プラクティス #8

身体との分離を感じるためのプラクティスです。

一般的に、私たちは食事のときには、食べ物の方を見ていると思います。その代わりに、意識して自分のお箸を持つ手、指、茶碗を持つ腕などを見るのです。

両手、両腕の動きをただ淡々と眺めているだけにするのです。そうすると、次第に自分とは分離した手が自動的に動いている感覚がやってくるのです。

ちなみに、私がやっているのは、毎朝、起きてすぐにヨーグルトを食べるのがここのところ習慣になっているのですが、その時にスプーンを持つ右手をじっと見続けるのです。

スプーンでヨーグルトをすくう手、そのまま口まで運んでくる手、それを繰り返している手を見ていると、段々その手が自分ではないということが分かるようになります。

いろいろ工夫をして、試してみて下さい。ボーっとしている朝が、最もやりやすいかもしれません。

眠りから醒めるためには?

私が子供の頃にはあまり気づかなったと思うのですが、いつの頃からか「ゾンビ」というのが映画などの世界で広く知られるようになりましたね。

みなさんもご存じのあの「ゾンビ」というのは、人間の腐った死体が動き回る、気持ちの悪い例の奴らです。本当は、もっと昔からあったらしいですけどね…。

そのゾンビはどういうわけか、生きた人間に襲いかかってくるのですから相当に怖いのですが、ゾンビにやられた人もゾンビになってしまうところがミソなわけです。

で、いつも思うのですが、ゾンビに追いかけまわされて、そんなに怖いのなら、いっそのことゾンビにやられてしまって、自分もゾンビになった方が楽だろうと。

一度ゾンビになってしまえば、ゾンビのことなど全く怖くなくなるのですから。ゾンビは周りに沢山のゾンビがいても平気なわけです。

それと同じように、私たちの誰もが実はぐっすりと眠りこけているとしても、気づかないとしたら、それは自分も同じようにぐっすり眠っているからなのです。

本当に目覚めた人だけが、みんなが眠っていることに気づくことができるのです。なぜ、光明を得た人を覚醒したというかといえば、その人からみれば誰もが眠っていると分かるからなのでしょう。

昔から悟りを達成することを覚醒するというのは、そういう意味があったということ。ならば、どうやったら自分が眠っていることに気づけるのか?

それは勿論、眠っている自分を探すために、内側の奥深くへと入っていくしかないのです。そして、矛盾するようですが、その探究している自分が消えて行くことで、内奥の自己は目覚めることができるのですね。

人の事を考えるな!

グルジェフの言葉に、次のようなものがあります。

「人の事を考えるな。さもなければ、あなたは決して成長しない。」

長年、セラピストという仕事を続けてきて本当に実感するのですが、苦しんでいる人、人生がうまく行ってない、生き辛いと言う人、こういう人の大多数が人の事ばかり気にしているのです。

誰でも人にどう思われるだろうかということが気になるものですね。けれども、それを気にするあまり、一番大切な自分はどうしたいのかということを犠牲にしてしまうのです。

離婚したら母はどう思うだろうか?がっかりさせてしまうのではないか?とか、今自分が会社を辞めたいと言ったら、周りにどれくらい迷惑がられるだろうか?など。

嫌われるのが怖くて、いつもいい人のフリをしていたり、否定されるのがイヤで頼まれごとは大抵OKしてしまう。こうなると、他人の奴隷のような人生になってしまいます。

何となく思い当たるふしがあるなというあなたに、心底伝えたいことがあります。あなたの人生をどうするかは、あなたに一任されているのです。

あなたの人生は、他の誰かのものではありません。地獄にするも天国にするも、あなた次第だということです。何をするにも、どうすべきかということよりも、どうしたいのかを優先すること。

人の事を考えずに生きたなら、人でなしになってしまうと思っていませんか?そんなことはありません。誰もが自分の人生に手いっぱいで、あなたの人生に興味を持つ暇はないのです。

あなたがあなたらしく生きるためには、人の事を考えていてはいけないのです。そんな余裕はないはずだからです。トータルに生きるなら、人の事は目に入らなくなるのです。

真の慈悲とは、十全に生きたその先にやってくるものでしかないのです。人のことにかまけてる場合ではないということを、繰り返し思い出すことですね。

常識は恐れから作られる

 

