忘れていたこと

人生で一番最初にレコードを買ったのは、確か小学生の4年くらいの時で、昔懐かしいビートルズのドーナツ盤でした。何度も繰り返し聞いて、でたらめな英語で一緒に歌っていたのを覚えています。

そのあたりから音楽が自分の人生の一部になって、ずっと一緒に過ごしてきたのですが、いつの頃からかあまり熱心に聞かなくなっていました。

持っていたギターやシンセサイザーなども息子に譲ってしまったりで、楽器からも遠ざかることになってしまいました。

最近ではもうほとんどCDを買うこともなくなっていて、テレビもほんの少ししか見ないという生活になってしまったので、音のない生活に慣れてしまっていました。

ところが、ヒーリングセミナーを開催するのに音楽があった方がいいということで、久しぶりに様々なミュージシャンの楽曲を聴くことになったのです。

それで分かったのですが、聴いているだけで心が癒されていくのです。それは実は自分としては、とても意外な心の反応でした。

もうそうした知覚によって得られる癒しにはそれほど期待しないという気持ちがあったのですが、久しぶりに聴くと理屈なしに心が揺さぶられる感覚になりました。

ああ、やっぱり音楽はいいなあということを今頃また思い知らされたのですね。今後誰かお気に入りのミュージシャンにはまっていくということはないにせよ、音楽は大切な心の仲間だなと再認識することができました。

音のない本当に静かな世界というのもとてもすばらしいのですが、それも一つの音楽のジャンルだと思えばいいのかもしれませんね。

そして地球上には数え切れないくらいに沢山の音楽家たちがいてくれて、素敵な音楽をいっぱい生み出してくれることに感謝せずにはいられません。

中立な心

私たちは中立な心で生きていると思い込んでいます。つまりそれは、自分の外側で何かが起きたので、それに対して反応をしているだけだと思っているということです。

何事も起きなければ、いつでも中立で平静な心でいられると信じ込んでいるのです。朝起きたときに、雨が降っていて気圧が低下しているので気分がすぐれないだけだと感じているのです。

職場に出かける途中で満員電車を我慢しなければならないという現実によって、心が疲労してしまうと思っています。

仕事中に上司にいやみを言われたり、理不尽なことをされたりするから怒りが湧いて出てくると考えているのです。

そういういやなことが起きなければ、自分はいつも冷静で穏やかな心で居られる、それが中立だということを証明しているように思うのです。

しかし本当はそうではありません。私たちの心が中立で平静であれば、それを乱すようなことは何も起きないのです。

元々自分の心の中に怒りがあるからこそ、怒らざるを得ないような現実がやってきてしまうのです。こういうことを引き寄せの法則と呼ぶ人もいますね。

あらかじめあった、こうしたいという不満な思いこそが、その不満を正当化するような現実がやってきてしまう原動力なのです。

つまり心の奥の状態がそのまま現実の世界に反映されて起きているということです。何事も起きなければいつも平静でいられるというのは都合のいい解釈をしているに過ぎません。

心の中に隠し持っている様々な要素をすべてこの現実の世界に映して見せてもらっているというのが真実だということです。

この世界から争いが絶えないのは、心の中に争い続けているつもりになっている意識があるということを証明しています。

外側の世界に影響されてしまっているという思い、そうした信念を少しずつ手放していくことが心の癒しにはどうしても必要なことなのです。

それなくしては、決して本当の自分の心の状態を把握することができません。心は受動的なのではなく、能動的であるということを忘れないことです。

時間の流れ

今もまだ残っているかもしれませんが、以前はビデオを見るにはVHSが主流でした。今ではそれがDVDという円盤状の媒体になり、そして最近ではブルーレイというものに変わりつつあります。

あの媒体の中に数時間分の映像や音が収録されているわけです。私たちがその円盤状のものを見るときにはその内部に時間があるとは見ません。

円盤はただの円盤に過ぎないと分かっています。ところが、特殊な再生機械であるプレーヤーにかけると、時間と空間の中で物事が起きているように見えるのです。

本もそうですね。自伝などを読んでいると、その人の一生分の時間の経過がそこには盛り込まれています。しかし、本は本に過ぎません。

つまり、時間や空間というものがあり、そこで何かの事象が起きているという認識は、私たち自身の内面にのみ存在するということです。

時間は過去から現在を通過して未来へと止まることなく流れているというように感じるのは、心の中での認識に過ぎないのです。

敢えて言えば、DVDを鑑賞した時間の全てがその媒体の中に全部凝縮されているということです。時間の流れではなく、一瞬でしかありません。

私たちのこの現実も本当は同じことが言えると考えることができます。時間の流れは本当はなくて、一瞬にすべてが起きていると考えられるのです。

ということはこれから起きると思っている未来はもうこの世界の事象を全部含む無限とも思える容量を持った大きなDVDの中に納まっているのです。

未来は不定なのではなくて、すでに決まっているということです。それならあくせくすることなく、ただ喜びや楽しみを満喫するだけでいいと分かります。

こうした気づきは人生をより豊かな気持ちで過ごすことができるようにしてくれます。人生にまつわる様々な不安や恐れからも開放してくれるのです。

手助けしたい気持ち

目の前にいる幼い子が何かを一生懸命にやっていて、もう少しで目標を達成しそうになっているのに、なかなかそこから進めないでいる姿を見たら、誰だってちょっと手を差し伸べたくなるものです。

