知覚しているものがすべて

私たちは普段、客観的事実というものを共有しているのです。自分が知っているものは他の人も知っていると思っているのです。

たとえば、自分は日本人で日本に住んでいるけれど、地球の裏側にはアメリカという国があるということを他の人と共有しているのです。

地球が丸いことや、渋谷駅周辺が賑わっていることなどを、みんなで共有していて、それが事実(真実)だと思っています。

家の外にはこういう道が最寄りの駅まで続いていて、そこから電車に乗ればあちこちと行くことができると。

けれども、自分がその瞬間知覚していない事柄というのは、実際には誰とも共有していないどころか、自分にとっても不確定なのです。

防衛が強くなると、思考によって知覚しないあらゆる事柄が現実であるかのような錯覚をしてしまうので、遠いどこかに想いを馳せることも可能です。

その一方で、思考から距離をとることができると、目の前で起きていることだけが興味の対象となるのです。なぜなら、それ以外は不在だからです。

在るものとは、今この瞬間にあなたが知覚しているものです。それ以外のすべては幻なのですね。

死への深い理解がリラックスをもたらす

人の死に直面すると、普段気づかぬうちにこの生の根源的なことから目を背けて生きていることに気づかされますね。

人はいずれは必ず死ぬのです。これほど厳格に平等なことは他にはありません。その人の人生が如何なるものであろうとも全く無関係です。

死によってすべてを奪い取られてしまうのですから、この人生に一体どんな意味があるのか疑問になってもおかしくありません。

死ぬことで、生まれてくる前の状態に戻されるのです。つまり白紙に戻されるのですが、マインドのエネルギーだけがしぶとく残るのです。

それは実際私たち自身ではないのですが、そのエネルギーと自己同化しているために自分が生まれ変わるということが真実のように思えるのです。

無からやってきて、無へと帰還するというのが真実なのですから、その真ん中で起きることのすべては夢のようなもの。

それを理解できれば、深刻さも罪悪感も惨めさも見当違いだということが分かって、本当にリラックスすることができるでしょうね。

義母の死に触れて

義理の母が亡くなって、お骨を拾ってきたところです。チタンでできた人工骨頭が痛々しく茶褐色に変色して残っていました。

こんな金属を足の付け根の骨に接合されたまま、何年も生きていたのかと思うと、大変だったなとつくづく思うのです。

とくに、数年前に倒れてからは、もう二度と家に戻ることはないだろうという状態まで病状は悪化していました。

身体を動かすことも、食べ物を口から食することも、話すことさえできない状態になって、それでも生きなくてはならない非情に胸が痛みました。

自分の選択で生きるか死ぬかを合法的に決めることができる世の中に、一刻も早くなって欲しいと思わずにいられません。

そんなこんなで、亡くなったことの悲しみなんかよりも、きっとこれで生き地獄から解放されたという深い安堵の方が大きかったのです。

亡き骸を見て、この身体が本人ではないということを改めて、明確に感じることができたのは良かったと思います。

しばらくゆっくりと養生して、またいずれはこのシャバに戻ってきて、悲喜こもごもの人生を生きることになるのでしょうね。

正しいこと≠真理

真理というのは非二元のこと、つまりは二元性の世界である私たちの宇宙の根っこを意味するのです。

人によっては、真に正しいこと=真理だと思っている場合もあるかもしれませんが、それは間違いです。

正しいこととは、正しくないことと対を成すことで意味を持つのです。だから正しさは二元性の世界のものなのです。

真理は、正しいことと正しくないことの両方を含むとも言えるし、そのどちらでもないともいえるのです。

一つの例を挙げると、正しいことというのはその時代によって変わるものです。先生が生徒にゲンコツを与えることが良しとされる時代がありました。

ところが今では何であれ暴力はいけないことだとみなされるのです。あるいは、かつては芸能人と暴力団が友人同士というのが公に認められていました。

それが今では一緒に写真を撮るだけでもとんでもないことだとされるように変化したのです。このように、正しさは変化するのですが、真理は変化しようがないのです。

真理とは無なので、変化する何ものもないのですね。だから時間もないし、永遠のものなのですね。

自己表現の重要性

どんな理由があるにせよ、人は自由な自己表現を抑えてしまうと、そのあまりにも大きなツケを払わされることになるのです。

10回でも100回でもきっと問題はないのですが、それが毎日の積み重ねによって何万何十万回となると、まるで話しが違ってくるのです。

そのことは残念ながら、経験してみないことには気づけないことなのです。だから自分は自己表現が苦手だという自覚はあっても、大抵はそのままそれを放置してしまうのです。

それが10年20年と続いていくことで、なぜこれほどまでに生きづらいのかという、大きな疑問符となって結果が出るのです。

言いたいことを言わなければ、その度にマインドは傷つけられるので、それを相手のせいにしてしまう場合があります。

そうなると、大したことはなくてもいちいち相手の言動にイラつかされることになるのです。

相手からしたら、なぜこんなことでそんなに嫌な顔をするのだろうと不審に思うのですが、そんなことは怒りを貯めてる側からすれば通じないのです。

繰り返しになりますが、この社会で生きていくためには面倒であったとしても、一定の自己表現をしていかなければ、いずれはマインドが参ってしまうのです。

そのことは決して忘れないことですね。そして、なぜ自己表現ができないのか、その原因をしっかり見てみることが絶対的に必要なのです。

宗教を必要とするのは自我

人類の歴史を見てみればすぐに分かることですが、それは宗教と戦争の歴史なのです。戦争で絶望することによって、宗教に救いを求めるわけです。