私たちは、知らず知らずのうちに、無数の常識という海の中で、それこそモミクシャになって泳ぎながら生きているようなものです。

常識的な振る舞いをしなければならない、常識的な考え方、常識的な生き方、常識的な格好、何から何までが常識的か、非常識なのかを判断されるのです。

そして大多数の人たちから常識的なことが分かる人だと認められることで、安心することができるのです。常識的であれば無難だし、およそ間違いはないとされるからです。

常識とは社会が作ったものであり、それは社会というものが反逆者を嫌うため、社会にとって都合の悪い人物を排除するための枠組みだと考えることができるのです。

社会に従う人を作るために、人間の中にある恐れを使って、常識と呼ばれる社会規範から逸脱したら、社会からつまはじきにされると思わせるのです。

私たちは誰もが独りぼっちになりたくないという恐怖や不安を持っているために、仕方なく常識に従うように慣らされてしまったのです。

それは自分が自分らしく生きるということとは相反することなので、必ず何らかの仕返しがマインドの奥深くからやってくることになるでしょうね。

常識という概念がなければ、非常識というものも消えていきます。常識非常識を超越して、そのどちらでもない生き方ができればいいのです。

社会にいて、社会には染まらない生き方とはそういうことなのだろうと思います。それはとても勇気のいることだけれど、十全に生きるためには、必要なことなのかもしれませんね。

明日への期待が落ちてきた!

人生って長いようでいて、意外に短いものなのですね。この年齢になって、ようやくそのことが実感と共に迫ってきたように感じています。

若い頃は、誰かが亡くなってもそれが自分に起こるとは思っていなかった。けれども、もうそんな悠長なことは言ってられないという心境なのです。

思い返してみると、自分の生き方ってほとんど変化していないということに気づかされます。メインとなるものは、明日には何かいいことがあるかもしれない!です。

今日までは大したことはなかった、でも明日かその次にはきっと何か今までとは違うことがやってくるかもしれない、そういう期待を常に持って生きてきたのです。

その期待は相当にしぶとくて、とても落とすことは難しいのですね。言ってみれば、明日への期待があったからこそ、そこそこ明るくめげずに生きて来れたのかも。

ところが、もうすでに今まで生きてきた時間よりも、残された時間の方が圧倒的に少なくなったことで、明日への期待というものを持ち続けることが難しくなったのです。

若い頃はその期待をやめることはほとんど不可能なことだったものが、今ではその期待のことを考えるとただ虚しいだけになってきたということです。

これはいいことなのか、悪いことなのか?自分としてはいいことだと感じています。期待がなくなれば、未来は自動的に落ちて行くしかないからです。

すると自然と今日の自分がどうあるかということにこそ、意識が向かうようになるのです。これは利用価値がありそうです。

歳を重ねてきて、成り行きとして手に入った大いなる気づきなのかもしれません。本当に期待がなくなれば、欲望もなくなって、それだけマインドは活力を失うはずです。

マインドが静かになれば、静寂こそが自己の本質だと気づくことができるのでしょうね。

エゴを活躍させない方法

大抵は夜11時くらいになると、こうしてパソコンの前に座り、今日のブログには何を書くのかな?と思って、しばしジィ~ッとしているのです。

昼間の時間帯に、そうだ今日はこのことをブログに書こうと思い立って憶えておいて、実際にそのネタを思い出して書くこともたまにはあるのですが、多くはこの瞬間が勝負なのです。

といっても、どこからともなく浮かんでくるものをただじっとして待っているだけなのですが、実はその時間が自分にとっては特別なものなのです。

なぜかというと、この「ただ待つ」というマインドの状態が自動的にある種の瞑想状態を作ってくれるような感覚があるからです。

勿論、やってくるものを待っている間、ああでもないこうでもないと考え出してしまえば、全く意味のない時間になってしまうのですが…。

そうしないように注意して、ただ期待せずに待っていると、いつものエゴの縛りから解放されるのです。その時、エゴは活躍することができずに困ってしまうのです。

私のエゴは、ただ待つということがとても苦手のようです。それは自分の力を発揮する場所がなくなってしまうからなのでしょうね。

他にもいくつか、自分のエゴを大人しくさせるやり方があるのですが、きっとその方法は個人個人違いがあるものなのだろうと思います。

是非その方法を見つけ出して、試してみて下さい。簡単に深い瞑想へと誘われますよ。

慰めは厳禁!

人は基本的には優しい存在です。だから、誰かが落ち込んでいる時や、悲しみにくれているときなどに、心から慰めてあげたいと思うのです。

優しい言葉をかけてもらえたら、少しは元気を回復できるかもしれませんし、励ましてもらえたら、前向きな気持ちになれたりもするでしょう。

それが実感できたら、慰めてもらったことに対して感謝の気持ちも出て来るはずですね。ところが、ここには大きな落とし穴があるのです。

落ち込んでいる時には、とことん落ち込む必要があるのです。悲しみがやってきているときには、とにかくその悲しみを徹底的に味わうこと。

それをせずに、表面的にかわしてしまえば、そのエネルギーは抑圧されてしまうのです。そしていつかは、それが仕返しにやってくることになるのです。

冷たいようですが、何であれ慰めの言葉や態度は十全に味わうことを妨害してしまう危険性があるということに気づくことです。

小さな子供が何かに腹を立てているなら、あやしたりオモチャを与えて気を紛らしたりは決してしないことです。しっかりその怒りを感じさせてあげれば、その子はスッキリと明日を迎えられるのですから。

自分の気持ちを抑圧してきてしまった親に限って、子供が全身で泣いたり叫んだりすることを止めてしまうのです。中途半端は後を引くとも知らずに…。

慰めは愛ではなく同情かもしれません。自分のことも、人のことも、愛を持ってただ見守ることですね!