ほんの少しだけ力を貸してあげるだけで、必ず成し遂げられると分かっているのに黙って見ていることは何だかせつなくなってしまうかもしれません。

どうすればできるのかを知っているものが、その方法を教えてあげるのは親切かもしれませんし、余力のあるものが力を貸すというのは決して悪いことではないですね。

しかし、自分が黙って見ているのが辛いという理由だけで、勝手に手を出して助けようとしてしまうことは余計なことなのかもしれません。

幼子に限らず、人は誰でもそれまで出来なかったことを、自分だけの力でできるようになりたいと望んでいるものです。それは楽しみでもあり、喜びにも繋がることだからです。

やりたいからこそ頑張るのであって、頑張ることを褒めるよりも、何かを喜んでやろうとしていることの方をむしろ褒めるべきではないかと思います。

そしてそういう場合には、なるべく手を貸さないようにしてあげることが本当の愛なのです。なぜなら、本人はそれを喜んでやっているからです。

しかし、頑張るというときには、ただそれを楽しみたいからという理由以外に、やらねばならないからという場合も往々にしてあるのです。

それは不安や恐れから逃れようとする自己防衛が理由であるため、それを褒めてしまうと人生を楽しむという原点の大切さを忘れさせてしまうことになるかもしれません。

やりたいから頑張っているときには、心が喜んでいるために本人は苦しみを感じないのですが、やらねばならないので頑張っているときには、自己犠牲から苦痛を感じるのです。

私たちはとかく歯を食いしばってやり遂げることに価値を見いだそうとしてしまいますが、決して忘れてはならないのは本人がそれを楽しめているのかどうかという点なのです。

そこにこそ、唯一の価値を見いだすことができるのですから。それをすばらしいと感じ、それを賞賛することが大切なのではないかと思います。

安易に手を貸してしまいたくなる自分の気持ちをしっかり受け止めたうえで、相手の喜びや楽しみを奪う結果とならないように注意したいものです。

頑なな心

子供のころ、自分はあまり親の言うことを聞かない子供でした。それも変なところで意地を張ってしまい、損をするということが日常的にあったと思います。

あるときに、家族で海にでかけたのですが、3歳くらいの自分は絶対に海に入らないと頑張っていたことがありました。はっきりとは理由は覚えてないのですが、何となくいやな感じがしたという程度だったと思います。

いよいよ夕方になって、周りにいた人達が帰っていくなかで、まだ海には入らないと一人抵抗していたと思います。ほとんど人がいなくなったときに、やっと海の中に身体を沈めてみたらそれがとても冷たくて火照った身体に気持ちがよかったのです。

さあそうなると、今度は親がそろそろ暗くなってきたから帰ろうといっても、海からあがろうとしなくなるというへそ曲がりだったのです。

それだったら最初から素直に入っておけば長い時間楽しめたはずなのにと思うのですが、そこは変わった融通の効かない仕方ない子だったのです。

また激しい偏食でほとんど何も食べることができなかった子供時代に、母親が心配して「これおいしいから、騙されたと思って食べてみて」と促すことがよくありました。

それを聞くと、自分は騙されたくないと強がるだけで、絶対に口にしようとはしませんでした。それで、食べ物に関しては途方もなく母親は苦労をしたと記憶しています。

唯一食べられるカレーの中ににんじんを摩り下ろして秘密に混ぜてみたり、そういうことで何とか野菜を食べてきたのだと思います。

こうした頑固な性格であったにもかかわらず、親は何も強制することもなかったので自分は常に自由でいられました。このことは今となっては本当に感謝せずにはいられません。

そして、クライアントさんとのセッションにおいて、自分がどれほどアドバイスをしたところで頑なにそれを拒むクライアントさんを目の前にして、かつての幼い頑固な自分を思い出すのです。

