも考えることを一切ストップさせて行うヒーリングは、自分が愛を発動させるための手段として最も適している行為だというふうに思っています。

私のやっているヒーリングのスタイルは、直接クライアントさんの身体に触れますし、身体のセンターにあるとされているチャクラという箇所を意識して、そこを重点的に癒すようにしています。

ところが、「奇跡のコース」の教えによれば、この世界そのものも、自分の身体もすべてが幻想だということです。今ここにいるのは自分だけということです。それもこの自分ではなくて、全体と一体であるスピリットである自分だけ。

ですから、身体は幻想なのだという点からすると、この身体やチャクラを意識するヒーリングそのものが見当違いなものということになりますね。実はその通りなのです。

それならなぜヒーリングを続けているかというと、上述したようにそれが一番自分の中の愛を感じられる手段だからです。

ちょっと驚かれるかもしれませんが、セッションにとって一番大切なことはセラピストの私がクライアントさんをどのように見るかということなのです。言い換えると、どれだけ愛という洞察力を使ってクライアントさんと向き合っているかということが、一番重要なことなのです。

カウンセリングでどんな内容のお話しをするか、催眠療法その他でどういった心の開放や気づきを得られるかということもとても大切なことなのですが、それを越えて大切なことはセラピストの愛なのです。

セラピストがクライアントさんの身体を越えて、実在としてのスピリットをクライアントさんの奥に見ることができたら、その分だけクライアントさんもセラピストである私も癒されるのです。

だから愛をもって接することのできる人はどんな人でもヒーラーであると言えるのですね。

特別な関係

私たちは自分にとって大切な人達とそれほどでもない人達とを区別していますね。大切な人は、家族や親戚、恋人、友達や同僚、お世話になった恩人など、いろいろです。

一方それほどでもない人というのは、ただの知り合いやそれほど親しくない友人、街でたまたまみかけた人など、その他大勢いるわけです。

大切な人に対しては愛を感じ、そうでない人にはこれと言って何も感じないはずです。最も大切な人達と自分との関係のことを、「奇跡のコース」では、特別な関係と呼んでいます。

そして、結論から言うと、特別な関係というのは「エゴの最高傑作」だと言っています。一番愛する人との特別な関係のことをそんなふうに言われたら誰だっていやな気持ちになりますね。

でもただ不満に感じるだけでは気づくことができませんので、そんな表現をする真意を考えてみたいと思います。

以前このブログで愛とは全てが一つであるとする想念だということをお話ししました。すべてが一つということは、私たちが個々に分かれていると思っているものも、本当は一体なのだと分かっている想念だということです。

したがって、よく聞く言葉ではありますが、愛は何に対しても誰に対しても分け隔てなく与えるということしかできないということです。一つであるものを分けることは不可能ですから。

だから愛にレベルなどはないとうことですね。あの人のことはすごく愛しているが、この人のことは少し愛するとか、自分の子供はとても愛しいけれど他人の子供はどうもねえ、というのは愛ではないということです。

特別な関係とは、その人を他の人とは分離しておいて、その人を特別に愛するということですから、愛の定義と矛盾していることになります。

でも私たちは、大切な人を愛しく思う気持ちこそ、本当の愛なのだと信じているわけです。特別視し、他と区別するのはエゴの分離の基本なわけですから、それを愛と勘違いさせられているということで、「エゴの(騙しの)最高傑作」と言われたわけです。

我が子を愛しいと思う、ただその気持ちが愛とは程遠いと言っているのではありません。そうではなくて、それと同じように他人の子も愛しいと思えるかどうかが問題なのです。

我が子を愛しいと感じていても、同時に他人の子に愛を感じなければ、それは全くのエゴの状態であるということです。愛を与えるということは、愛の特質からして特別な関係にある人に対してと同様にすべての人に対してもできるはずですね。

そうすると、元々のこの特別な関係と言う言葉自体に意味がなくなってきます。特別という概念そのものが愛ではないからです。

私たちは通常エゴに乗っ取られて生活していますので、ほとんどの場合にこの特別な関係を大切に思い、それを維持していこうとしています。

自分の愛がホンモノかどうか調べるには、特別な関係ではない人に対してどれだけ暖かい愛を感じることができるかを見てみればいいということになります。

快適な暮らし

何年か前にハワイ島に別荘を持つという構想を練っていたことがありました。勿論先立つものは何もないので、ただの妄想の域ではあったのですが、そういった類のことを考えたのは生まれて初めてだったと思います。