プラクティス #7

上のIBMという会社のロゴ、みなさんは見たことありますか?実は、これをヒントにある練習ができるのです。それは、この世界のあらゆるものがこのロゴのように横線が入っているとイメージしてみるのです。

自分の前に広がっている世界だけではなくて、自分自身の肉体に対しても同様のイメージを作るのです。勿論、もっともっと微細な線が無数に入っているとイメージする。そうすると不思議なことが起きます。

それまで分離していた個々のものが、すべて連続しているように感じて来るのです。自分の身体も例外ではなく、その連続体の中にあることが分かります。

そしてこれは、実は単なるイメージではなく、本当のことなのです。素粒子のレベルで見れば、この宇宙のどんな部分でも、空間だらけなのです。

そして、素粒子は存在したり存在しなかったりを高速で繰り返している。それが、実在を創っているのですから、驚愕せずにはいられません。

物理学が発見した結果が何であれ、「存在」とは唯一の有機体であって、そこにはどんな不連続もないし、我々自身もその一部だということ。

その感覚を折に触れて体感することで、苦しみの根本原因である分離感を減らしていくことができるのです。よかったら試してみて下さい。

どちらでもない自分発見

もしもあなたが今、何等かの悲しみのようなものを感じているとしたら、そこで注意深くいることで、ある不思議な感覚に気づくかもしれません。

それは、その悲しみから逃げるでもなく、それと闘うわけでもなく、ただその悲しみがあるがままにさせておくことで、悲しくも嬉しくもない自分を発見できるかもしれません。

悲しみを対処しようとして自己防衛に走れば、それ以外の自分がいることなど到底気づくはずもありません。そのことに全力を注いでしまうからです。

けれども、何もせずにただその悲しみをそのままにして注意深くあるなら、それと距離ゼロの場所に、もう一人の自分を発見することができるのです。

それは悲しみとは無縁の自分なのです。この発見は特別なものです。なぜなら、自分がどんな状態であろうと、それとは無縁の自分はいつもその近くにいるのですから。

もしもあなたが、頭痛を感じているなら、同じようにして頭痛とは無縁の自分を発見することができるのです。頭が痛いわけでも痛くないわけでもなく、頭の状態とは無縁な自分。

どんなことからも切り離されている、その自分を発見できたなら、人生を今まで以上に深く見ることができるようになるのです。

食べ過ぎて胃が苦しいとき、空腹で辛い時、常にそのどちらとも無縁の自分は必ず発見することができます。そして気づけば、発見された自分こそが本当の自分なのです。

自分の身体とマインドにぴったりとくっついて、常にひも付けされているのに全く影響を受けない自分がいる。その自分に気づいているなら、あなたの身体が死ぬときに、その自分は決して死なないと気づくことになるはず。

人生という物語から抜ける練習

毎日の生活の中で、私たちはずっと自分の人生を暮らしていると思っています。それはいつも言っているように、自分自身とマインドとを同一視してしまっているからなのです。

マインドは人生という物語の住人であるため、常にその物語の中の登場人物だという感覚があるのですね。

それが昼も夜も継続しているのです。昼は現実の人生を経験して、夜は夢の中の物語を生きているのです。

海の中で暮らしている魚が海のことを知らずにいるのと同じように、私たちも人生があまりにも身近なために、そのことを忘れてしまうのです。

1日のうち、ほんの少しの時間でかまわないので、人生という物語から抜けてみてはどうでしょうか?人生の登場人物としての自分を脱ぎ捨てて、高いところから眺めるのです。

たとえ1分でも10秒でもいいので、人生から抜けていると感じる時間を自分に与えてあげるのです。その時、自分は誰でもない存在となるはず。

それは物凄く気分のいい体験になるはずです。一時的であれ何もかも忘れて、ただくつろぐのです。その時ばかりは、過去のことも未来のことも全て消え失せるのですから。

そして練習を積み重ねていけば、いずれはいつどこでも、すぐにその状態へと持って行くことができるようになるはずです。自分ひとりの密かな楽しみです。

何なら仕事中の10秒間だけでもいいのです。誰でもない状態に馴染むことができるようになれば、マインドとあなたのあいだに隙間ができるようになるはず。

そうなったら、マインドとあなたの主従関係が逆転する日も近いかもしれませんよ。