思考と深刻さはセット

物事を深く考えようとするタイプの人と、それはそういうものなんだからまあいいやで済ませるタイプの人といますね。

つまり何事にも疑問を感じて追求することと、そもそもあまり疑問を感じないということの違いなのかもしれません。

疑問を感じる傾向が強いということは、そこに思考がいつもあるわけです。思考がなければ疑問は生まれて来ないのですから。

そして思考する人は同時に深刻さも持ち合わせている場合が多いのです。ノー天気な人が深刻さを持たないのと同じように…。

真理の探究は、勿論のことその物事を追求する思考が下支えしているのですが、だからこそ探究者は一般的に深刻そうな表情をしているのです。

そして生憎なのですが、真理には深刻さと同時に近づくことは不可能なのです。だから探究はうまく行かないことになっているのです。

結局、探究はその探究者から深刻さが落ちたときにこそ、終わりを迎えることになるのです。これ以上皮肉なことはありませんね。

努力が、努力はいらないと気づくまで必要なのと同じように、探究も探究の原動力である思考が不要と分かるまではやっぱり必要なのですね。

すごく不思議なこと

あなたが自分が誰かを知る唯一の方法は、

大いなる想起、深遠な注意深さ、覚醒を伴って、

あなた自身の内面に入っていくことだ。

外に求めたら、あなたが何を得ようと、

それはすべて偽りのものだ。

by osho

 

↑ 分かってはいるのだけれど、ついつい外側で展開されていると感じる物語に興味を抱いて、その中へと埋没してしまう毎日。

外側の世界を見ている限りは、自分はその中で生きている一人の人間だというところから、一歩も出ることができなくなってしまいます。

「毒を食らわば皿まで」ということわざがあるように、もうこうなったらとことんまで物語の中でもがき苦しんでやれ、という自分もいたりして。

これこそが自分だと信じている「私」は、間違いなくそう思っているのです。というよりも、他の選択肢がないのでしょうね。

なぜなら本当に人生を物語だと見抜いてしまったら、「私」はもたないからです。「私」は人生の中でしか生きることができないのです。

だから、「私」が真に目覚めようとすることは、ほとんど有り得ないことだというのも頷けます。それなのに覚醒したいとしたら、その思いはどこからやってくるのか?

いつもそれだけが不思議なのです…。

理性的であろうとせず意識的であれ

私たちは、成熟した大人は理性的であるはずと信じています。確かに、ちょっとしたことで腹を立てたり、人一倍嫉妬心が強かったりすれば、子供っぽい人と思われてしまいます。

けれども、もしもその理性的な態度が本心や感情をただ抑圧することで保っているとしたら、それは単なる防衛にほかなりません。

そうした防衛によるただ表面を取り繕うだけの理性的態度は、実際子供でも身につけてしまうことができるくらいです。それは成熟とは程遠いということです。

理性的な振る舞いというのは、自己犠牲を重ねていっていずれは感情が津波のように押し寄せてきて、そのときにはどんな理性も飲み込まれてしまうでしょう。

抑圧は基本的に幼稚だと理解することです。真の成長とは意識的であり続けることなのです。激怒してしまうのは、意識的でない瞬間にしかありえないのです。

どんな感情であれ、それをあるがままに見守れるのは意識的であることができる人だけです。しっかり見守られていれば、感情を外にぶつけることはできなくなるのです。

自分は感情的ではないという自覚があるなら、それは決して大人なのではなく、理性的であろうとする防衛心だと気づけばいいのです。

理性的である必要はありません。ただ意識的であることだけが大切なのです。物語の中で理性的であるよりも、物語を見守る側になることですね。

思考が落ちればすべてが消える

私たちはありのままの現実を見ていると思っているのですが、それは思考が作った世界だということです。これは瞑想をすることでしか気づけません。

日頃、思考の世界にどっぷりと浸かったままでは、どうやったって気づきようがないのです。朝起きてから夜寝るまで、ずっと思考が活躍し続けているのです。

寝ている間であっても、思考は動いてそれが夢となるのです。だから、現実と夢の違いがそれほどはないといっても過言ではないのです。

動物にも思考はあるのでしょうけれど、人間のそれとは比べようがないほどシンプルなはずです。私たちは、言葉を使うようになったために、非常に複雑な思考を扱えるようになったのです。

言葉は思考そのものですから。コミュニケーションをするためには、言葉はとても大切なツールであり、無くすことができません。

けれども、言葉を遮断して思考が働かなくなったときに、初めて私たちは至福を実感することができるのです。至福とは、理由のない本来備わっているもの。

瞑想に入れば、どんな言葉もなくなり静寂そのものとなります。そこではあらゆる信じ込みが消えてしまい、osho の言葉でさえも無意味になるのです。

それは最強です。何もなさで充満しているのですから。それに気づかずに死ぬのはもったいない、などというたわごとも、無へ入れば消えてしまうのですね。

真の宗教とは?

