スケールを考える

もしもあなたが、すべてのものと一体だと気づけたなら、あなたは至福の状態となるはずです。

一方で、現在の私たちのように、自分はあらゆるものから分離した個別の存在だと思えば、そこであらゆる苦悩がやってくるのです。

ところで、あなたや私がいることを認識できる距離というのがありますね。互いに1kmも離れてしまえば、存在は確認できなくなってしまいます。

逆に、10cmよりももっと近づけば、やはり私たちは互いの皮膚の一部しか認識することができなくなってしまいます。

あるいはもっと近づいてしまうと、互いの身体の細胞やその他の組織しか見ることができなくなります。そこにはどんなあなたも存在できません。

最終的には、素粒子のレベルにまでスケールを縮めてしまうと、この宇宙には素粒子以外のものは何も存在しなくなるのです。

この時にはどんな分離も存在しないことが明白になりますね。この宇宙には素粒子以外のものがないのですから。

こうしてこの世界を見るスケールを変えるだけで、全く異なる世界の姿に出会うことができるのです。

そこには、どんな物語もないし、個人などという途方もない夢物語の存在もありはしないのです。

意識をこの瞬間に凝縮する

私たちはあまりにも外側の世界で起きることばかりに、気を取られるようになってしまっているのです。

外側で起きていることというのは、時間とともに流れる物語なのです。そのために、瞬間瞬間を見ることができなくなったのです。

だからまずは、外側に向いている注意を180度回転させて、内側に着目するという練習をすることです。

自分を物語の一部として見る習慣がついてしまっているため、自分も時間と共に生きているように思えるのです。

けれども、内側を見るようになると、そこにはどんな物語も存在しないと気づくので、時間も存在しないと気づくのです。

つまり瞬間を捉えられるようになるのです。瞬間にはどんな目的地もないし、成長や発展も改善もありません。

この感覚が自我にはとても分かりづらいのですね。自我には時間が必要なのです。時間によって自分が向かうためのスペースができるからです。

逆にこの瞬間に意識を凝縮するなら、それこそが無限の広がりを持つ真実の感覚だと気づくようになるはずです。

真実は共有できない

日本は民主主義国家なので、何かを決める時には基本的には多数決という手段を取ることになっていますね。

その結果が後々正しかったのかどうかは別として、多数決によって決めることで公平な感じがするのです。それはとても大切なことです。

けれども、多数決はあくまでも手段であって、最良の結果を導き出すものとは限らないということは知っておくべきです。

だからこそ、リーダーの存在が必要となるのです。リーダーの役割というのは、多数決の結果を独断で覆すことのできるくらいの圧倒的な牽引力です。

誰もがAを選んだとしても、時にはリーダーがBを選ぶことで、全体をBの方に導くことのできる力が必要な時があるということです。

だからリーダーは孤独なのです。助言を聞くことはあっても最後の最後の決断は自分独りでしなければならないからです。

真実も似たようなところがあります。真実を多数決で決めることなど勿論できないですし、誰かと共有することもできないのです。

たった孤りで真実を探究すること以外の方法がないのです。真実は完全に個人的なことだからです。

そして皮肉なことに、真実に到達した時にはその個人が完全に消滅してしまうことになるのですね。

自我の秘密を暴く

私たち人間は、その本質である全体性の感覚をすっかり忘れてしまい、代わりに個人(自我)としての自分を生きているのです。

その極端な思い違いのせいで、自分は世界と分離している存在だと信じるようになってしまったのです。

全体だったものがその全体から分離したほんのちっぽけな一部分に成り下がってしまったために、とんでもない欠乏感がついてきたのです。

自分のままで足りないという居ても立ってもいられない感覚、それがあまりにも辛いので不足を外側から取り込むことで満足しようとするようになったのです。

