自分の本質は微動だにしない

今こうしてパソコンに向かってブログを書いているとき、思考は緩やかに流れています。周囲が静かであるということも手伝ってか、静寂という本質と繋がっているという明らかな感覚があります。

静寂さには、前後左右上下、そして位置も大きさも何もありません。その何も無さが変化するということは不可能なことですね。そのことを、思い出すたびに検証することが癖になっています。

たとえば、最近では毎朝のようにプールで泳いでいるのですが、その時は自分の身体がうつ伏せの状態のまま、水の滑らかさの中を移動していることに気づいています。

けれども、それと同時に今この瞬間の静寂さと全く同じものを感じています。それは、全く同じということではなくて一つものなのです。

パソコンの前にすわって、静かに思考を見ているこの瞬間と、両手両足を使ってクロールしている瞬間の両者の静寂さが、一つものであるということです。

静寂さは動くことすらできません。本質とは、すべてが不可能であるということでもあるのです。不可能性とは神の属性と同じものですね。

神は考えることもできないし、意志を持つことも、痛みから逃れることすらできません。不可能とは、万能ということと何の違いもありません。

話しを元に戻すと、スポーツクラブで水泳をし終わった後、サウナに入るのが日課となっていますが、あの100℃の温度の中にいて、暑さと争わないようにしているときにも、やっぱり今と同じ静寂があることに気づきます。

実は私たち一人ひとりが宇宙の中心です。この宇宙を支えている静寂さこそが、あなたの本質なのです。あなたの肉体が消滅しても、本質は今この瞬間の静寂さのままに在るだけです。

だから、あなたはどこかへ行くわけではなくて、どこへも行けないのです。あなたの静寂さという本質はまったく微動だにすることはないのですから。