本質とは多次元のスクリーン

映画館で映画を観ている時、私たちはスクリーン上に映し出された光の反射からなる映像を見ています。そのときにはスクリーンを凝視していることを忘れてしまっています。

たとえ、スクリーンを見ているということを思い出したとしても、スクリーンの白さを肉眼で確認することはできません。そのくせ、本当はスクリーンを見ているだけだということも知っていますね。

この世界の本質、つまり真実についても同じようなことが言えるのです。自分の周りに広がるこの世界を見るとき、そこにはたとえて言えば3次元のスクリーンとしての本質が在るのです。

勿論、肉体の目にはこの空間のありとあらゆるところに満ちている3次元のスクリーンを見ることはできません。映画を鑑賞しているときのスクリーンを確認できないのと同じです。

ただし、そのことに気づいていることは可能なのです。ここを言葉で表現することはできませんが、確かにこの世界は3次元のスクリーン上に現象として顕われたものです。

映画館では、上映が終わり館内が明るくなったときには、スクリーンがその白い姿を表してくれますが、残念ながらこの世界を見ている肉眼では、決して3次元のスクリーンである本質を見ることはできません。

それは、肉眼で見るのではなくて、ただそれ自身であることに気づくことなのです。映画館の話しと、この世界との一番の違いもそこにあります。

そして、映画館では観客がいて初めて映画を上映するということが成立するのですが、この世界には観客はいません。なぜなら、私たち自身が本質であるスクリーンそのものだからです。

この宇宙という空間の中に、あらゆる現象が起きていると思われているのですが、実際には宇宙空間そのものも本質というスクリーン上に現象化しているのです。

最後に、あなたという個人は決して現象化してはいません。自分という個人がここにいるという思考だけが、現象化しているということを見抜くことです。

この世界には、自分を見つけられないと認めることです

私たちの誰もが、2歳前後のころに自分を身体と同一視するという途方もない思い込みをするのです。もっと正確には、親からの洗脳によってこの身体の近くに自分がいるという思考を作るのです。

幼いころの思い込みというのは、他の何よりも固いため、心の底から信じ込んでしまい、私たちは自分が身体であるということを真実であるとしてしまうのです。

けれども、多くのクライアントさんとお話ししていて、気づいたことがあります。それは、「私は身体だ」という人がほとんどいないということです。

その代わりに、「私の身体」とか、「私は身体を持っている」、あるいは「私は身体の中にいる」などのように表現される方がほとんどなのです。

つまりは、自分を身体そのものだとは感じていないということです。実際、身体はいつも自分の身近にあるのですが、それでもそれ自体ではないということに気づいているということです。

こうしたことが、日本人の標準なのかどうかは定かではありません。たまたま私のところにセッションを目的でいらっしゃる方々がそのような感覚をお持ちなのかどうか、本当に分かりません。

それでも、とにかく自分を身体そのものだとは感じていないのですから、それでは自分は何なのかということを探求するチャンスがあるということです。

身体でなければ、一般的には意識と表現するのが最もふつうかもしれません。肉体だけが物質として知覚の対象となり得るので、意識がどこにあるのかを見出すことは不可能です。

科学が進歩した現代でも、意識の正体を見つけることはできていません。脳科学者たちは、こぞって意識を解明しようと頑張っていますが、それは土台不可能というものです。

なぜなら、ここでいう意識とは思考とは異なる純粋な気づきのことであって、それを思考(知覚)をベースとした科学で理解することなどできないからです。科学とは、思考の範囲内での話しだからです。

そして気づくはずです。あなたは、自分という意識をこの世界のどこにも見つけることができないということを。それもそのはず、この世界のすべてがあなたという意識の元に現象化されたものだからです。

今この瞬間の意識には否定ができない

日々のセッションの中でクライアントさんにお伝えしていること、それは自分の心からやってくるどんな声でも、それらを丸ごと受け止めて下さいということです。

心の声というのは、そのほとんどが過去からやってくるものだということも理解していただく必要があります。私たちの反応には、動物的な反応と心理的な反応の二つがあり、後者はすべて過去にその原動力があります。

そういう意味からすれば、心の声がいかに過去からやってくるものかを理解していただけると思います。その過去の自分の訴え、気持ち、想い、そういった一切合財を一つひとつ丁寧に受け止めることです。

そうすると、悪いことをした自分、意地悪をしたり、裏切ったり、ウソをついたりした自分のことも受け止めるということですか?と聞かれることがあります。

私がお伝えしているのは、その時の自分の行為についてではありません。その行為をすることになった原因となる気持ちや想い、感情などについて受け止めて欲しいということです。

