何でもない今を満喫する

思考が落ちて、自我も一時的に機能していない状態を経験したことがあるのですが、その時いつもと全く違った感覚がありました。

それは今この瞬間の密度がすごく高いという感覚。今が凝縮していて、もうそれだけで満ち足りるというような感じです。

あれは体験しなければ理解することはできません。自我が戻ってきたときには、あの満ち足りた感はあっという間に消え失せていました。

日頃思考の中で生活している限り、今この瞬間が薄っぺらい感じになってしまうのです。それは仕方のないこと、なぜなら思考は過去か未来のみをターゲットにするしかないからです。

だから何もしないでじっとしていると、自我は退屈を感じ出すわけです。退屈とは自我にとっては危険だという知らせなのです。

自我というのは、何かに従事していなければ自分がもたなくなることを知っているのです。退屈という危険信号を出すことで、何かをせざるを得ないようにさせるのです。

思考(自我)がないときには、退屈というものは存在しません。それどころか、今この瞬間の濃度が高くなって、何は無くとも充分に満足なのです。

私たちは自分が満たされないのは、自分がするべきことをしていないからだと思いがちですが、本当のところ不満の原因は思考によって充分に今この瞬間にいることができないからなのです。

このことを深く理解できるなら、自ずと生き方が変化してきてしまうでしょうね。思考がなくなれば、今を満喫することができるのですから。

「仕事」か「遊び」か…

人間の行動には、二種類のものがあるのです。私の勝手な言葉を使えば、その一つが「仕事」であり、もう一つは「遊び」なのです。

「仕事」とは、手段と目的が別々であり、「遊び」とは手段と目的が一つであるということ。そして、「仕事」の原動力は恐怖であり、「遊び」の原動力は愛なのです。

子供が無邪気に折り紙を折って遊んでいる時、折るというのは手段であると同時にそれそのものが目的なのです。つまり、そうしたいからしているのです。

これが「遊び」の方ですね。でも、子供が上手に折ってお母さんに褒めてもらおうと思っているなら、折ることが手段であり、褒めてもらうことが目的となり、これは「仕事」となるわけです。

そして私はセッションの中で、クライアントさんに問いかけるのです。毎日の生活の行動において、両者の割合はどうなっているのかと。

「仕事」が大半を占めているなら、人生は殺伐としてしまうでしょうし、「遊び」の要素が多ければ、潤いのある楽しい人生となるはずなのです。

また、人生そのものについても同じことが言えるのです。生きることが手段となって、その成果を出すことが目的であるなら、それは「仕事」の人生です。

一方で、生きることが手段であると同時に、それ自体を楽しむことが目的であるなら、それは「遊び」の人生となるのです。

こうしたことを前提として、ご自身の人生をしっかりと見直してみることは、無駄ではないはずですね。

理由のないことの中に真実がある

この世界というのは、多くの場合何らかの原因があってその結果が出てくるわけです。つまり物事には因果関係があるということ。

たとえば、食べ過ぎれば胃がもたれる。お金を浪費すれば、貯金が減っていく。人のために努力したら感謝される等々。

頑張って仕事をしたら、給料が上がるかもしれないし、あるいは多くの人にその業績を認めてもらえるかもしれません。

そうしたことがモチベーションとなって、頑張ったり努力したりできるわけです。そんな中で、私のような変わり者もいます。

変なやつと思われるのを覚悟で告白しますが、私は自分の努力で収入が増えるよりも、宝くじで当たった方が嬉しいタイプなのです。

お金を拾うということでも構いません。自分がやったことが報われるということに、あまり興味が昔からないのです。

報われずして手に入ることが何よりも好きなのですから、こればかりは仕方がないのです。自分でもこの性質は社会では不利だなとは思ってきました。

ところが、最近になってそんな自分でもいいのかもしれないと分かってきたのです。本当に素晴らしいことには、原因がないということが分かったからです。

全く原因の見当たらない感謝というのを経験したことがあるし、何かジワッとした喜びのようなものがくるときも、何の理由もないのです。

だとしたら、つまり因果がないのであれば期待するということもできなくなるのですが、それが非常に心地いいのです。

真実というのは、そもそもその因果の法則の外にあるのです。だから報われるということもありません。何だか、スッキリしていて気持ちいい感じがしませんか?