ああ、自分もいやなものはいやだと拒んできたなと。それでいいんだと。否定したり、強制するものではないということを思い出すことができます。

時期がきたら、きっと自然とその頑なさゆえに拒む気持ちは和らいで、あれほどいやだと思っていたことでも気づくとできるようになっていたりするものです。

いやなことはいやだと、できないことはできないとはっきりと主張していいということです。それを認めることが実はとても大切な癒しに繋がることなのですから。

癒しの仲間

確かに初めてお会いした人なのに、どうもどこかで会ったことがあるような気がするということがあります。場合によっては相手にそのことを確認してしまうことすらあります。

「前に一度お会いしていませんか?」と。大抵は人違いですかね、ということで終わりになるのですが、相手も同じように会ったことがあるような気がしている場合もあります。

とても不思議なことですが、そういうことはそれほど珍しいことではないかもしれません。人と人のご縁というのはどこでどのようにして繋がることができるのか、興味深いものがあります。

奇跡のコースの教師用マニュアルに書いてあるのですが、人はもちろん独りで癒しを進めていくことはできません。

必ず共に癒しをしていく仲間がいるということです。それは、講師と受講者という形をとるかもしれませんし、セラピストとクライアントという場合もあるはずです。

どんな形態であったとしても、共に学んで癒しを進めていく大切な仲間同士であるということに心から気づいて、感謝することですね。

そして、その仲間はある期間だけ一緒に学ぶこともありますし、そこそこ長期に渡って共に進めていく場合もあるようです。

たとえ別れがあったとしても、それはそれでそういうプロセスなんだと受け入れることも大切なことです。受け入れられないとそこに執着が生まれてしまいます。

初めて会ったような気がしないという人とは、もしかしたらそうした一緒に癒しを続けていく仲間同士であるかもしれませんね。

私の周りにはそうした人たちがたくさんいて下さって、とても幸せです。新しい癒しの出会いがあり、また新たな癒しのための別れもあります。

そうしたプロセスをすべて受け入れて、ただありがとうの精神でみなさんとご一緒に癒しを続けていけたらいいなと思っています

進歩の原動力

この世界は日進月歩の発展を続けています。より便利に、より快適に、より楽に、より速く、より安く、というようなことを継続して続けていますね。

自分が子供の時と比べると、すっぱい果物というのをあまり見かけなくなってきました。品種改良によって甘くておいしいフルーツばかりになったと感じざるを得ません。

音楽を楽しむのに、大きくて扱いずらいレコード盤からCDやMDへ、そして今ではファイルでダウンロードしてポケットに入れて楽しめる時代になりました。

東京から大阪へ出かけるときにも、小学生のときに新幹線ができて、その後も新幹線のスピードが徐々に上がっていって、いずれはリニアモーターカーの出現によって一時間程度で着いてしまう時代がやってくるのでしょう。

便利に快適になっていく原動力とは一体なんだと思いますか?それは実は不満を感じる我々の感覚なのです。満足していたら、それ以上のものを望まなくなるからです。

ということは、とどまることなく進歩しているということは、それだけ我々の心が満たされていないということの証明になってしまうのです。

私たちの望みは限りがありません。何かの不満を満たしてもらったら、すぐにその次の不満が出てきてしまうのですから。

そうして、次々と願いを現実化していくのです。それなくしては、世界の進歩はないということです。では、もしもみんなが満たされた心になってしまったらどうなるのでしょうか?

今この瞬間に完全に満足してしまったら、何も願うことも望むこともなくなってしまうのですから、進歩はなくなってしまうはずですね。

でもそれはそれで構わないのです。なぜなら、満たされているのですから。私たちの暮らしが便利に快適になるのは、幸せではないからということです。

これってずいぶんと皮肉なことだとは思いませんか?世の中の変化に目を見張るだけではなく、決して変わることのない満たされた心をいつも感じていることができたら、とてもすばらしいと思います。

インナーチャイルドの意識

数え切れないほどの催眠療法をやってきて、本当によく分かったことがあります。それは、インナーチャイルドとか、幼い頃の意識とかがそのまま残っているということがありありとした事実だということです。

ある瞬間に現在の大人の本人の意識から、子供の頃の意識へチェンジすることがあります。それは大抵感情を伴った場面で起きるのです。

それまで子供の頃のことを大人の自分が回想しているという状態だったのが、急に主観としての子供の自分に戻ってしまうのです。

そうなると、大人の自分の意識ではとても説明できないようなかつての幼かったあのときの自分の気持ちが克明に蘇ってくるのです。

その気持ちが自分を支配することを大人の自分が許してあげていると、その子は長い間出現して当時のそのままの感情を表現してくれます。

それは当時の自分が抑圧して、我慢して表面に出さないでいた本音や感情が出てきてくれるのです。長い間封印していた都合の悪い自分の気持ちが表出するのです。

ですから、それはもうなんとも言えない快感があるのです。数十年に渡る便秘が解消されたような、すっきりとしたいい気持ちになれるのです。

抑圧していたそういう本音や感情を解放してしまうと、それまで理由がわからないままに悩んでいた様々な問題が知らず知らずのうちに解決してしまうことがよくあります。

それは、考えてみれば当たり前のことなのですが、満たされていない不満だらけの思いを表面化することで訴えていたエネルギーがある程度沈静化するからなのです。

分かってあげる、受け止めてあげるということがこれほど効果があるものなのかとびっくりするほどです。

自分の心の奥深くに抑圧してしまった本音や感情を表面化してあげるだけで、しつこく自分を悩ませていたいろいろな症状が緩和されたり、治ってしまったりするということがあるのは不思議なことではないのです。