それが私たちのあくなき欲望を生み出したわけです。その根本が間違っているため、何をどれほど取り込むことができたとしても、足りない感覚はあり続けるのです。

それで、あるものを手に入れてその欲望が達成されると、すかさず次のものを手に入れたくなって、これが永遠に続くことになるのです。

それはそうですよね、自分は足りないという感覚は個人という間違った思いからやってくるので、自我がある限りは不足感は消滅しないのです。

この仕組み、自我の秘密をしっかりと理解することです。そうすれば、あくなき欲望の愚かしさに気づいて、求めることをやめることになるのです。

求めなくなった人から、ゆっくりと自分の内側にこそ最も大切な秘密が隠されていると分かるようになるのです。

ただ単に自分の本質は全体性なのだと気づくこと、これ以外に満たされるということはないと知ることですね。 

最も愚かな信念

私が考えうる限りにおいて、最も愚かだなと思える信念とは、「自分は自分のままではダメだ」と言うものです。

この考えがあなたの中にあるのなら、それに関心を払わないようにすることです。要するに、その考えを無視し、無関心であるようにするのです。

相手にしないこと。それと戦ってみたり、それを排除しようとしてみたり、そんな考えがあること自体が悪いことだなどと思わないこと。

その愚かな考えを何とかしようとなどしないことです。でなければ、その愚かな考えは知らぬ間にあなたを乗っ取って、占領してしまうはずです。

そうなると、自我はその信念から猛烈なエネルギーを獲得して、一見元気いっぱいになって自分を何とかしようとしだすのです。

理想的な自分、他人に迷惑をかけず、結果を残す自分、他人から肯定され、賞賛される自分、人格者の自分、ひとかどの人物になろうと頑張るのです。

けれどもいずれはその頑張りは枯渇していくことになります。もうこれまでのような頑張りは効かなくなくなるのです。

そして最後は、一番最初に作った決心である、「自分は自分のままではダメだ」が間違っていたのだと気づくことになるのです。

大変な遠回りに見えるかもしれませんが、肝心なのは気づくことです。自分のマインドを丸ごと認めることになったなら、あとは日々やってくることを楽しめばいいのですね。

アインシュタインの手紙

先日ネット上で見つけたのですが、アインシュタイン博士が娘に宛てた手紙があって、彼本人の希望でしばらくは世に出さないでいたらしいのです。

その内容がなかなか素晴らしいのですが、もしもそれを私のようなど素人が書いたのであれば何の価値もないのですが。

彼のような20世紀を代表する物理学者が書いたものであって、しかも科学者が一般的には目を背けてしまうような非科学的な内容なのです。

人類あるいは物理学者は、ずっとこの宇宙の統一理論を発見しようと躍起になってきたわけです。

ところが今の科学のレベルでは、到底それを発見することができないでいるのですが、彼の仮説はとても素晴らしいのです。

それはあらゆる万物の背後にあるエネルギーは「愛」だと言うのです。たとえば、すべての物質同士は互いに引きつけあっているのです。

その力がどこからやって来るのかは、まだ発見されていません。それも愛だと彼は言っているのです。

愛のエネルギーがすべての根底にあって、この世界が創造されているのだということです。

素人が言ってもダメですが、彼が言うと何とも重みを感じることができますね。もう少し、重要視されても良いような気がしますがどうなんでしょう。

遠心力から求心力へ

私たちはみな自我として生きています。こんな基本的なことも、学校や親も含めて、誰も教えてはくれません。

ただ社会の中で立派に生きていくのが正しいことだと教えられるのです。この状態では、意識が外側にばかり向くのも当然のことです。

外側で起こることにばかり一喜一憂して、そうした反応をする自我を見ることを忘れてしまうのです。

そんなことを何十年続けたところで、満たされるはずがないのです。あなたを満たすものは、外側にあるのではなく内側にこそあるのです。

そうした理解がなされない限り、どこまで行っても人生物語に翻弄されたまま、生涯を終える羽目になるのです。ではどうしたらいいのか?

