得ることと失うこと

何かを得ることと、何かを失うことをイメージしたときに、どちらが肯定的でどちらが否定的でしょうか?

もちろん多くの人にとって、得ることが肯定的であり失うことは否定的なことだと言うでしょうね。

自我として生きている限りは、それが大多数の人にとっての共通認識なのです。自我とは足りてないという欠乏感を、何かを外側から得ることで満たそうとする存在だからです。

そして自我が作ったこの社会では、やはり多くを得ることの方が何かと都合がいいのも事実です。

だから人はさまざまな能力を身につけようとするし、何かの資格を得ようとするのです。そういったことすべてを含めて、自分をより改善したいと願っているのです。

けれでも、自我をどれほど磨いたところで自我のままなのです。道端で拾った小石を、どれほど研磨したところでダイアモンドにはなりません。

ただしここで言いたいことは、小石よりもダイアモンドの方が優れているということではなく、小石は小石のままで完全なのだということ。

癒しは、今のあなたに何かを付け加えるのではなく、あなたがこれまでに培ってきたさまざまな考えや生き方を捨てて行くことなのです。

そして本来のまっさらなあなたに戻った時に、本当のあなたは決して自我などではなかったということを知ることになるのでしょうね。

潜在意識はなぜできるのか?

まだ中学生になっていなかった頃だと思うのですが、人間には潜在意識というものがあって、自覚できない自分というものを隠し持っていると知ったのです。

その時には、人間とは何て不思議な生き物なんだろうと驚くと同時に、なぜか魅惑的な感じがしたのを覚えています。

自分にとって不可思議なことに妙に好奇心をくすぐられる体質だったのでしょうね。でもなぜ潜在意識という領域があるのでしょうか?

この仕事をしていく中で、自分なりに分かったことがあるのですが…。私たちの内面は、全くまっさらな状態から始まって、周囲からさまざまなイメージを植え付けられるのです。