どの宗教も始まりは素晴らしいものでした。人間を真理に向かわせようとするものは、ホンモノだと言えます。

ところが、弟子のまた弟子のそのまた弟子の代あたりから、何やらおかしくなり出して、気づいたときには人を操る醜悪なものへと変化してしまうのです。

宗教が組織化された段階で、それはもう宗教ではなくなってしまうのです。自我が他の自我をコントロールするための手段として使われるようになるのです。

人とはこうあるべき、のような教えをするような宗教は、どれほど信者が多くてもまったく真理から程遠いものです。

自我の存在を前提とするもの、死んだら天国に行けるとか、人格を磨くなどの教えは自我にとっては都合がいいのでしょうけれど…。

個々人が自らの本質に気づくようにするものだけが、ホンモノの宗教だと思えば間違いないのでしょうね。

だとすると、数多く存在するどんな宗教も必要ないのです。真理は自分の内側深くを見つめることで探し出すことができるからです。

生き延びるのは惨めさ

ある時に、自分という個人はいないということに気づかされてから、それなら魂などという存在もあり得ないと気づいたのです。

だとしたら、生まれ変わること、つまりは輪廻転生なんていうことも本当はないに違いないということになりますね。

それなのに、催眠療法の中でさまざまな前世、過去生と言われるものを見る人がたくさんいるのも事実なのです。

この矛盾は一体何なのだろう?と思っていたのですが、それが驚くほど簡単に自分の中で解決してしまったことがありました。

転生するのは魂ではなくて、エネルギーだということです。エネルギーといっても、思考や感情のエネルギーのこと。

その中でも最も代表的と思われるのが、惨めさにまつわるエネルギーなのです。私たちの人生は、自分の惨めさを払拭しようとするあくなき戦いなのです。

それと同じことを一つの人生を超えてやり続けようとするのが輪廻転生なのです。惨めさが伝搬して、惨めさを挽回しようとして次の人生の中に転生するというわけです。

もしも今回の人生の中で、惨めさを徹底的に見つめつつ、それが単なる思考の解釈に過ぎなかったと気づけたなら、もう次の人生は必要なくなるはずですね。

シンプルな真実

この世界には全くもって不可思議なことが横行しているのです。A という存在が B になろうとしてみたり、あるいは A になろうとしてみたりするのです。

A はすでに A なので、A になることはできません。また、A が B になることも不可能なことです。

こんな単純明解なことが分かっていないので、上記のようなありえない目標を設定して頑張ろうとするのです。

ではなぜこんな幼稚な間違いをしてしまうのか?それは、存在とその属性とを同一に見てしまうからなのです。

A が金持ちになると、まるで B になれるかのような錯覚をするのです。A が A 以外の存在になれた試しは一度もないのに。

人生の初期の頃に、しっかりと挫折したり絶望することによって、A が B になろうとするとんでもない間違いを犯していたことに気づけるのです。

逆に言えば、幼い頃に自分の能力を過信して、ある程度の結果を残してしまうと、いつかは B になれるはずだという信念ができてしまうのです。

だから絶望は早ければ早いほどいいのです。あなたという存在が、あなた以外の存在になれないというこのシンプルな真実を忘れないことですね。

目標を脇に置く

私たちの誰もが、大なり小なり何らかの目標を持っていますね。社会的には目標を持つことはいいことだとみなされます。

明日までに資料をまとめる、1年以内に◯◯ができるようになる、5年以内に結婚する、10年以内に◯◯な仕事に就いている等々。

自我にとっては、目標は必要不可欠なものなのです。なぜなら、目標とは必ず未来にあるものです。

つまり目標をもつことによって、現在から未来に向かう空間が作られるのです。その空間を動くことが可能になって、安心するわけです。

もしも目標がなければ、現在という手詰まりな場所にいて身動きが取れなくなってしまうと感じるのです。

これは自我の幻想に過ぎないのですが、誰もがそこに陥っているのです。本当は、今この瞬間とは時間を超越した広大無辺を表しているのです。

思考がベースの自我にはそれが分からないのです。思考がとまり、今この瞬間の中に深く入って行けば行くほど、他には何もないと気付くのです。

人生において、目標をもつことが悪いことだとは言いませんが、1日のうち何度かはその目標のことを脇に置いて、現在に埋没する時間を体験することです。

それが目覚めを呼んでくるきっかけになるかもしれないのですから。

自然から不自然に遷移する理由

過去このブログで、怒りを抑える三つの要素と言うお話しをしたことがあったと思います。

それは、恐怖と罪悪感と自己否定感なのです。この三つのうちどれか一つでもやってくれば、怒りは自動的に抑圧されてしまうのです。

ところでこの話は、実は怒りという感情に限ったことではないのです。もっと本質的に言えば、この三つの要素によって自然な生き方が阻害されるということなのです。

自然さとは、無邪気で無防備な状態とも言えるわけで、幼い頃当然のように無邪気で無防備に生きていたはずが、ある時気がつくと不自然な生き方になってしまっていたということがあるのです。

上記の三つの要素のどれか一つでも繰り返し与えられると、子供はいつしか防衛をするようになるのです。

その防衛方法とは、本音を言わない、素直な自己表現をしない、素直な感情表現も抑える、こういったことが主なものです。

つまり思い切り自分を出し切ってその日を終えるという、かつての自然さを忘れてしまうことになるのです。

そうやって防衛に満ちた毎日に成り果てるのです。ここから抜け出すためには、無邪気で無防備だったころの自分を思い出すことです。

そしてその頃の自分の要素、つまり自然に生きていた自分のパワーを思い出すのです。それと共に生きることができるようになれば、自ずと防衛は小さくなっていくはずですね。