島全体が溶岩からできているハワイ島であれば、何処もかしこもある種のエネルギースポットのようなものだろうし、オワフ島などとは比べ物にならないくらいに自然がいっぱい残っています。

そこに豪華な別荘を建てて、昼は海で波に乗り、夜はジャグジーに浸かりながらシャンパンを飲んで、満天の星空を眺める、そういった夢を少しでも現実のものと思おうとして天体望遠鏡だけは購入しました。

そんな生活が、一年のうちの数ヶ月もできたら本当に快適だろうなと思っていました。そういった快適さというのに憧れを持たないという人はいないかもしれないですね。

ところが、「奇跡のコース」を学んで行くうちに、そういった快適な暮らしというものに疑問を持つようになってきてしまいました。その理由は二つあります。

一つは、その快適さのターゲットとなるのは自分の身体にあるということです。確かに身体が快適であれば、心もそれなりにのんびりして快適になるように思われます。しかし、その心の快適さはあくまでも気晴らしのレベルに過ぎません。

コースの教えでは、我々の本当の姿は身体ではなく、スピリットだと言うものです。身体はエゴが作ったニセモノであり、その身体を快適に保つことを優先して生きるということは、エゴの思う壺であるわけです。

もう一つは、快適さと幸福感は全く違うということの気づきです。幸福感は与えることからしか得ることはできないということをよく見つめてみれば、身体の快適さは足りないものを手に入れる生き方であって、与えることとは相反することだと分かるはずです。

勿論、快適な暮らしが悪いということではありません。あくまでもそういったことは物理的なことであって、それを人生の目標にしているうちは本当の幸せはやってこないと分かる必要があるということですね。

とはいうものの、人一倍身体の快適をいつも求めている自分としては、この気づきは痛いなあというのが本音です。

新型ウィルス

新型インフルエンザが世界中で猛威をふるっていますね。東京で三例目の感染者がこの近くの三鷹で確認されたらしいです。外出後、手洗いとうがいを励行するくらいはしっかりやりたいものですね。

人類の長い歴史の中で、ウィルスとはそれなりにうまく共存してきたはずなのに、どうも最近はワクチンの開発とウィルスの突然変異による進化とのいたちごっこのような状態になっているようです。

昔に比べて人の防衛反応が過剰になってしまった結果なのかなとも思います。というのも、ウィルスに限らず、ばい菌などについても、ものすごく潔癖症とも思えるくらいに平均的な意識が変化しているように感じています。

衣服や身体などの清潔さを過剰に意識して、殺菌や除菌する習慣が各家庭の中に浸透しているように思います。

神経質な親が、無菌状態で子供を育てようとしてしまうと、結局耐性のない子供になってしまい、ちょっとしたことで熱を出したり、すぐに風邪をひいてしまうような子供になりかねません。

私が子供の頃などは、ラーメンにハエが入ってしまってもそれほど大げさな反応はしなかったと思いますが、今ではカップラーメンにハエが入っていたらニュースになってしまうようなご時世ですね。

家にゴキブリがいるのはいやでしたが、今ほど神経質に退治するわけでもなかったような気がしています。

とにかく、汚いもの、不潔と感じるもの、そういうものに対して過剰な防衛をするようになってきているのは間違いないと思います。そして、防衛は攻撃的なエネルギーを表しますね。

その攻撃的なエネルギーが新型ウィルスの攻撃を受けることになる一つの要因になっているのではないかと密かに思っています。

攻撃すれば必ず攻撃されてしまうのです。「奇跡のコース」には、どんな場合であっても攻撃する正当な理由など一つもないと言っています。攻撃することで、安全を得るというのはエゴの発想ですね。

それが人類の絶えざる戦争の歴史を作ってきたのです。確かに、身に降りかかる火の粉は掃わねばならないのですが、できるだけ防衛しないように心がけることが結局ウィルスともうまくやっていくことに繋がるはずです。

そして、それはワクチンの開発に力を注ぐよりもきっと効果があることのように思います。みんなで攻撃することから自分の心を開放するように仕向けてあげることです。それも自分の選択によってできることなのです。