偉大な宗教はすべて冒険者、
若者、虐げられた人、抑圧された人、
犯罪者、罪人たちと共に始まる。

そしてどの宗教も、敬意を受けるようになり、
聖人が到着し、教会が開かれると、
息をひきとる–宗教は死ぬ。

by osho

 

宗教とは本来、究極の救いを求めて探究を始めたところに起こるものです。それは自然発生的であり、それだけに非常にシンプルなもののはずです。

それは苦しみは物語の中にこそあるのだということの気づき、洞察を通して発展してきたものだったのですが、そこへ必ず新しい物語が起きるのです。

それが、聖人と呼ばれる人々を生み、シンプルだった宗教を組織化することになって、また別の苦しみという物語を作ることになるのです。

宗教はあくまでも完全に個人的なもの。そこに、社会の中でどう生きるべきかとか、倫理や道徳などが入り込めば、物語の中へと逆戻りしてしまうのです。

有名人が不倫でもしようものなら、一斉に吊るし上げを行なって、謝罪会見で頭を下げた瞬間に、フラッシュがシャカシャカたかれ…。

謝罪の方法がどうだったかをみんなで話し合うなど、こういうときにこそ、「人のことを考えるな、さもなければ成長はない」という言葉を思い出す必要がありますね。

独りでどこまでも内側へと入っていくことで、物語の中での自分は真の自己ではないと気づくなら、救いは必要ないと気づくのです。それこそが真の宗教なのだと思います。

誰もあなたを不幸にできない

ひとたびあなたが、

自分は誰をも幸せにすることはできないし、

誰かを幸せにしたことは一度もないことを、

そして誰もあなたを幸せにすることはできないし、

誰もあなたを不幸にもできないと知ったら、

ひとたびこの洞察があなたのハートのなかに落ち着いたら、

あなたはもうけっして誰にも責任を転嫁しない

by osho

 

このことが本当に理解されたなら、誰かのせいにできるのは非常に表層のものだけだと気づくことになるのです。

そうなったら、誰かのせいにすることはある種の戯れのようになるのです。そこに深刻さは微塵も含まれません。

私がセラピーの仕事ができるのも、私が誰かの人生を幸せにすることなど不可能だという理解があってのことです。

万が一、私の努力によって誰かが幸せになると思ったとしたら、荷が重すぎてこの仕事は長くは続けられなかったはずです。

誰かの人生の責任を取ることは不可能なのです。たとえ、親の立場から見た子どもの人生であろうとも。子どもの人生は、子ども自身にだけ委ねられているのです。

いいえそんなことはない、素敵な彼氏や、立派な男性にやさしく守ってもらって、幸せにしてもらえるはずと信じているなら、いずれはそれが間違いだったと気づくはず。

そのときに、絶望とともに気づくのか、今のうちにマインドを癒すことによって気づくのか、どちらでもいいのですが後者の方がダメージが少ないでしょうね。

目覚めるのは私たちの本質

最初で最後のステップは、

自分が誰であるかを知ること、

目覚めることだ。

by osho

 

↑のために私たちにできることは、直接的には何もありません。なぜなら、自分が誰であるかを知るのは、私たちではないからです。

目覚めるのは、私たちではなく、本質なのです。だから、私たちにできることは何もないのです。ただ一つできるとすれば、本質がそれ自身に目覚めることを邪魔しないようにすること。

私たちは、本質が被っている仮面のようなものなのです。仮面を取ることこそが目覚めることだとすれば、仮面である私たちが潔く身を引くことこそが、最大の貢献なのです。

一気に身を引くことができなければ、少しずつでも物語の中にいることに気づいて、それを紡いでいる思考から離れること。

それが意識的であり続けるということなのです。私たちの本性は純粋な意識なので、その真似事をし続けてあげること。

きっとある時それは突然、やってくるのでしょうね。

 