全体性に委ねる

自分の人生を振り返って見てみると、想像もしていなかった意外過ぎる展開だったり、どうしてこんなことになったんだろうと思うこともあるのです。

その人生の流れに、主役としての自分はどれだけリーダーシップを取ってきただろうと考えると、ハテナマークがたくさん出てきます。

外側から客観的に見ていた人が仮にいたとしたら、その人はそれなりに自分で決断して、自分で結果を出してきたよと言ってくれるかもしれません。

けれども、内実は全くそんなことはなくて、ただただ気がつくとこんなことになっていたということばかりなのです。

そして年齢を重ねてきて、もうそろそろ人生の結末が見えてきたとも思えるのですが、その一方で本当は今後どうなるのか見当もつきません。

そんなこんなで、生きている時間が長くなればなるほど、自分とはこうだと決めることが少なくなってきたのかなと。

きっとこうなるに違いないと考えることも減りました。この先どうなろうと、それは全体がやってくれることなので、お任せでいいやという感じです。

これから年老いて死んでいくということだけが決定していることで、それ以外は不定なのですから、この物語を楽しみながら生きていくとしますかね。

「信頼」は「存在」に対するもの

クライアントさんによっては、人を信用することができないという悩みを持っている場合があります。

その場合には、勿論自分自身のことも信用できない状態になっているのですが、他人を信用できるようになりたいという願いを持っているわけです。

より一般的には、◯◯さんのことは信用できるけれど、△△さんのことは信用できないといった具合に、相手によって変化するのです。

私に言わせれば、信用しても信用しなくても、どちらもマインドの機能の一つであり、それらは一対のものなのです。

コインの表と裏の関係と同じで、信用しているものはあっという間にその真逆の信用できないに変わり得るということです。

自分にとって都合のいい言動をしてきた人を信用できる人だと思い、その逆に都合の悪い言動をする人は信用できない人と感じるだけなのです。

だから、信用できる人が信用できない人になったり、その逆もいくらでも起こり得るわけです。だから、両者は同じものだと理解すればいいのです。

人を信用できない人が、人を信用できるようになったところで、所詮は同じことなのです。

大切なのは、裏表のない「信頼」を見出すことです。信頼とは、相手の存在に対するものなので、相手の言動には依存しないのですね。

不安をあるがままに見る

誰のマインドの中にも不安があります。自分は不安などない、と主張する人がいたとしてもそれは不安を見ずに済んでいるだけです。

確かに、不安はいろいろな手段を使って小さくしたり、まったく感じないようにできるのですが、不安がなくなることはありません。

それはマインドの本質的なものだからです。不安の根っこは、自分は個人として生きているという思い込みからくるのです。

つまり自我として生きている限りは、不安はなくなることはないと理解することです。それなら、不安をなくして安心しようとするのは、不可能に挑戦していることだと分かりますね。