強迫性障害

出かけるときに家の鍵を閉めたかどうか不安になって、戻って確認してしまうという人は意外に多いものです。これはクセではなくて、不安な心がそうさせてしまう一種の症状だと言えます。

鍵だけでなくて、電気を切り忘れていないかとか、ガスの元栓を閉めたかどうかなど、確認しないではいられない症状は本当に多岐に渡ります。

症状が軽い場合には特に気にする必要もないのですが、何度も繰り返さねばならないとなると、遅刻してしまったりすることも出てきます。

そうなると、本人としてもとても困ったことになったなと自覚するようになるかもしれません。この不安からくる症状は、確認だけではなくて、いくら手を洗っても洗い終えた気になれないというような症状の場合もあります。

お風呂で何度身体を洗おうと、何度シャンプーしてもどうも洗えてる気がしないというようなものです。ひどくなると、何時間もお風呂から出られなくなってしまうこともあるのです。

こうしたものは、精神医学の世界では強迫性障害というように呼ぶこともあるようです。私自身は病名には何の思い入れもありませんので、なぜそうした症状が発生するかということと、どうすればそうしたことが治るのかということにだけ興味があります。

そうした症状をお持ちのクライアントさんと対面していて、私が個人的に感じるのは、どうもそれは満たされない強い不満な気持ちを持った意識が邪魔をしているように思えるのです。

何かをやり終えると本人はすっきりとした気持ちになってとりあえず満足するのです。手を洗い終えたとき、鍵をしっかりと閉めたとき、そうした一種の満足した気持ちになるのです。

ところが、その満たされない気持ちがそれを妨害しようとして、いつまでもやり終えて満たされた気持ちにさせないという症状が出てくるのではないかと感じるのです。

大人の自分だけに満足させてなるものかという感じで、心の奥に潜む満たされてない自分の意識が邪魔をするということです。

したがって、その症状を緩和するためには、満たされていないで文句を言っている昔の自分のことを思い出して、その心を受け止めてあげることが必要なのです。

こうした症状はかなりしつこいものですので、自分一人ではなかなか解決できない場合が多いかもしれません。専門家に相談することも一つの手ではないかと思います。

無価値感の原因

誰もが幼いころに、自分は駄目なんだという間違った思い込みをしてしまうのです。それはきっと思い出せないような2~3歳くらいの時に心の中でやってしまうことのようです。

ですから、多くの人はその自覚すらありません。私たちが自覚できるようになるのは、その後少したってからのことです。

幼稚園に行きだすくらいになると、自分への駄目出しに自覚できるようになる子もいます。その頃になると、駄目出しの理由もはっきりするのです。

しかし、一番最初に駄目出しをするようになった頃の本当の理由は明らかにはなっていません。なぜなら、そこには駄目出しするような本当の理由はないからです。

理由もないのになぜ駄目出しをするようになってしまうかというと、それは何かとても耐え難いと感じるような事態がやってきたと感じているからです。

それは、場合によって異なりますが、たとえば弟や妹が生まれて母親にとっての一番を奪われてしまったと感じることかもしれません。

あるいは、今まで怒られたこともなかったはずなのに、どういうわけか大好きな親からきつく怒られるようになったと感じることが原因かもしれません。

理由は様々ですが、共通していることは気が付いたら急に毎日が辛く苦しいものになってしまったということなのです。

その時に、幼い子はそれはきっと自分が駄目だからに違いないと思い込もうとするのです。そうすることで、苦しさに理由付けをして何とか自分の気持ちをやり繰りしようとするということです。

そしてそんなことは、すっかり忘れて成長していくわけです。そして後に残るものといえば、理由がはっきりしている自分への駄目出しだけなのです。

それは勿論後付けの理由であるわけで、大元の駄目な理由は隠されたままになってしまうのです。その大元の駄目な理由は実は何もないので、結局自分の存在自体が駄目なのだという苦し紛れの理由をでっち上げるのです。

それが、自分の存在価値に気づかない心、つまり無価値感というものを作ってしまうのです。もしも、心当たりがあるときには、自分を駄目出ししている幼い気持ちに寄り添ってあげることが癒しの第一歩になるのです。