それは毎日、凄まじいほどの量なのです。そしてその情報は一貫しているわけではなく、情報を与える人によって異なるのですから大変です。

もしもそのままずっと、与えられるがままでいたなら、一人の人間としてのまとまった人格を作って行くことはできないでしょう。

そのくらいやってくる情報はバラバラなのです。人格を固定化していかなければならない時に、それまでに作られた自己イメージの強いものを固定化するようにするのです。

つまり、それまで入り込んだ自己イメージと同類の情報は更に中に入れて固定化し、異なる情報は跳ね返すことで中へ入れないようにするのです。

この跳ね返す機能を果たしているのが、潜在意識と表面意識の境目なのです。その境目が自己イメージを固定する役割をするわけです。

成長するにつれてその境目が分厚くなって行き、大人になる頃には自覚出来る部分と潜伏している部分が完全に分離された状態になるのです。

その上自己防衛の手段として、都合の悪いことを隠すためにも潜在意識を活用できるので、人間にとって潜在意識は必要不可欠なものとなったのです。

癒しの観点からすると、潜在意識がなければ心を病むということもなかったはずなのですけどね。

何もせずにいる時間を作る

1日のうちで、たったの5分でもいいので「何もしない」でいる時間を作ってみるといいと思います。

何もせずにただいるというのは、意識しなければできないことですね。瞑想すらしないでいるということですから、自我にとっては難題なのです。

自我というのは、たとえほんの数分であっても全く意味のないこと、価値のない時間を過ごしたくないのです。

一生懸命働く、疲れてただデレってしてる、ゆっくりと睡眠をとる、問題に取り組む、それが何であれ何かの目的があるのです。

何もしないというのは、その時間は完全な無目的な状態にあるということ。もちろん過去のことも未来のことも考えない。

そこにはどんな利益も、どんな期待もなくいるのです。つまり言いたいのは、自我にとっての無価値な時間となる必要があるのです。

初めのうちはつい何かを考えてしまったり、退屈な感じがして耐えられなくなったりするかもしれませんが、そんなことは構わずにいてあげるのです。

なにもしないでいることができたなら、あなたはきっと味わったことのない不思議な清々しさを感じるかもしれません。

でもそれを目的にしてはいけません。どんな期待もせずに、ただただ何もせずにいるのです。きっといつか生きる感覚に変化がやってきてくれるでしょうね。

無邪気さと深刻さは共存しない

無邪気さと深刻さというのは、どうやっても共存することはできません。無邪気さは深刻さとは無縁だし、深刻さは無邪気さを隠してしまうのです。

人生の中で、この二つの要素のどちらが大切かははっきりしていますね。無邪気さが宝であり、深刻さは防衛からくるのです。

自我が無邪気であった試しはありません。なぜなら、自我の本分は防衛だからです。防衛のエネルギー源は恐怖であり、そこに愛はないのです。

一方で無邪気さは別の言葉で言えば無防備ということになるので、そこに自我の存在が入り込む余地はないのです。

気がついたら、自分の中に無邪気さを見つけることができなくなってしまったという人はたくさんいるのです。

その上、無邪気さを見失ってしまったということすら気づいていないものです。人に言われて初めて、そう言えば無邪気さをなくしてしまったと気づくのです。

そんな場合には、間違いなく毎日の生活に深刻さが漂っているのです。無邪気さの特徴である気楽さとか、明るさが消えてしまうのです。

あなたの中にある、この二つの要素をじっくり見てあげて下さい。そして出来る限り、深刻さを排除して無邪気さをたくさん使えるようにしていくことですね。

不満を持たない子供は危険

人それぞれとはよく言ったもので、何にでもイチャモンをつけたがる人がいるかと思えば、ことさらなんの不満もないと言う人もいます。

どちらがお得かと言えば、それはもちろん文句が少ない人の方がいいのです。なぜなら、文句があればそれに比例して不満を持っているということだからです。

私たちは満たされたいという願望を誰もが持っているので、不満を感じると嫌な気持ちになるわけです。

けれども、もしもあなたが幼い頃からずっと不満がなくて、そのまま成長して大人になった今も不満がないというなら、それは危険な匂いがします。

それは幼い頃からすでに、本当の不満を見ないように隠してきた疑いが濃厚だからです。子供のときに親に不満を感じるのは自然なことなのです。

親が生きているワールドと子供のワールドは違うものだからです。違っているのに、何でも受け入れてきたならそれは自分を欺いている証拠なのです。

本人が気づいていないだけで、マインドの奥には都合の悪い感情や本音がたくさん溜まっている可能性が大なのです。

そうなってしまうには、それなりに理由があるのですからそれをまずは見つけること。そしてすべてをぶちまけるようにしてあげるのです。

自分の本音と一緒に無邪気さも心の地下室に放り込んでしまったことに気づくことができたら、そこから新しい人生がスタートするはずですね。

常識で自分を縛るな

科学というのは、それまでの常識を覆すことで進歩発展してきた経緯がありますね。だから、優秀な科学者ほど常識の枠を超えた考え方をするのです。

時間は同じ速度で進むという常識は、アインシュタインの相対性原理によって覆されたし、存在は存在としてあるという常識は、認識されることで存在が確定するというように覆されたのです。

それ以外にも、我々一般人が知らないような非常識を先端の科学者はたくさん知っているのです。彼らが隠しているのではなく、我々には理解できないだけなのです。

科学者が証明したり発見したりしなくても、現実の体験によって常識を覆す人たちもいます。

たとえば、不食の人たち。彼らはこの世界に何万人いるかは知りませんが、私たちが勝手に思い込んでいる、「食べなければ死ぬ」という常識を見事に破って見せました。

彼らは全く何も食べなくても平気で生きていることができるのです。もちろん、現代科学では解明することはできないのですが、実際に食べずに生きている人がいるのですから仕方ありません。