人は変わらない その2

昨日のつづきです。

人は様々な経験を積んで、いろいろなことを学習して人格形成して立派な人物になっていくのですが、それでもその人の本質的な個性や特徴、ものごとの考え方などは変わらないということでした。

一番簡単な例で言うと、運動が苦手な人が毎日ジョギングを続けていくうちに、フルマラソンで完走できるようになったらそれはすばらしいことですが、その人の基本的な性格は変わりませんね。

でももしその人が何となく自信がない人だったとしたら、苦手意識のあるものを克服したことによって、少し物事に自信がついてくるかもしれません。頑張ったら自分もできるんだという成功体験による、気持ちの変化は確かにあるかもしれません。

しかしそれでも、何か大きな失敗をしてしまったらまたすぐに今までのように自分に自信のない感覚が戻ってくるかもしれません。

経験や学習による私たちの変化というのは、反応の仕方が変わるということです。それが人格形成による変化だと言ってもいいと思います。中身は変わっていないのです。

「奇跡のコース」は自分を幸せな状態に変えていくための学習書ですが、その教えに沿って学んでいったとしても、本質的な自分が変化するわけではありません。反応の仕方が変化するだけです。

これはどういうことかというと、私たちの心はエゴの部分と愛の部分から成り立っています。そして、その人の基本的な性格、個性や特徴というのは、そのエゴの部分のことを言うのです。

たとえその人が愛情深いいい人だとしても、その個性を作り出しているのはエゴの部分なのです。そして、この部分そのものは小さくなったり増大したりすることはあってもその中身が変わることはありません。

その人の反応が変わるというのは、そのエゴの部分と愛の部分のどちらをどれだけ使うかということが変化するだけなのです。そしてそれは、あくまでも自分の選択に委ねられています。

私自身の最近の変化でいうと、理不尽なことが自分に降りかかってきたとしても以前のように怒りが出てこなくなってきました。それは、私の個性が変化したからではなくて、怒りを選択しなくなってきたからであって、それによって私の反応が変化したに過ぎません。

本来の自分を変える必要もありませんし、どんなに努力したって変えることなどできないのです。ただ、心の訓練によって愛を選択することを増やしていくだけです。そのことによってのみ、人はより幸せな状態へと変化することができるのです。

人は変わらない

「三つ子の魂百までも」という言葉が昔からありますね。どんな意味かは諸説あるようですが、一般に三歳までに出来上がったその人の基本的性格は、百歳になっても変わらないものだということですね。

先日、学生の時の仲間たちとお酒を飲む機会があったのですが、お酒が入ってきて当時の話題に戻ると全員が全くその時に戻ってしまいます。卒業してから30年以上経つというのにです。

私を含めて全員が、卒業してから社会人として働いたり家庭を持ったりと様々な経験をしてそれなりに人格形成してきたはずなのに、一瞬にして学生の時と全く同じ心境に戻ることができるのです。

そうして、風貌こそみんな大いに変化してきているのですが、やっぱりあの頃の一人ひとりの性格や物事の捉え方などの個性は全く変化してないのです。だからこそ、話していて違和感なくすぐにあの当時に全員が戻ることができるのです。

私自身、約10年前に会社を辞めて今の仕事をするようになってから、小学生の時の自分にすごく近くなったような気がしています。幼くなったというよりは、その頃不思議に感じていたことや素朴な疑問などがまた戻ってきたのです。

確かに今の自分は小学生の時と比べたら様々な体験や経験をして人生の勉強をしてきたわけで、その自分が小学生の時の自分と全く同じという気はしませんが、何か自分の本質的な個性や特徴などは変わっていないように思うのです。

きっと会社員の頃は、自分の中に残っていた小学生の部分を使う機会がなかったのか、意識的に使わないようにして生活していただけなのだろうと思います。それが、一人で今のような仕事をするようになって、その抑圧がほどけてきたのでしょうね。

そうやって考えてみると、もしかしたら本当に三歳の頃の自分の性格や考え方、特徴などがずっとベースとしてあり続けるのかもしれないと思えてきます。ただし、表面的あるいは外面的には子供から大人へと進化します。

しかしそれは、作りこんだものであり、ある種の鎧のように自分を守るためのものであるだけなのかもしれません。じゃあ、人格形成って一体何なのだろうということになりますね。

つづく