心身の傷は生きてる証

眼下にある小学校から、運動会の練習風景とその音楽がずっと聞こえてきます。イベント事が嫌いな私は、運動会も好きではなかったけれど、練習はそれなりに真面目にやってたなあ…。

あの頃、どういうわけか主に手足の切り傷やすり傷が絶えることがなく、身体中のどこにも一つの傷もない状態にいつになったらなれるんだろうと思っていました。

そして傷と言えば身体の傷のことを指していたのですが、年頃になると心も傷を負うことがあるらしいということを知るようになるのです。

実際、大人になると身体の傷よりも内面が傷つくことの方が目立ってきますね。身体が少しぐらい傷ついても誰も何とも言わないけれど、心の傷については歌の歌詞でも盛んに表現されるのです。

心が傷つくときというのは、否定されたり嫌われたり、裏切られたり、劣等感を感じたりして自分が惨めだと思うことで起きるのです。

惨めな思いは、傷口が痛むものですね。けれども、その痛みを更に大きくしてしまうのは、それを我慢してしまったときなのです。

痛みだけではそれほど傷は深くなりません。その痛みをあるがままに認めて、しっかり痛がることができれば、傷はそのうち治ってくれるはずなのです。

しかし、その痛みを見て見ぬ振りをしたり、抑圧して感じないようにしたり、そうした我慢を繰り返すと、知らず知らずに心の傷はとても大きなものとなって残るのです。

それは静かなトラウマとなって、その後の人生のいろいろな場面で本人を困らす要因となったりするのです。

身体の傷も心の傷も、生きている証のようなもの。何も問題はないのですから、その痛みをしっかりと味わえばいいのです。

朝起きた時に、「今日も少しくらい傷ついてもいいや!」と自分に言ってあげることですね。

 

つかの間の夢を楽しむ

私たちは、自分と他人を様々に比べて、どっちが優れているだの劣っているだの、どっちが恵まれているとか恵まれていないとか、常に喜んだり不服を言ったりしています。

人間は不平等だという時、それがつかの間の夢だということを忘れてしまっているのです。私たちは本当には、完全に平等なのです。

なぜなら、誰もが例外なく生まれて、そして死ぬのですから。生まれて、つかの間の夢を見て、そして確実に死んでいくのです。

先日ある映画を見ていて、それが実在した人物たちの物語を描いたものだったのですが、彼らも一人の例外もなく、全員死んで行ったんだと思った瞬間、本当に平等だなとふいに気づいたのです。

つかの間の夢の中で、悲喜こもごも、人を恨んだり妬んだり、闘って勝ったり負けたり、歓喜したり落ち込んだりして忙しいのですが、いずれはすべて無に帰するのです。

永遠でないものはすべてつかの間の夢です。私たちの本性である無からやってきて、いろいろな物語の中で遊んで、そしてまた無に戻る、ただそれだけなのですね。

夢は夢として気楽に、そして大いに楽しめばいいだけ。難しく考えたところで、夢の中でなにがどうなるわけでもないのですから…。

そして静寂がいずれは迎えにきたところで、目覚めることになるのですね。

”なる”ことと”在る”こと

自然になりなさいと言うとき、

私はただこう言っている。

”なる”ことを止め、

”ある”ことのなかに落ち、

くつろぎなさい。

あなたはすでにそこにいる!

by osho

 

エゴは”在る”ことには、まったく興味を持たず、ひたすら”なる”ことだけに興味をもっていて、そこにこそ価値があると感じるのです。

誰もがそのように教育されてきたし、社会全体が”なる”ことこそが大切だと言い張るのです。一人前の人間になる、人格者になる等々。

なろうがなるまいが、どちらにしてもただ”在る”ことに寛ぐことができたら、もうそこにはどんな深刻さも入る余地はなくなるのです。

逆に”なる”ことにばかり努力をすれば、なれないことの苛立ちや、なれなかったことへの後悔などに襲われることになるのです。

またなれたとしても、それは一安心を得られるだけで、次の”なる”ことが待っていて、いつまでたっても心からの休息はやってこないのです。

”なる”ことは物語の中であり、”在る”ことは物語とは無縁なのですね。