たとえば、誰かが思い余って人を殺してしまったとします。殺人という行為をそのまま認めるということではなく、そうした行為に及んだ原因を作ったその人の心の在りようを受け止めるということなのです。

どんな心の状態であれ、そこに悦びがあっても、あるいは殺意があったとしても、もしもあなたが今この瞬間に意識があるのなら、それを否定することはできません。

受け止めるとはそういうことです。否定したい気持ちを抑えて、肯定的に捉えようとするということではありません。もしも、否定的な気持ちを抑えようとするなら、その思いは過去からのものだということを知る必要があります。

自分の心の状態を恣意的に何とかしようとするなら、それも過去の自分がやっていることです。過去の心は、そのほとんどが否定で成り立っています。

今この瞬間の意識には、否定はおろか肯定すらありません。どちらも不可能なのです。もしも、あなたが何かを肯定できる、否定できると思っているなら、その時には思考の中にいて過去に生きているということです。

その背後に無限に広がる純粋な意識というあなたの本質が在ることに気づけばいいのです。何かを否定しながらも、否定が不可能な本質に気づいていることができるのです。

思考を観る立場になる

人生をスムーズにうまく生きていける人もいれば、どうやってもどう努力してもどうしてもうまくいかずに、いつも苦労してしまう人もいますね。

苦しんでいる人からすれば、楽ちんそうに人生をたのしむことのできる人が羨ましいと思うのは当然です。そして、そんな羨ましい人と自分を比べて、自分はダメなのだと思い込むのです。

うまく行っているように見える人の典型は、人生に疑問を持たないことです。物事を深く考えることをせずに、辛くても仕方ないとして切り抜けようとするのです。

それは、確かに物事が大事にならずに済ます傾向にあるため、楽な生き方ではあるかもしれませんが、実は人生の深みを知ることもできないのです。

何かに疑問を持つこと、そして探求しようとすることがあって、初めて人生を正面からとらえる準備ができるのです。悩むこと、苦しむことを通して私たちは真理に近づくことができるのです。

立ち止まり、自分とは何なのか?あるいは、自分はいつもこうしてしまうが、その理由は何だろう?などを真剣に見つめる姿勢がとても大切なのです。

そうして向き合うことを続けていくうちに、それをやっている自分とは何だろうという視点が浮かんでくるのです。その視点に立った時に、思考の限界を知ることになります。

思考に飲み込まれている間は、思考の限界に気づくことができません。それは、自分という存在が思考により出来上がっているということに気づかないからです。

けれども、ひとたび自分というのは思考の産物だと分かれば、思考の中には真実はないと分かるのです。そうすると、一生懸命考えていたことが却って、考えないことに目覚めさせることになるのです。

思考から脱出することは、思考を止めなくてもできるということにも気づけます。思考は決して敵ではありません。思考に飲み込まれてしまうことだけが、真実を観る目を曇らせることになるだけです。

あなたという人物像は思考の塊で出来ています。その思考を観る立場になることです。そうすれば、あなたは全体性という本質であるということに気づくはずです。

瞑想的に生きる

私たちは、毎日を流されるがままに生きていると、自分の周りで起きていることにその都度対処することだけに、エネルギーを使うようになってしまいます。

それでは、決して意識的に生きることができません。意識的に生きるとは、今こうしてある自分をいつも見ている習慣をつけて過ごすことです。

勿論、仕事中はそれに集中するということも大切なことですね。いつもあちこちに気持ちが散ってしまうのは、大切な時間を無駄していることになってしまいますから。

けれども、それとは別に今自分が考えていること、していること、思っていること、感じていること、そうした自分にリアルタイムでその都度、意識を向けてあげることがとても重要なのです。

起きていることに反応している自分とは、実は過去に生きているのです。反応しているのは今だから、今にいるのではないかと思ってしまうかもしれません。

しかし、どう反応するのかということはあなたの過去が決めているのです。これまでの体験を通して、自分をどう守ればいいのかということに照らし合わせてそのときの態度が決まるのです。

したがって、それだけでは過去に生きていることになってしまうのです。そのことが悪いということではなく、そうした反応をしている今この瞬間の自分を見るのです。

そこに自分の注意を向けてあげることができるなら、それこそは今この瞬間に意識があることになるのですから。それが、意識的に生きるということ。

言葉を変えて言えば、それこそが瞑想的に生きるということでもあるのです。静かな時間を作って瞑想するということもとても大切なことです。

これは私の持論ですが、それ以上に大切なことは瞑想的に日々の時間を過ごすということなのです。それが習慣づいて来れば、個人としての自分と全体性としての自己に同時に気づいていられるようになるからです。