食べずに生きていられるなら、最高潮に健康体になるでしょうね。なぜなら、食べ過ぎや飲み過ぎなどの生活習慣病も消えてしまうわけですから。

消化吸収と解毒に使われていた全エネルギーを別のことに使えるようになるのですから、どれほど活力ある毎日を過ごせるようになるか、想像もできません。

常識の中で生きるのは安全かもしれませんが、それは自分を檻の中に閉じ込めて安心しているようなものです。

常識を捨てて、なんでもありという気持ちで自分を解放すれば、きっと人生の彩りが変わってくるはずです。

期待が辛さを創り出す

人生が辛いとしたら、その理由はたった一つしかありません。それは自我があれこれと期待をしているからです。

期待するのがなぜいけないの?と聞きたくなるかもしれませんが、いけないと言っているのではなく、単に辛くなるということ。

それでもやっぱり期待せずにはいられないのは、それが自我の生きる道だからです。自我は期待によって生き延びるのです。

逆に自我が活動を停止しているときには、期待は自我とともに消えているはずなのです。そのときには、この瞬間だけを楽しむことができるのです。

けれどもそれもつかの間、自我はあっという間に未来への期待とともに戻ってきてしまうのです。

そしてもしも期待が叶ったらそれはそれで嬉しいのですが、またすぐに別の期待を生み出すのです。

そして期待が叶わなかったならば、そこで辛い思いをすることになるのです。結局どうなったところで、期待はなくならないし、そのために辛さもついてくるのです。

これが私たちの現状なのです。自分の意思で期待を落とすことはとても難しいので、やれることは期待してしまう自我を優しく見守ることですね。

それを継続しているうちに、少しずつですが期待するエネルギーが自我とともに小さくなっていくのです。

期待が小さくなると、それにつれて大喜びすることもなくなるのですが、それとともに辛さも小さくなっていくのです。

常識は勇気によって覆せる

かつて地球が宇宙の中心で、太陽もその他のすべての星々も地球の周りを回っているという、いわゆる天動説が常識だったときがあったのです。

まさか自分のいる地球、自分の土地が太陽の周りをグルグル回っているなんて、思いも及ばなったのです。

それが、コペルニクスの地動説によって完全に覆ってしまったのですが、それが広く浸透するまでには大変な時間がかかったし、抵抗も強くあったはずです。

けれどもどれほど堅牢な常識であろうとも、勇気ある科学者の存在と、それが間違っていることであればいずれは修正される運命にあるのですね。

私たちが暮らしているこの時代にも、そういった間違って広まってしまった常識というものはたくさんあるのです。

その一つに、放射能は怖いという常識があります。福島の原発事故がきっかけとなって、多くの人が政府のいう常識を植え付けられました。

その大元はICRP(国際放射線防護委員会)というところがだしてきた被曝の基準値。年間1ミリシーベルトという値なのです。

ところが、調べてみれば分かることですが、この値は80年も前に出されたあるデータをもとに作られたもので、今では勇気ある科学者からは完全に否定されているのです。

もしも日本政府が最新の科学を取り込む勇気があれば、福島から退避して帰ることができずにいる多くの人々の人生が救われるでしょうね。

私たちが個人として生きているという常識も、真実は違うところにあるのです。それを垣間見ることができた人だけが知っていること。

けれどもこれもいずれはすべての人が気づいていくことになるのだと確信しています。

マインドへの期待を放棄する

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

所詮あなたは人間なのだ、というのを所詮あなたはマインドなのだと言い換えてみてほしいのです。

あの人、この人、という代わりにあのマインド、このマインドというように見ることを練習するのです。

本当の私たちは決してマインドなどではないのですが、誰もがマインドと自己同一化しているので、そのように見るのが正しい見方なのです。

マインドは、不完全で、弱く、誤りだらけで、失敗をするものです。それを避けることはどうやっても不可能なこと。

この不可能性をしっかり見抜くこと。不可能なことを前にして、完全に無力だということを理解することです。

それこそが肩の力を抜いて、緊張から解放される唯一の方法なのです。自分のマインドに何かを期待するのを放棄することです。

マインドの領分を熟知すること。それは常に防衛し続けるのです。だから真の愛を知ることはありません。

マインドが愛してるという場合は、自我の愛であって、無私の愛ではないのですから。真の愛とは、マインドが消えた時の状態をいうのです。

過食を治すには?

それこそ星の数ほどある問題行動の中でも、摂食障害で苦しんでいらっしゃる方は多いですね。そのほとんどが女性なのですが。

男性の場合には、食べることへの興味が女性ほどには高くないというのがその理由かもしれません。

それと、食べることがそのまま外見の変化に結びつくということから、痩せたいという願望が拒食を起こさせるということもあるのでしょうね。

摂食障害には拒食と過食があるのですが、確実に拒食症の方が頑固で治りにくいように感じています。

とは言っても、過食症もご本人は非常に辛い毎日を送られているのです。健康で楽しく美味しい食べ物を食べたいという当たり前のことができないのですから。

過食を治らせないようにしている要因の一つに、自責の念があるのです。過食をやめられない自分を責めていると、その反発として過食は続くのです。

その理屈は簡単。元々過食は問題行動の一つなので、根っこに自分の気持ちを分かって欲しいという願望があるのです。

だから、過食を自分自身で責めてしまえばやっぱり分かってはくれないんだという思いがやってきて、分かってもらうまで過食を止めるわけにはいかないのです。

この仕組みをしっかり理解することができれば、おのずと過食は改善していくはずなのです。