私たちは外へ向いていた力(遠心力)を、内側へ向く力(求心力)に変える必要があるのです。

肉眼で外を見ていたのなら、心の眼で内側をみるのです。耳で外の音を聴いていたのなら、今度は心の中の声や音を聴くのです。

最初は難しく感じるかもしれませんが、練習次第では求心力は当たり前のことになるはずです。

こうした努力を続けることにより、自我の本性を見ることができるようになり、自我は本当の自分ではないとわかるのですね。

自己表現の大切さをもう一度

毎日事務所に行く前に、ちょっと寄って買い物をする小振りのスーパーがあるのですが、そこの店員さんにとても気持ちの良い人がいます。

きっとご近所の主婦がパートとして働いているのだろうと想像しているのですが、テキパキとした応対やお客さんのことを覚える能力がすごい。

本人はきっと普通に仕事をしているだけなのだろうけれど、他の店員さんと比べて、明らかに優れているのです。

こんな時に、欧米式にチップでもあげることができたら、こちらの嬉しい気持ちを伝えることができて、win-winだなあと思ったりしていて。

若い頃仕事で海外出張に行った時に、初めて直にチップの文化に触れて、こんな面倒なのがない日本がやっぱり一番良いやと思ったものです。

欧米では、特に接客業の人は沢山チップをもらうために、勤務態度が良くなるということがあるので、理に叶っているのかもしれません。

けれども、日本人の特性って少し違うように思うのです。たくさんお金をもらえるから一生懸命働き、低賃金だから不真面目に働くというのではないはず。

だからこそチップの文化が日本には根付いていないのですね。じゃあどうしたら良いのだろうと考えたのですが。

きっと素直に気持ちを相手に表現すれば良いだけなのかなと。何となく仕事中に迷惑かけたくないという思いがやってくるので、ブレーキが掛かるのです。

セッションでは毎度、自己表現がとても大切だということをお話ししているので、これも一つの自己表現の方法だと思って、実践して見れば良いかなと思っているところです。

努力の本当の目的

私たちはあれやこれやと努力をします。努力家などと言われてしまう人もいるくらい、努力が好きなのです。

努力する目的は、それが報われて願っていたものが手に入ることです。努力しただけ、報われる可能性が高くなることも事実ですね。

1時間の勉強よりも、5時間の勉強の方がテストの結果がより良くなる可能性があるのは当然です。

そして努力が報われると、私たちはまた更なる努力をして次の希望を叶えようとし出すのです。生憎ですが、これが自我を強化することにもなるのです。

もしも人並み超えた大変な努力をしたとしたら、その苦労は報われて当然だと思うはずです。これは、投資しただけの報酬を期待するからです。

けれども、投資に見合った報酬を貰えなかったり、逆にその投資(努力)が仇となって、思いもよらない結果がやってきたとしたら、容易にはそれを受け止めることはできないでしょう。

どうやっても納得がいかないのです。あの努力、あれだけの投資が全部無駄になってしまったとなったら、仕方ないでは済まないのです。

それがマインドの特性なのです。投資した分だけ報酬に対する執着が大きくなるといってもいいですね。

もしも清々しく穏やかな気持ちで生きていきたいのであれば、執着が一番の邪魔者です。

その時には、努力はその努力が完全に無駄だったと気づくために必要なのだということを思い出すことですね。

人生は一本道

もしもあなたが過去を思い出して後悔をしたくないと願うなら、方法はたった一つしかありません。

それは、過去にどれほどの成功があったとしても、それは自分の手柄ではないということを知ることです。

なぜなら、失敗して後悔するのと、成功して手柄を喜ぶのは、対極にあるもの同士であり、かつどちらも幻想だからです。

それは私たち人間にはいかなる選択権もないからです。決定権は私たちがそこからやってきた「無」にあるのです。

自分には自由意志があって、人生の中で無数の選択肢を如何様にも選択し続けることができると思い込んでいるのです。

これが自我の生きる支えになっているので、それは思い込みなどではなくて真実だと信じ込んでいるし、そうせざるを得ないのです。

けれども、そのために失敗したら後悔して自分を責めるし、成功したらそれを手柄にして喜ぶことになるわけです。

人生は一本道なのです。たくさんの分かれ道、選択肢があるように見えますが、本当は起こることがただ起こるだけ。

このことへの深い理解を得ることができるなら、後悔することは不可能なことなんだと分かります。