そんな無駄なことで一生を台無しにしてはいけません。ではどうすればいいのか?不安がやってきたら、つまり元々ある不安が表面化したら、それをただ見るのです。

不安とは一体どんなもの?とじっくりと感じ尽くすのです。できるかぎり、そこに思考が介入しないように練習することです。

思考なしに不安とただ一緒にいることができると、それはいつまでももたないということに気付くはずです。私の経験では、10〜15分くらいで消えていきます。

根っこの不安がなくなるのではなく、不安感が消失していってくれるのです。感覚でいうと、まあなんとでもなるさ…、といった感覚になれるのです。

そしてそのワークを繰り返していくことで、いずれは5秒も見れば不安感はなくなってくれるというところまできます。

そうなったらもう、不安を恐れて安心するにはどうすればいいかなどという馬鹿げた反応をしないで済むようになるのです。

つまりは、防衛せずに生きる術を得たことになり、言い換えると自我主導の人生から解放されたということです。

自己嫌悪を見つめてみる

外側に向かって何かを訴えるエネルギー、その一つは自己表現と呼ばれることもあるし、怒りの感情として現れることもありますね。

一人の人間としてこの社会の中で生きていくためには、外へ向かうチカラである自己表現も怒りも絶対的に必要なものだと言えます。

ところがそれを抑えてしまうものがあるのです。このブログで今までに何度となく触れてきたのですが、それは「恐怖」と「罪悪感」と「自己嫌悪」なのです。

恐怖がやってきたときには、怒りを出すことはできませんし、罪悪感がきたときにも怒りは抑え込まれてしまいます。

そうした経験を私たちは何度となくしてきたはずです。こうした体験というのは、単に怒りを抑圧するだけで怒りは溜め込まれていくのです。

その一方で、自己嫌悪というのは外向きの怒りは抑えられるのですが、その怒りは自分自身へと向けられるのです。

だから自己嫌悪は自己否定でもあるし、自責の念と言われることもあるのです。自分に怒りを向けて自分を罰しようとすることもあるでしょう。

つまり、恐怖や罪悪感のようにただただ怒りを抑圧するのではなく、怒りの向きを逆にする事で自己嫌悪が起きるとも言えるわけです。

その結果、特に幼い頃に自己嫌悪が強ければ強いほど、親に向かって怒りを感じるようなことができなくなってしまうのです。

もしも子供の頃に、親への怒りを感じた記憶がないということであれば、自己嫌悪について見つめてみることをお勧めします。

人間の内面を三つに分類する

私たち人間とは、社会的な生きものです。そこが他の動物と違う所と言ってもいいかもしれません。

動物の世界においても、それなりの秩序だったりがあると思うのですが、人間が作る社会に比べればとても単純なものです。

私がいつも言っているマインドというのは、その社会によって個人個人に組み込まれた心理的な仕組みのことなのです。

ただし、生まれてから2〜3年の間は、まだその仕組みがはっきりとは機能していないため、無社会性としての特徴である無邪気さや無防備さで生きているのです。

私はこの無社会性あるいは非社会性のことをオリジナルと呼んだりしています。この部分は生後組み込まれるマインドとは異なる生まれ持った部分なのです。

その後次第に社会性とともに自我という仕組みが作られて、晴れて社会の中で生きていくために必要となるマインドが形成されていくわけです。

ということは、成人した私たち人間の内面には、無社会性の部分とマインドである社会性の二つの部分から成り立っていると思われがちですが、実はそうではありません。

本当はもう一つの部分が、マインドの中に作られてしまうことが多いのです。それが反社会性というものです。

これは、無社会性と社会性のバランスが悪くなって、無社会性が影に隠れてしまったような生き方を続けていくと、自動的に作られてしまうのです。

この反社会性というのは、社会性のひっくり返ったような内面であり、簡単に言えばうつ症状を起こしたりして、普通の社会生活を営むのを困難にすることで、マインドが壊れることを防ごうとする仕組みなのです。

反社会性が表面化すると、社会性は引っ込んでしまうのですが、このような反社会性は一時的なものであって、マインドが休息を取ることでまた社会性が息を吹き返すことになるのです。

ただし、社会性を保ったまま反社会性が裏で活躍することもあるのですが、それを問題行動と私は呼んでいます。問題行動が激しくなると、人生そのものが破壊されてしまうこともあるくらい深刻です。

私たちの大切な内面を、無(非)社会性、社会性、反社会性のように大きく三つの部分で見ることができると、それらがどのように活動しているかという観点によって、人の内面の状態を説明することができるのです。

自我は中毒患者

年齢退行のセッションの中で、親自身が持っている不安感をダイレクトにもらってしまっていたことを思い出すクライアントさんがいらっしゃいます。

その影響力は半端ではなく、それを自分の感情として感じてしまうのです。こうしたことは親子の間では、ごく普通に起きていることなのです。

その不安から目を背けることなく、しっかりと感じてもらっている間に、不安の中にはそこはかとなく癖になる要素があると気づくかもしれません。

ある種の快感だったり、いわゆる中毒性のある刺激だと思えばいいのです。それが不安の正体であるというよりも、自我そのものが中毒性を見出してしまうのです。

言ってみれば、自我というのは中毒患者のようなところがあるということです。しかも、一般的に言ってネガティブなもの、敬遠されるようなものにこそ中毒症状を起こすのです。

自我はそうした仕組みを利用して、そこからさらに執着心を生み出すのです。そうやって本業である防衛を継続させることに成功するのです。

癒しを進めていく上で非常に大切なことの一つは、やってくる不安から逃げようとしたり戦ったりしないでいる練習をすることです。

そうすることで不安の根っこを見極めることもできるし、不安感は次第に小さくなっていくものです。

勿論同時に、中毒症状も緩和していくでしょうね。そうなったら、不安を恐れることはなくなっていくはずなのです。

「◯◯ロス」は執着の証

昔からあった言葉かどうかは知らないのですが、「◯◯ロス」という言葉を最近よく耳にするようになりました。

例えば、有名芸能人の彼が結婚してしまったので、◯◯ロス…みたいな使い方をするわけですが、それはどういったマインドの状態を意味するのでしょうか?

それは勿論、執着心つまりそれにしがみついていたのに、それを失ってしまったという思い、それを◯◯ロスというのです。

なので、それが愛でないことは明らかですね。執着と愛は言ってみれば正反対のようなものだからです。

元々、何かにしがみつくということはその対象を自分の内側に入れ込んでいるかのような錯覚をしているということなのです。

しがみつき過ぎて、もはやそれは外部にあるものではなく、自分の中に入れ込んで同化してしまっているのです。

だから、それを失ったときに自分の内側にポッカリとした穴が空いたような気持ちになるのですが、それが◯◯ロスというものなのです。

なんであれ、内側に外側のものを入れ込んではいけません。これも防衛の一つなのですが、執着していればもう愛を感じることはできなくなってしまいます。

自分の中にはナニモノも入れ込まずにいること。そうなって初めて内側は愛で溢れていることに気づくことができるのです。