人生という物語を観照する

私は高校生になった当たりから、突如として洋画を沢山観るようになったのです。あの当時は、確かロードショーでも500円で観れた時代でした。

それほどこずかいをもらっていたわけではないので、毎月何本も観るということはできなかったのですが、それでも工夫して少し古い洋画を2本立てなどで安く観たりもしてたのです。

大人になってからは、わざわざ映画館に足を運ぶということが少なくなってしまい、仕事が超多忙ということもあってか、ほとんど洋画を観なくなってしまいました。

それが、最近ではネットでいくらでも観ることができる時代になったおかげで、夜になると今日は何を観ようかなと検索するのが楽しみになっていたりします。

自分の好みの映画に当たると、とても嬉しくて、その余韻を楽しみながら眠りに落ちるのですが、その逆の場合には一体どんな意図でこの映画を作ったのだろうと疑問を感じたりもするのです。

けれども、最近分かってきたことがあるのですが、それはどれほどの感動や驚きを与えてもらった映画であったとしても、それほどの影響を受けることがなくなってしまったのです。

心のひだに触れるような繊細な映画が好きですが、それでも本質的に影響を受けるということがなくなってしまいました。長く生きるということは、そういうことなのでしょうか?

どんな映画でも製作者の側からしたら、大変な苦労と時間をかけて作ったものだろうと思うのですが、観る側としては一年も経てば結構忘れてしまうものなのですね。

これから先、死ぬまでにどれだけの映画と出会うことができるのか分かりませんが、自分の人生も退屈ながら一つの物語であるという認識を持って、生きていけたらいいなと思うのです。

あなたの物語はどんなものですか?それを身近で観照し続けることができるといいですね。

人の心は大同小異

私のブログを読んで下さったクライアントさんから、あの内容は私のことを書いたのですか?という質問を受けることが時々あります。

実のところ、クライアントさんとのセッションを通して、気づかせていただいたことを書いているのは事実ですが、それは特定の誰かのことをイメージして書いているわけではありません。

つまり、ヒントをいただきながら、それをなるべく多くの人に当てはまるように一般化しています。だからこそ、ここで書いていることは数多くのみなさんの心の在りようにも該当するはずなのです。

実際、私自身を例にとっても同じことが言えます。私の中には全く存在しないという心の問題について書いたことがありません。どの内容であれ、何等かの形で私自身についても言えることなのです。

人の心というものは、千差万別ではあるのですが、逆に言えばそれほどの大差もないということです。そうでなければ、私はセラピストをやってこれなかったでしょう。

すべての人の心は、大同小異なのです。それでも、その小異の部分がとてもご本人にとっては大切なので、セラピーはとてもデリケートなものとなるのです。

私がセラピストになった頃は、自分はそこそこの癒しができていて、だからこそ病んだクライアントさんのセラピーができるのだと傲慢なことを考えていたと思います。

けれども、実際のセッションを経験すればするほど、どんなクライアントさんのご相談の内容であれ、心の問題であれ、私自身には全く見当たらないことだと思えたことは一度もありません。

このことも、私がこの13年間セラピーを続けてこれた大きな要因であると言えます。そして、本日もクライアントさんからたくさんのプレゼントをいただきました。

そうして気づかせていただいたことを抽象化することで、できるだけ多くの人が自分にも思い当たることがあると感じて、何かのヒントにしていただけたら、これほど嬉しいことはありませんね。

個が消滅すると空間もなくなる

あなたが夢の中で、怖いモノに追われて、どれほど早く走って逃げたとしても、その夢を見ている本当のあなたは1ミリも動いてはいませんね。

夢の中で仮に壮大な宇宙旅行をして戻ってきたとしても、本当のあなたはずっと暖かなベッドの中で眠りこけていただけです。あなたはどこへも出かけてはいませんでしたね。

それと同じように、この世界でたとえあなたが地球の裏側の密林へ行ったとしても、あなたの本質は1ミリも移動しないし、何の影響も受けることはないのです。

あなたという本質は、常にここにあり続け、どこへも行くことはできません。この宇宙の隅々、あるいはこの宇宙の外側までも、すべてがあなたの本質である純粋な意識そのものなのです。

もしも、あなたが登山の途中で不運にも遭難して、寒さと空腹に苦しむことになったとしても、本質はそれをも貫いてただ在り続けています。

しかも、この世界のどこで何が起ころうと、本質との距離はゼロなのです。それは完全に本質と密着しています。本質には、距離という概念がありません。

どんなすばらしい景色のところに旅行に行こうと、それがどれほどすばらしい感動を与えようと、何も変わらずに在るもの、それこそがあなたの本質です。

私は、あまりにも壮大な景観を目の前にすると、まったく遠近感がおかしくなってしまうことがありました。みなさんにも似たような体験があるのではないでしょうか?

