理性的であろうとせず意識的であれ

私たちは、成熟した大人は理性的であるはずと信じています。確かに、ちょっとしたことで腹を立てたり、人一倍嫉妬心が強かったりすれば、子供っぽい人と思われてしまいます。

けれども、もしもその理性的な態度が本心や感情をただ抑圧することで保っているとしたら、それは単なる防衛にほかなりません。

そうした防衛によるただ表面を取り繕うだけの理性的態度は、実際子供でも身につけてしまうことができるくらいです。それは成熟とは程遠いということです。

理性的な振る舞いというのは、自己犠牲を重ねていっていずれは感情が津波のように押し寄せてきて、そのときにはどんな理性も飲み込まれてしまうでしょう。

抑圧は基本的に幼稚だと理解することです。真の成長とは意識的であり続けることなのです。激怒してしまうのは、意識的でない瞬間にしかありえないのです。

どんな感情であれ、それをあるがままに見守れるのは意識的であることができる人だけです。しっかり見守られていれば、感情を外にぶつけることはできなくなるのです。

自分は感情的ではないという自覚があるなら、それは決して大人なのではなく、理性的であろうとする防衛心だと気づけばいいのです。

理性的である必要はありません。ただ意識的であることだけが大切なのです。物語の中で理性的であるよりも、物語を見守る側になることですね。