今思い出してみると、あの感覚はきっと個人としての自分が小さくなって消滅したかのようになったときだったのでしょう。自分との比較ができなくなったために、距離が消滅したのです。

あの体験は、小さな個人としての自分の外側に広がった世界を見ているのではなく、本質としての自己そのものを距離ゼロで見ていたのだと思います。

個人としての局所性が消えたとき、空間とはまやかしだったということを発見できます。あなたの本質である全体性にまた意識を向けて見て下さい。そのことに気づくかもしれません。

許可か禁止か

私たちは、知らず知らずのうちに、自分に対してさまざまな許可と禁止をしているのです。なぜ知らない間にかというと、そのほとんどが子供の頃のことだからです。

子供は自由の象徴、子供が自分を縛るような禁止を作ってなどいるものか、そういったことは大人になってからやるものだと思っている方もいらっしゃるでしょうね。

けれども、それは表面的なことであって、人生を生きる上での基本的な禁止事項を作ったのは、間違いなく子供の時なのです。それは、それを作った目的を調べてみれば明らかになります。

禁止とは、それをしてはいけないというルールです。そのルールに従うことによって、危険から自分を守ろうとすることが本当の目的なのです。つまりは、自己防衛が目的だったわけです。

たとえば、怒ってはいけないという禁止は、怒りを相手にぶつけることによって、相手に不快な思いをさせてしまえば、否定されたり嫌われたりして、最終的には見捨てられると子供の頃に考えたのです。

喜んだり、楽しんだりしてはいけないという禁止は、そんな子供じみたことをしたら自分が惨めになってしまう、自分は立派な大人になって自己価値を高めたいという気持ちから作ったルールだったかもしれません。

子供は自分に許可を与えるよりも、禁止を多くしてしまう傾向にあるものです。そしてそのことは、親からどれだけ許可をもらったか、どれだけ禁止を与えられたかにとても強く影響されているのです。

一人の人物を客観的に見て、その人が自分に対してたくさん許可を与えているのか、あるいは禁止を与えているのか、一体どちらがその人の人生を清々しい生き生きとしたものにできるでしょうか?

答えは明らかですね。あなたは、自分への許可と禁止がどちらがどれだけ多いと感じていますか?感じているだけでなく、一度じっくりとノートに書き出してみることをお勧めします。

もしも、許可よりも禁止の方が断然多いことが判明したら、それはいまだにインナーチャイルドの作った自己防衛に乗っ取られていると理解してください。

生きづらさを感じているのなら、それが原因なのです。禁止を作らざるを得なかった頃の自分の気持ちを受け止めて、しっかり感情を味わってあげることで、禁止から解放された人生を生きることができるようになるはずです。

「自分は意識だ」に注意を向け続ける

たちは、2歳くらいのときに、自分という存在がここにいるということを信じ込まされます。それは間違いなく洗脳されたのです。勿論、それを教え込んだのは、ずっと身近にいた親などの大人たちです。

その親も、2歳くらいのときに同じことを彼らの親から教え込まれて信じ込んでしまったため、洗脳は完璧だったわけです。本人が真実だと思い込んでいるのですから、その洗脳の仕方は完璧になるのもうなずけます。

私たちは、そこで自分は身体だと信じたわけです。いつも周囲から指さされた場所には、自分の身体が絶対的に存在していたからです。

そうして、肉体というある種の着ぐるみの中にいて、そこから外の世界を眺めていると信じることになってしまったのです。

けれども、自分に対して注意深くしていられる人たちは、自分は肉体だと思う一方で、自分は意識だということにも気づいているのです。

自分とはこの意識だということは、幼いときに教えてはもらっていないはずなのに、それは当然のこととして知っているのです。

そこで、自分は意識だと分かっている人が二手に分かれます。それは、自分は身体であり、また自分は意識であるということに矛盾を感じるかどうかです。

身体と意識はまるで別物のはずなのに、どういうわけかそのことに矛盾を感じない人もいるのです。結局、自分は身体という感覚は残るものの、やっぱり自分は意識だというところに意識を向けることができると、昨日、一昨日のダグラス・ハーディングの提示したことに納得がいくのです。

意識とは気づいているということです。自己が「在る」というこの感覚は、誰もがごくごく当たり前に持っているものですが、多くの人がその「在る」を自分が肉体としてここにいるに変換してしまっているのです。

意識は身体ではありません。意識には顔も頭もありません。なぜなら、意識だからです。肉体ではないからです。こんな当り前のことですが、認めたくない心には訴えることができません。

少しの間でも、自分は意識だというところに注意を向けていることをお勧めします。そうしたら、必ず意識という本当の自分の姿には、顔を頭もないということがはっきりするはずです。

それが、あなたの本当の姿なのですから。